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(以下の書評は2003年1月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。元は大学時代「日本近代文学史」のレポートです)
中国行きのスロウ・ボート 村上 春樹 村上春樹の短編集他 レキシントンの幽霊 パン屋再襲撃 納屋を焼く・その他の短編 カンガルー日和 TVピープル by G-Tools |
村上春樹の最初の短編小説集『中国行きのスロウ・ボート』(中公文庫)から。
このレポートでは、村上春樹の短編「貧乏な叔母さんの話」を取り上げる。なお、引用する文章の元の頁数は、中公文庫の頁数による。
この短編の話者である「僕」は、小説家である。小説をいかに書くかという村上春樹自身の考察が、小説内に投影されているようである。しかし、「僕」は、作者である村上春樹ではないから、僕の考えを村上春樹自身の考えとして素朴に受け取ることは読み間違いである。と言っても、どう考えても、この短編内で示された小説に対する考察は村上春樹自身の悩みを投影しているとしか思えない。なぜなら、「貧乏な叔母さんの話」で行われた小説の書き方に対する哲学的考察が、『中国行きのスロウ・ボート』内にある「カンガルー通信」や「土の中の彼女の小さな犬」など他の短編内でも行われているからである。たとえ小説という言葉が小説内で出てこなくても、土掘りであるとか、芝刈りであるとか、様々なメタファーによって、いかに書くのかという問題が考察されている。
「書く」という言葉を使わなくてもよい、表現の問題が短編のいたるところで考察されている。表現の問題には、村上春樹自身の関心に従って、個の問題、完璧さと不完全さ、救済などの問題が必然的に絡まってくる。短編全体を読みこんで、村上春樹の小説に対する考え方を証明していくこともできるのだが、ここでは作者の存在を省き、「貧乏な叔母さんの話」というテクストのみを忠実に読んでいくことにする。
この短編で問題になってくるのは、小説を書くことで「僕」は不完全な存在を救うことができるのか、貧乏な叔母さんは何故「僕」から離れたのか、小説と詩の違いは何か、ということであるように考える。これらの問題を本文の読解によって解いていくこととする。
小説のはじめで、「僕」は連れの恋人らしき女性に「貧乏な叔母さんについて何かを書いてみたいんだ」(五六)と言う。いろいろ問答した後、「僕」の恋人は「今のあなたには何ひとつ救えないんじゃないかって気がするのよ。何ひとつね」(六〇)と言う。
注意すべきは、彼女の言葉の中で、小説を書くということが、何かを救うということに突然変換されていることである。第三節にある「なんだか小説を書く意味なんて何もないような気がするんだ。君がいつか言ったように、僕に何ひとつすくえないんだとしたらね」(七七)という「僕」の恋人との会話文により、「僕」は恋人の言った、小説を書くこと=人を救うことという突飛な変換を無批判に受け入れているようである。小説を書くこと=救うことという等号関係が、「僕」と彼女に共有されている前提だとすれば、「僕」は、貧乏な叔母さんについての小説を書くことで、彼女たちを救おうと考えているということになる。
しかし、貧乏な叔母さんについて小説を書きたいという思いが起こったとき、「僕」にはその動機の原因がわからなかった。ただの思いつきだったのだ。しかも、彼女は、あなたには貧乏な叔母さんなんて一人もいないのに、何故貧乏な叔母さんについて小説を書こうなんていうのかと「僕」に詰め寄る。「僕」は最初のうちは、書こうと思った理由がわからない。
何故貧乏な叔母さんについて「僕」が小説を書こうと思ったのかという動機は、第二節で「僕」自身が理由を後づけするようにして説明されることになる。貧乏な叔母さんとは、誰からも相手にされず、いるのかいないのかわからない、死ぬ前から名前の消えているようなタイプの女性だという。「僕」にとっての貧乏な叔母さんとは、親戚の叔母さんではなくて、どこにでもいる、目立たない、名もない女性たちなのだ。親戚の叔母さんではなく、彼女たちについての小説を書きたいのだと「僕」は表明しているようだが、定義づけだけで、そこまで明確な宣言は書かれてはいない。
注意すべきは、小説内の太文字部分である。名もなく死んでゆく貧乏な叔母さんたちであるが、生き延びてコミュニティーを作ることがあるかもしれないと「僕」は言う。その街の入り口の看板には「無用なもの、立ち入るべからず」(六四)と書かれているだろうと「僕」は言う。僕の空想に過ぎないのだが、太字であるので、ここは後の読解のために注意しておく。
小説後半、「僕」の背中に貧乏な叔母さんがはりついたというのだが、「僕の背中に貼り付いているのはひとつの形に固定された貧乏な叔母さんではなく、見る人のそれぞれの心象に従ってそれぞれに形づくられる一種のエーテルの如きものであるらしかった」(六六)という。「僕の背中に貼り付いているのも、結局は貧乏な叔母さんということばなんです。そこには意味もなきゃ形もない。あえて言うなら、概念的な記号なのです」(七二)とも言われる。
「僕」に会った人たちは、「僕」の背中に母親や、犬や、女教師の姿をみる。母親は、息子の男に辛気臭い思いをさせる。食道ガンで死んだ犬は、死ぬまで相当苦しんだという哀しい経歴がある。女教師にも不幸な過去がある。「僕」の背中にそれらの心象を見た人々は、「僕」に会うのを避ける。自分にとってそれほど重要でもないが、何か哀しい運命にあった他人の想い出が「僕」の背中に映されるようなのだ。人々はそんなものを見るのが嫌で「僕」を避けるのだが、ここに先程取り上げた「無用なもの、立ち入るべからず」という言葉が関係してくると考えられる。
貧乏な叔母さんとは、人々にとっての、自分より哀しい、つらい、惨めな境遇にあると思える存在なのだ。それらの存在に、普通人は触れたくないし、それらを思い出したくもない。だが、実はそれらの存在は街中にいっぱいいるものなのだ。だからこそ、貧乏な叔母さんたちは、「死ぬ前からすでに名前が消えてしまっているタイプ」(六二)と「僕」によって定義づけられたのだろう。対象に名前があるということは、その対象に自分が関係できるということである。見たくもない存在だから、彼女たちには名前がないのだ。たとえ名前があっても、人はそれらを名前で呼びなどしないのだ。人は彼女たちに用がない。これは「無用なもの、立ち入るべからず」という貧乏な叔母さんたちの街の入り口にある看板の言葉の裏返しともなる。看板にある関係を拒否する強気の言葉とは裏腹に、彼女たちは人と関わりたいのだと推測される。みんなから彼女たちは今まで拒否されていたからだ。
看板の言葉は、「自分の存在にまつわる困りごとに関係するのを拒否するようなやつはこの街に入ってくるな」というメッセージであろう。しかし、こういうメッセージが出るということは、私たちの悲惨な境遇を聞いてくれる人は、是非街に入ってくれと実は訴えているのだとも読める。まさしく、「僕」がやりたいのは、こういうことだろうと考えられる。しかし「僕」の周りの人たちは、貧乏な叔母さんを背中に抱えこむ「僕」と関わりたくないので、「僕」を遠ざける。「無用なもの、立ち入るべからず」という貧乏な叔母さんからのメッセージを遵守するようにして。
第三節で、恋人と「僕」との間で、貧乏な叔母さんに対する哲学的問答が起きる。「僕」は、貧乏な叔母さんを背負い込んだのに、彼女たちについての小説は「まるで書けない。もう、ずっと書けないかもしれない」(七七)と恋人に言う。「僕」は、貧乏な叔母さんにどういう存在がなるんだろうと恋人に質問する。恋人は、貧乏な叔母さんが存在する理由なんてたくさんある、そんなものを考えても意味がないと言い、
「彼女は存在するのよ。」彼女はそう言った。「あとはあなたがそれを受け入れるかどうかってこと」(七八)
と「僕」に諭す。
貧乏な叔母さんについて「僕」は文学青年的に深刻に悩んでいるのに対し、彼女はあっけらかんとした見方をしているようである。彼女の態度はしかし、貧乏な叔母さんの存在を拒否していた「僕」の友達たちとは異なる。貧乏な叔母さんの存在を受容している彼女には、僕の背中にある貧乏な叔母さんが見えないのだ。つまり、貧乏な叔母さんを拒否する人に対しては、僕の背中は貧乏な叔母さんを映し出すのに、彼女たちを受容している人に対しては、僕の背中は何も映し出さないようである。ただし、貧乏な叔母さんをどう救い出そうかと深刻に悩んでいる「僕」を気遣って、本当は彼女にも見えるのだが、何も見えないと言っただけ、というふうにも解釈できることは否めない。
「僕」の恋人のように受け入れてしまえば、貧乏な叔母さんは消えるようだが、「僕」には背中にいる貧乏な叔母さんが見え続ける。つまり、「僕」はまだ貧乏な叔母さんのことを受け入れていないようである。彼女たちを救おう救おうとしているのだが。
恋人との会話の後で、「僕」は貧乏な叔母さんが完璧な存在であるという確信を得る。今まで誰にも相手にされない不完全な存在として「僕」の中でイメージされていた貧乏な叔母さんは、実は完璧なのではないかという発想の逆転が「僕」の中で起きる。時が全ての人々をゆっくりと打ちのめしていくだろうといういささか唐突な記述の後に、以下のような啓示が「僕」に訪れる。
狭苦しいガラス・ケースの中で、時はオレンジみたいに叔母さんをしぼりあげていた。汁なんてもう一滴も出やしない。僕をひきつけるのは、彼女の中のそんな完璧さだ。もう本当に一滴だって出やしないんだよ!(八〇‐八一)
エクスクラメーションマークに表されているように、これはまさしく啓示と呼べるような「僕」にとっての突然の気づきであった。全ての人々がいずれはゆっくりと時間の経過によって老衰していくのに、貧乏な叔母さんは人々からも打ちのめされているし、時間からもうちのめされる。その救いようのなさ、やられ続けを受動する忍耐力が、「僕」には彼女たちの中の完璧さとして理解されることになる。不完全だった存在の中に突然発見される完璧さ。この啓示はしかし、小説の最後までとって置かれる事となる。
小説の最後が訪れる前に、僕が実際に貧乏な叔母さんのような少女に遭遇するエピソードが挿入される。そのエピソードによって、「僕」から貧乏な叔母さんが離れることになるので、離れた原因は何かを詳しく分析する。
とくに美しくもなければ醜くもない平凡な親子づれと「僕」は電車で一緒になる。幼稚園児らしき娘は母親から不当に扱われる。「電車の中で騒ぐような子はもううちの子じゃないからね」(八四)と人格を否定されるような言葉を母親に言われた娘は、「僕」のそばに腰かける。
僕は隣りでしゃくりあげている女の子の肩にそっと手を置いてみたかったのだけれど、僕の手はきっと彼女を怯えさせてしまうに違いない。僕の手はこのまま永遠にもう誰ひとり救うこともできないのだろう。(八五‐八六)
結局救おうとする試みを「僕」は達成できない。しかし、このエピソードの後で「僕」の背中にあった貧乏な叔母さんは消えてしまうのである。何故だろうか。貧乏な叔母さんの完璧さに気づいたときには、別に背中にあった貧乏な叔母さんはとれなかったし、恋人に、あなたの背中に貧乏な叔母さんなんか見えないと言われた時も貧乏な叔母さんはとれなかった。今までのエピソードとこのエピソードとのの決定的な違いは何だろうか。これは、はじめて「僕」が、実際に貧乏な叔母さんが人から苦しめられる場面に遭遇したエピソードなのである。
貧乏な叔母さんの存在を拒否するのではなく、受け入れれば彼女たちは訴えてこなくなるという仮定からすれば、「僕」はこのエピソードによって彼女たちを受け入れたから、背中の貧乏な叔母さんが消えたのだと解釈できる。しかし、「僕」はただ泣く娘のそばに寄り添っていただけで、何も行動していない。しかし、その位置の取り方こそ、貧乏な叔母さんの受容と呼べるのではないだろうか。
拒否するのでもなく、救おうとするのでもなく、中間の距離にいて、ただ見守ること、この微妙な位置のとり方こそ実は受容なのではないかという仮説を私はたてる。まさしくエピソード中の「僕」の娘に対する関わり方がそうだし、「僕」の恋人の、貧乏な叔母さんたちに対するウェットでない、さばさばした関わり方もそのような距離の取り方だろう。
その仮説を支持するなら「無用なもの、立ち入るべからず」という貧乏な叔母さんたちの街の看板にあったメッセージも、肯定的に解釈できるようになる。不完全な存在と「僕」が思っていた貧乏な叔母さんは実は完璧な存在であった。「僕」のような偽善的な想いからくる介入など必要としていないのである。「僕」が小説を書こうとして何故書けなかったのか。不可能な、余計な試みだったからとしか言い様がない。
いや、彼女たちはそんなものを必要としないのかもしれない。政府も電車も小説も・・・(八九)
不完全さにも完璧さはある。完全なものというのは、不完全なものを排除するものである。むしろ、不完全さを受容することが必要となるのだろう。不完全などというのは人間の思いこみにすぎない。不完全なものの中にも完璧さはあるし、完全なものにも不備があるという達観した認識を得ることが「存在の受容」だと言えそうである。
貧乏な叔母さんという不完全さを小説化することで救おうとしていた「僕」は、最後になって、彼女たちは彼女たちで何万年も生きていけることを確認し、彼女たちの詩人になろうと宣言する。
そうだ、もしその世界に一片の詩の入り込む余地があるとすれば、僕は詩を書いてもいい。貧乏な叔母さんたちの桂冠詩人だ。(八九)
今まで小説を書けないことに「僕」が散々悩んでいたのだから、詩を書くことは小説を書くこととは当然区別されるべきであろう。小説を書くことは、人を救うというような傲慢な行為ではなく、世界の中の一片の余地としての、ささやかな詩であろう。「僕は緑色のガラス瓶に照映える太陽を歌い、その足もとに広がる朝露に光った草の海を歌おう」(八九)というように、「僕」の中で詩を書くこととは、一般的に考えられている小説のようにストーリーを語ることではなく、情景に感じ入り、その感慨を描写するものとして定義されるようである。もはや救う必要のない貧乏な叔母さんたちの社会が実現するのはしかし、一万年も後の話なのだというおちが、最後にある。
これでこの小説の断念を語る小説は終わるのだが、それでも作者である村上春樹は「貧乏な叔母さんの話」という、小説を書けない過程を小説化してしまっている。結局「僕」は小説しか書けないようだ。
以上でこの短編の分析を終える。
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