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(以下の書評は2005年11月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。)
シッダールタ(新潮文庫) 新潮文庫版のタイトルは「シッダールタ」となっています。 関連作品 荒野のおおかみ 知と愛 幸福論 デミアン 春の嵐ーゲルトルート by G-Tools |
ヘルマン・ヘッセ「シッダルタ」手塚富雄訳。中央公論社「新集世界の文学27ヘッセ」所収、1968年発行。原著は1919年に書き始められ、1922年に刊行された。第一部はロマン・ロランに、第二部は長く日本に滞在した徒弟のヴィルヘルム・グンデルトに捧げられている。
シッダルタという題名から、仏陀を主人公にした小説かと思われるが、仏陀はゴータマという名前で小説に出てくる。
シッダルタはバラモンの子であり、ゴヴィンダとともに育った。彼らは沙門として、禁欲、苦行、静思の行に入る。修業中の二人の耳に、輪廻を解脱して涅槃に達したという仏陀ゴータマの噂が届く。ゴヴィンダはゴータマの元で修業したいと言うが、シッダルタは沙門の修業を離れて新しい教えに飛びつくことを批判する。シッダルタは仏陀の教えに何も新しいことを期待せず、すでに教えの果実を知っていることを信じながらも、ゴヴィンダと二人沙門を離れ、仏陀に会いに行く。
「彼は教えに対して好奇の心を寄せていなかった。そこから新しいことを学びえようとは信じていなかった。彼もゴヴィンダも、人の口から口に、さらに重ねて人の口から口につたわった言葉によってではあるが、すでに幾度も仏陀の教えの内容を聞いていたのだ。しかし彼は一心にゴータマの頭、その肩、その足、静かに垂れた手を見つめた。そして彼には、その手の指のどの関節も教えそのものであり、真理を語り真理を呼吸し、真理をにおわせ真理をかがやかせているように思われた。この人、この仏陀はその小指のはしの動きに至るまで真なのだ、この人こそ神聖なのだ。およそシッダルタにとっていままでこれほどに崇敬と親愛を感じた人はいなかったのだ」(p237)
シッダルタは仏陀の言葉ではなく、みずからの教えを体現した立ち居振舞に感銘する。ゴヴィンダは仏陀の教団に帰依するが、シッダルタは一人で修業する道を選ぶ。ゴータマ自身に対面したシッダルタは教団に入らない理由を説明する。
「世尊は死からの解脱を得られました。世尊はそれを、世尊みずからの求道により、世尊みずからの道程により、瞑想により、沈潜により、認識により、開悟により、得られたのでございます。教義によって世尊はそれを得られたのではございません。そしてーーこれがわたくしの考えでございます。おお、尊者よーー何びとにも解脱は教義によっては授けられぬのでございます。何びとにも、おお、世尊よ、世尊はことばと教義によって、世尊の成道の瞬時に世尊の心に起こりたまいしことを、つたえ、また語ることはできないのでございます。(…)これがわたくしの遍歴をつづける理由でございますーーけっして他の、よりよい教えを探すつもりはございません、ーーこれ以上のよい教えがないこと、それをわたくしは承知しております、ーーいいえ、あらゆる教えとあらゆる師とを去って、ただひとりでわたくしの目標に達すること、そうでなければ死に身をゆだねることがわたくしの願いでございます」(pp240-241)
「外からの命令に従うことなく、進んで内の声に聞き入ること、それが善なのだ、必要なことなのだ、他の何も必要ではない」(p248)
シッダルタはゴータマが達した悟りに自分もたどりつくため、ゴータマの教えを傾聴するのでなく、ゴータマがしたのと同じく、あらゆる外の教えを離れて、自分の心の声を聞くことにする。
シッダルタは河を渡って街に入り、カマラという女の指導のもと、商人として成功していく。俗世の快楽と富がよいものでないことをシッダルタは子供の時から学んでいたが、言葉でなく、自分の体験として実感する。彼は豪商の地位を投げ打って河辺に移り、身なりをやつして、河の渡し守とともに生活する。
河辺のシッダルタのもとに、カマラがシッダルタの子を連れてやってくる。カマラは粗末な家で死ぬ。残された我が子をシッダルタは育てようとするが、街の裕福な暮らしになれた子供は清楚な暮らしに馴染もうとしない。そこで渡し守はシッダルタに、子供を街に返すようさとす。
「きみは彼を強制しない、打ちはしない、命令はしない、それはきみが、柔は剛より強く、水は岩より強く、愛は力より強いことを知っているからだ。それはたいへんいいことだ、わたしはきみをほめたい。けれど、きみがあの子を強制しない、罰しないと思っているのは、きみの思い違いではなかろうか。きみはきみの愛であの子を縛っているのではなかろうか。きみは毎日あの子を恥さしているのではなかろうか。きみの寛大と忍耐とで、ますますあの子をたまらなくさしているのではなかろうか。」(p296)
シッダルタは子供を快楽と権力に溺れた街に送り返すことをためらうが、河辺で一緒に暮らす渡し守は、誰もあの子を守ることはできないと言う。
「彼がみずからの生を選び、みずからを生で汚し、みずから罪を負い、みずから苦い汁を飲み、みずからおのれの道を見いだそうとしたのを、どの父、どの師が食いとめることができたろう? 友よ、きみは、こういう道筋がこの世のたれかには免除されていると信じているのか。おそらくはきみの息子だけにはと? それはきみが彼を愛しているからだ、きみがあの子に苦しみや悩みや幻滅を味わわすまいとしているからだ。しかし、たとえきみがあの子のために十度命を捨てても、きみはそれによって彼の受けるべき運命の切れはしさえも彼から取り除いてやることはできないだろう」(p207)
シッダルタは子供を街に送り返すが、子連れの旅人を見る度、彼らの幸福をうらやむ。同時にシッダルタは今まで軽蔑していた俗世の人々に共感する。
「彼は彼らを理解した、思索や分別にみちびかれず、ただ衝動や希望にだけみちびかれている彼らの生活を理解し、それと同じ気持を自分のうちに感じた。(…)彼らの虚栄、貪欲、喜劇をも、彼はもはや笑止なことと見ることはできなくなった、それは彼に、理解し、愛することのできる尊むべきこととさえ思われた。(…)彼は、彼らのすべての煩悩、すべての所業のうちに、生命、活動、不滅そのもの、梵天(ブラフマン)を見た。これらの人々はその盲目的な誠実、盲目的な力と強靱さによって、愛すべく、また嘆賞すべき存在である。知者、瞑想家にくらべて、何ひとつ劣った点がない、もしあるとすれば、それはただ一つの些事、ただ一つのきわめて小さな事柄にすぎないのだ。それは「いっさいの生命の統一」についての意識、それについての意識された思想だけなのだ。それだけが彼らには欠けているのだ。そのうえシッダルタはときとしてこういうことまで疑った、『生命の統一』についての知識、この思想がそれほどに高く尊重すべきものだろうか、それもおそらくは一つの児戯にすぎないのではなかろうか、(…)他のいっさいの点で世間人は賢者と同等なのだ、ときとしてははるかに賢者にまさっているのだ、動物でさえ、その強靱な、断固とした、必然にうながされた行為においては、しばしば人間にまさって見えることがあるのと同様なのだ」(pp302-303)
シッダルタは商人の生活をしている時も、俗世の人を沙門の立場から批判的に見ていたが、ここにきてようやく愛の境地にいたる。
渡し守として生活しているシッダルタのもとに仏陀の教団に所属したゴヴィンダがあらわれる。ゴヴィンダは賢者と噂される渡し守をかつての友と気づかずに話しかけ、教えを求める。シッダルタは、あまりに多くのものを求めすぎているために、求めているものを見つけることができないのではないかと語る。
「求める人の眼が、ただ求めるものだけを見ているために、何物をも見いだすことができず、何物をも心に受け入れることができないのです。それはつまりその人がただ求めるものばかりを考えているからです、目標があり、その目標に取りつかれているからです。『求める』とは何かの目標を持つことです。しかし『見いだす』とは、とらわれぬこと、懐をひらくこと、目標をもたぬことです。御僧よ、あなたは真実を『求める人』のように思われます。なぜならあなたはあなたの目標を追うあまりに、幾度かあなたの眼の前にあるものに気づかぬから」(p308)
賢者の渡し守は、自分がゴヴィンダのかつての友シッダルタであったことを明かす。ゴヴィンダは目の前の賢人がかつての友だということさえ見いだせなかったことを恥じる。シッダルタはさらに自説を語る。
「『知識』を人につたえることはできる、しかし『知恵』をつたえることはできぬのだ。知恵を見いだすことはできる、それを生活し味わうことはできる、それを自分の力とすることはできる、しかしそれを口に言い、人に教えることはできない。(…)あらゆる真理が言われるとき、その正反対も同様に真理だということだ、言いかえれば、真理はつねに、それが一面的である場合にだけ、口に言われ、ことばの衣裳につつまれることができるのだ。思想で考え、ことばで言われうるようなものはみな一面的なのだ。みな一面的、みな半面的で、全体性、渾一性、統一性を欠いているのだ。世尊ゴータマも世界について説かれるとき、これを輪廻、涅槃、迷いと真、煩悩と解脱とに二分せねばならなかった。ほかに仕方はないのだ、教えようとする者にとってほかに道はないのだ。しかし世界そのもの、われわれのまわりにあり、われわれのうちにある存在者は、けっして一面的なものではない。」(p310)
世界と永遠、苦と解決、悪と善の間にあるように見えるへだたりも、一つの迷いにすぎないとシッダルタは言う。
「罪人のなかにいま現に、今日すでに、未来の仏陀があるのだ、彼の未来はことごとくいまそこにあるのだ、君は彼のなかに、きみ自身のなかに、一斉衆生のなかに、成りつつある仏陀、可能な仏陀、かくれた仏陀を尊敬しなければならないのだ。わが友ゴヴィンダよ、世界は不完全なものではない、もしくは完成への緩慢な歩みの途上にあるものでもない。いや、世界は一瞬一瞬に完全なのだ、あらゆる罪業はすでに恩寵をそのうちに抱いている(…)いっさいはただわたしの承認、わたしの好意、わたしの愛にみちた同意さえ受ければよい、そうすればいっさいはわたしにとって善であり、けっしてわたしを害うことはありえないのだ。わたしはわたしの身と心によって体得したーーわたしが罪を大いに必要としたことを、快楽を、物欲を、虚栄を、最も恥ずべき絶望をも必要としたことを」(p310)
ゴヴィンダは、仏陀は世界を愛することを迷妄と認識し、愛によって地上のものとつながることを否定したと反論する。
「愛についてのわたしのことばが、ゴータマのことばと矛盾していること、外見上矛盾していることを、わたしはいなむことができない。それゆえにこそ、わたしはことばに対して信頼をもたぬのだ、なぜなら、この矛盾はただ見せかけの矛盾にすぎないことをわたしは知っているから。わたしはわたしがゴータマと一致していることを知っている。あらゆる人間生活の無常と空虚を認識しながら、しかも人間衆生をあれほどに愛して、長い労苦にみちた生涯をただ彼らを助け教えることにだけついやされたあの方が、どうして愛を知らぬということがありえよう。(…)仏陀の行為と生活は、仏陀の教説よりも重大なのだ、仏陀の手の動かれるさまは仏陀の意見より重大なのだ。ことばと思想にわたしは仏陀の偉大を見ない、ただその行為に、その生活に偉大さを見るのだ」(p314)
ゴヴィンダはシッダルタの思想を阿呆が語る風変わりな言葉のように感じ、仏陀の確固とした教えに比べて劣ったものと考えるが、シッダルタの眼差、呼吸、微笑、挨拶、歩き方、体のすべての部分は柔和で神聖の光を発していると感じる。ゴヴィンダは微笑むシッダルタを仏陀の入滅以来の聖者だと認識して、頭を垂れる。
以上が「シッダルタ」の要点解説である。シッダルタは「生命の統一」という言葉による真理を、言葉から徹底的に離れることで体得した。周囲への愛が「生命の統一」を感じる彼から溢れ出る。教説は互いの絆を分断するばかりで、無限の分裂を創り出してしまう。仏教徒でも仏陀の認識にたどりつく者は少ないし、仏教は教説として確立されると、キリスト教やギリシア哲学と反目してしまう。地球規模の連帯は言葉ではなく、愛によって達成されるだろう。
ヘッセは青春文学の作家と目されている。私は「デミアン」「車輪の下」を読んで、「シッダルタ」にたどりついた。「デミアン」は、作者の都合がいいように物語が急展開しすぎていると感じた。主人公に教育的言葉を吐く人物の登場の仕方が性急なのである。満足いかなかったので、書評は書かなかった。ただ、これは新しい小説の書き方だったのではと感じた。「デミアン」以前に書かれた「車輪の下」は、順当に近代文学の描写がされていて、ヘッセは「デミアン」で新しい境地を切り開いたのだと認識した。「デミアン」以後の、より求道的になった「シッダルタ」はおそらく「デミアン」同様に、作者に都合いいように人物が次々登場してくるが、違和感はない。近代でなく古代インドを舞台にして求道の物語が全面化しているせいか、ヘッセの書き方がうまくなったのか、とにかく「シッダルタ」は青春文学を離れたヘッセの紛れもない傑作である。
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