ホーム >
映画評:ベルトリッチ『暗殺の森』
この記事の最終更新日:2006年4月22日
(以下の映画評は2001年8月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。)
正常と異常を巡る物語。主人公は異常から正常へ移行しようとする。妻に正常者を迎えるが、彼女もまた異常者だった、正常を規定する社会自体も異常だった、当時のイタリアはファシズムに狂っていた。正常の定点が見当たらない、みな人物はどこか異常性を秘めている。社会が正常を規定するのだから定点が流動するのは当然だが、それでも主人公は正常であろうと必死になる。ファシズムが終結すると、主人公は大衆と同じように新しい体制に順応しようとする。ラストシーンは、主人公が牢のようなものの中から、こちらを振り返り見つめる場面である。結局正常にはなれなかったのだろうか。よくよく考えてみると、当初正常を規定していた異常なファシズムが終わっても、社会は真に正常化しなかったのではないか。人々はファシストがいなくなるとすぐ新しい体制に適応してしまう。流されやすく自分の意志がない、政治もまたすぐ腐敗していく運命、主人公のような卑怯者ばかりの世界、結局正常など何処にもない世界で、主人公は牢のような部屋からこちらを哀しく見つめる。映画の中は異常しかなかったが、スクリーンのそちら側は正常な社会であろうかと問うかのように。
ラスト近くの暗殺シーンが、映画のなかで死を描いたシーンのうちでも有数の、哀しみを強く喚起させるものなので、なぜそれほどまで哀しみをひきおこすかの理由を記す。
殺される教授は前の車が不自然に止まっているのを見て、車から出て様子を見ようとする。妻のアンナは不吉な予感を感じ、彼を止めようとするが、教授は事故かもしれないと出ていく。殺される教授の善良性がまず観客に示される。教授の車の後方をつけていたスパイと 主人公が教授を暗殺するのかと期待していたのに、森の中から次から次へと無名の暗殺者達が現われ、教授に攻撃を加える。顔も見えない、心も見えない、ただ殺すためだけに現われたファシスト達に教授はリンチにあうようにして殺される。雪深い静寂の森での暗殺劇という映像美、何の抵抗も示せずいじめられるようにして殺される教授の無力さ、徹底的に死が確認されなければならないように何度も虐待される残虐性。それを哀しく自動車の中で見つめるアンナ、動けない哀しさ、昔の恋人もファシストに捕まっており、いまだ陵辱を受けているという事実が哀しみを重層化する。そしてまた、主人公は殺しにきたのに殺せない、じっと冷静を装い、殺戮を見つめる彼の心の弱さも事件の悲しみに重なっていく。
教授の殺戮が終息するとアンナは車を飛び出し主人公の車に向かい、まず運転席でスパイを確認する、後部座席に主人公がいるのに気づくと、彼の横の窓にはりつき何かを訴える。やはりお前は教授を殺しにきたのか、ファシストは最低だ、なぜお前が彼を殺さないのか、なぜ私の問いかけに答えないのか、せめて窓を明けろ、なぜ無表情なのか、教授の命を返してくれ、彼女の悲痛は言葉とはならず叫び、喘ぎとなる。観る者の想像力をかきたてる。主人公は無言で彼女を見つめているだけだ。主人公は彼女を愛しているのに、何も答えることができない。彼女まで殺さなくて済む様に、教授だけが車に乗っていることを願って暗殺にきたのに、彼女はやはり教授と一緒にいた。その無力感もあるだろう。無言の嘆きの場面が教授の死の哀しみを膨らませる。
アンナは無力感に襲われたのか、暗殺者達が自分を狙っていることを感じたのか、開かない窓を離れ森へ逃げていく、泣きながら。白い森で彼女は銃に何発か撃たれる。今度は暗殺者が彼女のごく近くでリンチする姿は描写されない。遠くからはなたれる銃により顔面を真っ赤にした彼女が雪の中に倒れこむ。
再び静寂が戻るが、主人公はそれでも車の座席から動こうとしない。運転席にいたスパイは外に怒って飛び出し、彼を卑怯者と罵り、むなくそ悪さを吐き出す。卑劣な仕事であるスパイを行う彼の目からみても、主人公はどうしようもなく情けない男に映る。
クライマックスだけ取り出すのは未熟な観察者のやることだが、このような哀しみをひきおこす殺戮の場面は観た事がなかったので、やってしまった。伏線をはりめぐらし、何重にも哀しみを増幅させてくれた監督の技術に降伏した。殺戮の場面で台詞が何もなかったことにより想像力が自分だけの哀しみを作り出してくれた。色彩豊かな映像美がそれを手助けしてくれた。