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sidehill『環境問題の存在』(ワークタイトル)序論

この記事の最終更新日:2006年6月4日

ラ・バルト著『ハイデガー 詩の政治』を読み、思ったこと。

ハイデガーは現代の哲学を、単なる職業的技術、専門に堕落したものと考えている。ギリシアの哲学は全ての学問の根源となるものだった。ギリシアだけでなく、デカルトもカントもヘーゲルも、偉大な哲学者たちは、世界の全てを基礎づける知として哲学をとらえ、そうした発想のもと、書を記していた。自然科学、人文科学全てを基礎づける学としての哲学。

ハイデガーにとって哲学は、あらゆる知的活動を基礎づけるだけでなく、人間の活動の総体を基礎づけ、方向を定める、社会活動の大羅針盤とも言える学問であった。この考えはギリシアの遺産を継承しようとするドイツロマン派の伝統に沿うものだった。宗教も、政治も、科学技術も、人間生活の全てを基礎づけるものとしての哲学。こうした哲学のあり方は、日本の大学における哲学科となんと異なることだろう!

私が大学院に進まなかったこと、進む気力がくじかれたこと、その最大の原因は、大学で専門家として知的修行を積んでも、結局学問という小さな専門領域だけで、人生の営みを終えることになるのではないかという危惧があったためだった。専門的な修行を積むことで、私はある業種のエキスパート、プロフェッショナルとなることができるが、そうして自分の人生を限定させてしまうことが非常に嫌だった。

ハイデガーは、哲学が哲学と呼ばれる前の、プラトン以前の思索を目指している。何の専門でもないもの、しかし、全ての問題の根源となる問題について真摯に思索すること。哲学が哲学と呼ばれ出し、専門の過程となった途端、根本問題は、そのにせの思考から逃れ去る。

何の専門にもなっていないもの、どのようなマニュアルも成り立っていないもの、成り立たないままに、思考の作業を進めるもの、対話でも論文でも小説でもないもの。はじまりにあって哲学は、小説とも詩とも政治とも宗教とも区別がつかない、存在の思索となる。

何の専門にもならずに、全ての大前提となる問題を問うこと。それは哲学でも小説でもない。私が書きたいもの、言葉として残して行きたいものはこれだと思った。何の専門にもならないから、どのような資格も必要なく、どのような試験にも合格しえない、どのような受賞も拒否する、いまだ何者でもないが故に全ての人間活動を基礎づけるロマン派的、古代ギリシア的な哲学。これを今後書き続けて行こうと思った。

ただ、こうした思索の方法には大きな問題がある。全てを統一して語る知のありかたは、ファシズムに親近性を持つとラ・バルトは指摘する。何にも区別をつけず、ある一定の理想に向けて、人間の活動を統御していくこと。これはファシズムである。

ヘーゲル的な哲学のあり方は、一方にマルクス主義を生み出し、一方に全体主義を生み出した。20世紀の大きなあやまちは、共産主義とファシズム、二つをまとめたものである全体主義と、植民地主義を蔓延させたことである。全体主義と植民地主義の萌芽をドイツロマン派の思想は抱え込んでいる。

人間活動の根本となる思索を21世紀において展開すればそれは、全体主義と植民地主義との対決となるのではなかろうか。

ここで私が成そうとしている著作は、しかし、全体主義と植民地主義ではなく、環境問題の思索へと向かう。全体主義、植民地主義、資本主義、人が生きていることの帰結として、環境問題が存在する。環境問題の存在をニーチェのように険しく見つめること。人が生きていることの存在理由があるとすれば、それは環境問題との対決である。



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(c) Sidehill