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書評:ジョイス『若い芸術家の肖像』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年1月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

引用は丸谷才一訳の新潮文庫を使用しています。

若い芸術家の肖像
若い芸術家の肖像 ジェイムズ・ジョイス James Joyce 丸谷 才一

新潮社 1994-03


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ヨーロッパ近代文学は20世紀初頭に頂点を迎えます。モダニズムの巨匠、ひいては20世紀文学最大の巨匠と言われるのが、プルーストともう一人、こちらジェイムズ・ジョイスです。プルーストには『失われた時を求めて』という決定的代表作がありますが、ジョイスには『ユリシーズ』、『フィネガンズ・ウェイク』と2つの全く異なる傑作があります。前期2作が書かれる前に発表された当作『若い芸術家の肖像』も20世紀の記念碑的名作です。日本では『ユリシーズ』などに比べて知名度が低いですが、海外では当作の方もよく読まれているようです。『ユリシーズ』以降の作品に比べて、19世紀リアリズム様式を守っている当作の方が読みやすく、とっつきやすいことは確かです。

『若い芸術家の肖像』の主人公はスティーブン・ディーダラス。ジョイス自身の投影とも言われています。ディーダラスはアイルランドのダブリンに暮らしています。物語はステウィーブン・ディーダラスの誕生、学校時代、キリスト教および祖国からの離反、大陸への旅立ちまでも描きます。世界最高の芸術家を目指し、ダブリンから大陸に旅立ったジョイス自身の歩みが重ねられた、一種の教養小説です。

物語中盤、キリスト教に熱狂していたディーダラスは以下のような禁欲を己に課します。

『彼の感覚の一つ一つには、きびしい規律が課せられた。視覚の禁欲のためには、伏し目がちになって通りを歩き、右も左も後ろをも見ないことが彼の規律となった。彼の目は、女たちの眼と出合うことをことごとく避けた。』(丸谷才一訳、新潮文庫、p229)

彼にならって電車に乗っている最中、女性の姿を目に入れないようにしたら、浅はかですが敬虔な気持ちになれました。異性と目を合わすことさえ避けるという、敬虔なキリスト教徒の生活を目指していたディーダラスはしかし、ダブリンで一生キリスト教師として暮らす未来に違和感を持ち始めます。思索をすすめた彼は、宗教、国家、家族等、自分を保護し、共依存関係に導こうとするあらゆる集団から、自由たろうと決意します。

『大学! 結局ぼくはこうして、まるでぼくの少年時代の保護者のように構えこんでいた連中から、ぼくを彼らのあいだに置こうとし、彼らに服従させ、彼らの目的に奉仕させようとしていた哨兵たちの誰何から、とうとう逃れたわけだ。』(p251)
 
 この独立自尊の精神こそ、ジョイス及びディーダラスの魅力です。20世紀を代表する芸術家の一人、ローランサンは、詩人アポリネールとの恋愛、保護関係から逃れることで、シュールレアリズムと決別し、独自の美を打ち立てることができました。愛という名でせまりくる束縛の鎖を振りほどくことで、芸術家は自己の領域を持つことができるのでしょう。

宗教的禁欲の呪縛から解き放たれたディーダラスは、浜辺で少女と出会うことで、芸術に開眼します。この少女の描写は詩的、古典美学的、写実的精密描写の極致です。ジョイスが示したエピファニー(細部に究極の美を見出すこと)の最良例となっています。

『長くてほっそりしたあらわな脚は鶴のそれのように華奢で、海草の茎のエメラルドいろが一つ、何かのしるしのように肌についているほかはまったく清らかだった。象牙のように豊かで柔らかな色合いの腿はほとんど臀のあたりまであらわにされ、そこではズロースの白い縁飾りが、柔らかで白い羽毛さながらにのぞいている。灰いろがかった青のスカートは大胆に腰までたくしあげられ、後ろで鳩の尾のようになっている。胸は鳥のそれのように柔らかく華奢で、黒い羽毛の鳩のそれのように華奢で柔らか。しかし長い金髪は少女らしく、その顔は少女らしくてしかもこの世の美のすばらしさに色づいている。』(pp259-260)

美を体現する少女に出逢うことは、ボードレール的・ダンテ的偶然の一回の出逢いであり、少女はディーダラスに詩的霊感を与えただけで、言葉を交わす相手にさえなりません。何故ディーダラスは美の女神と会話しなかったのかと思ったのですが、しかし、

『彼女のイメージは永久に彼の魂へとはいったし、しかも彼の恍惚の聖なる沈黙を破るどんな言葉も発せられなかったのだ。彼女の眼は彼に呼びかけ、彼の魂はその呼びかけに胸をおどらせたのだ。』(pp259-260)

という文章からもわかるように、言葉を交わさなかったからこそ、彼女はディーダラスの中で神となったのでしょう。彼が感じ取った美の道への邁進は、アリストテレスやトマス・アクイナスの美学の中にありました。哲学の読書に飽きたら、現実の女を求めに行くのかと思ったのですが、彼は読書の気晴らしに、エリザベス朝の詩を読みます。その詩の中にさえ彼は低俗を見出し、傷つくのですから、ディーダラスは実に美しく高貴であり、俗にそまらない存在です。

『彼の心は、アリストテレスやアクイナスの亡霊のような言葉のなかに美の本質を求める作業に飽きると、よく、気晴らしのため、エリザベス朝の詩人の優美な唄へ向った。彼の心は懐疑的な修道士の衣をまとってはいたが、たびたび、このエリザベス調の窓辺に立って、竪琴奏者の、あるときは厳粛な、あるときは嘲るような調べに耳をかたむけ、娼婦たちのあけっぴろげな笑いを聞いた。そしてしまいには、あまりに低俗な笑いや、時のために色褪せた密室での手練手管の言葉の数々に、彼の修道士らしい誇りは傷つき、いたたまれなくなって隠れ処から立ちのくのであった。』(p267)

少女はアリストテレスもアクイナスもエリザベス朝の詩も知らないだろうから、言葉を交わせば、ハイブロウのディーダラスは落胆と傷心を味わうことになったでしょう。それはあまりにも知性偏重、女性差別的解釈だとするなら、より政治的によい回答があります。

ディーダラスは共同体的束縛との決別を宣言していました。少女と言葉を交わした途端、彼は愛という最大の束縛関係に陥ってしまうでしょう。交流による幻滅がないからこそ、少女は永遠の美の指標となったのです。彼女の恋人となるため、アイルランドにとどまることなく、広い世界に飛び立つことこそ、ダイダロスたるディーダラスの望みなのです。

独立自尊、完全高貴で純粋な精神体であるディーダラスは、作者ジョイスの分身です。しかし、ジョイス自身はノーラという妻を抱えてアイルランドを飛び立ちました。ディーダラスにはジョイスが夢見た、誰の言葉にも従わない独立自尊の芸術家像が投影されているのでしょうか。作家の実生活と作品の登場人物を結びつけすぎると滑稽になりますから、こういう想像はほどほどにして、私たちは、小説の中に現れるディーダラスの行動規範に再び注意を向けてみましょう。

何故美しい少女に声をかけないのかと一読後は俗物的に思ったのですが、よくよく考えれば、俗物である私も、街で一瞬見かけた美女に声をかけて、友達になろうとはなかなか思い立ちません。詩人や芸術家の、一度しか会えない美の女神たちに対する簡素な接し方は、なんら異常なものでなく、常識的な、節度ある振る舞いなのかもしれません。もし偶然すれ違った美女を追いかけると、それはストーカー行為となるでしょう。

一般の気弱な人々は、日に何度も顔を合わせる仲間の異性に恋をし、親交を深めようとします。芸術家は、仲間うちには恋をせず、冷徹な箴言を連発することで、共依存関係の可能性を絶ちきろうとします。彼らが恋心を寄せるのは、自分とは無関係な世界で、偶然出会う美の女神たちであって、女神と言葉の交流は必要ないのかもしれません。言葉で交流しようという情熱は、作品の生成に向けられるのでしょう。

何もこれは異常なことではありません。恋が不具に終わるからこそ、芸術作品は創られるのです。恋する誰かに喜ばれようとして作品を創っても、それは多くの人に愛される作品とならず、内輪向けの、単なる共同体的戯れ、マスターベーションになってしまうでしょう。そのような戯作が、諸外国に紹介される可能性、歴史に残る可能性は皆無に等しいでしょう。ローランサンがアポリネールから決別した時、恋が終わった時に彼女の美しい芸術が始まったように、愛の共同体を離脱した時初めて、孤高の芸術作品が生まれるのでしょう。

こう書くと、芸術家の生き方は悲惨だなと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、芸術家が創り出す作品には、すばらしい愛がつまっています。作品から発散される魅力、愛に読者が恋心を寄せることは全くかまいませんが、作家本人に恋心が寄せられると、それはストーカー行為と紙一重になります。作家が現実的恋から逃避して、女神への愛を作品化するのと同じように、読者は、作家に恋をせず、作品そのものを永遠に愛するべきでしょう。読者が作者に向ける愛は、永遠に交わらない片想いのようなものであって、一時芽生えそうになった恋愛感情は、作家に対する憧憬を伝えるファンレターとして、結実するしかありません。作者と読者は現実では出会えない存在ですし、作者もまた、読者と共同体的、なれ合いの関係になろうとしてはいけないでしょう。そのような狭い、閉じられた共同体は、お互いを芸術的に不具にしてしまいます。たとえ作者と読者が現実には性愛関係を結べたとしても、そんなものは作者の才能を台無しにしてしまうだろうし、作者は読者といつか恋愛関係を結ぼうなどと、決して一度も思ってはならないでしょう。たとえジョイスがノーラという妻と一緒だったとしても、ディーダラスは孤高です。(ハイパーテクストが実現した、ポスト構造主義以後の現代なら、こんなにも芸術家を賞賛する理論は唾棄されるべきでしょうが、ネットのいたるところで見られる共依存関係を批判するためにあえて書きました。幼児的コミュニケーションと決別しないかぎり、自分の将来は見えてきません、作者にも、読者にも。)

いささか脱線が長くなりすぎたので、美学論を含む最重要箇所、第5章を読解しましょう。

何故ディーダラスは美学論として、アリストテレスやアクイナスなど中世スコラ神学を持ち出してくるのか、せめてカントやヘーゲルやペイターや、ボードレールの美学論を持ってきてもいいのではと一読後思っていました。読み返してみて、ディーダラスの素養は近代の大陸哲学にあるのでなく、修道士とスコラ哲学にあるのだと知り、納得しました。

『世界的な文化の饗宴にとっては、自分などはたかだか、おずおずした内気な客にすぎないし、それにいま自分が、そこから審美的な哲学を生み出そうとして苦心している修道士の教養など、紋章学や鷹狩りの曖昧きわまる隠語ほども、現代人には認められていないと思うと気がめいってくる。』(p272)

ディーダラスはキリスト神学と縁をきったようでいて、実はきれていないのです。共同体としての神学とは決別したのですが、哲学的思惟、知の論理展開としての神学は彼の中に保たれ続けます。

モダニズムの美学論は当時の優れた作家全体が共有していたでしょうから、ジョイスは異化作用として、狡知として、スコラ神学を持ち出しているのでしょう。私もまた、時代錯誤的に、ジョイスに人生のあり方を求めています。

ジョイスの中にはすでにポストコロニアルの問題が息づいている、というよりポストコロニアリズムよりもっと鋭角的な狡知がそこには息づいています。共同体を拒否するディーダラスの以下の言葉をご覧ください。

『ぼくたちの仲間になれよ、とデイヴィンがくりかえした。心の底じゃ、君はアイルランド人なんだ。ただ、誇りが強すぎる。
 ーーぼくの祖先たちは自分たちの国語を捨てて別の国語を身につけた、とスティーヴンが言った。彼らはたった一握りの外国人にやすやすと服従してしまった。ぼくがこの一生で、彼らのやった借財をみんな返せると思うかい?  それも何のために?
 ーーわれわれの自由のためさ、とデイヴィンが言った、
 ーートーンの時代からパーネルの時代にいたるまで、とスティーヴンが言った。生命や若さや愛情をささげつくした人格高潔で誠実な人たちのなかで、君たちから、敵に売りわたされたり、逆境のなかに見はなされたり、悪罵されたり、別の人間にのりかえられたりしなかった人は、一人もいなかったじゃないか。そして、今ぼくを仲間に引き入れようとしている。ぼくとしてはまず、君たちが呪われるのを見たいくらいだぜ。(…)君はぼくに、国民性や、国語や、学校のことを話してくれるけど、ぼくはこういう網から逃れようとしている。』(pp310-311)

ディーダラスは、アイルランドのナショナリズムにそって、英国支配に反抗し、共同体としての自由を得る道を選びません。全ての共同的絆を鎖と感じ、一人自由に飛翔しようとするのです。

彼がよってたつのは、政治的ナショナリズムではなく、芸術の美学です。アリストテレスとアクイナスによる、スコラ哲学の美学論を彼は語ります。

美に必要なのは、全体性、調和、光輝だといいます。WHOLENESS, HARMONY, RADIANCという3つの概念について見ていきましょう。

・全体性
『時間的だろうと空間的だろうと、審美的な映像は最初、それとは異なる時間ないし空間の厖大な背景に対立する、自分の境界を持ち自分の内容を持つものとして、鮮やかに認識される。君はそれを「一つの」ものとして認識した。そして今度はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ。これが全体性(インテグリタス)なのさ』(p326)

・調和
『君はそれを複雑な、多様な、分ち得る、切り離し得る、いくつかの部分から成り立っているものとして認識する。そういういくつかの部分の結果と総体とを調和的だと認識するわけだが、これが調和(コンソナンテイア)なのさ』(p327)

・光輝
『君があの籠を一つのものとして認識し、それからその形にしたがって分析し、それをものとして認識したとき、君は論理的にも審美的にも許容し得る唯一の綜合をおこなってるんだ。君はあの籠がまさにそのものであって、ほかの何ものでもないということを知ったわけだ。彼がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであるもの」という言葉で言っているのが光輝なのさ。この至高の徳性は、審美的映像が芸術家の創造力に宿ったとたん、芸術家によって感じられるものなんだ。(…)美の調和によって魅惑されていた心が、美のこういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識する瞬間こそは、審美的快楽の輝かしくて静寂な状態だよね。』(pp327-328)

ここで述べられているのは、ロマン主義的、古典的、神に等しい創造者としての芸術家像です。事物を普通に眺めるのでなく、そのものとして、一回限りの有限な個別存在として、強固なまでに立体化して描き、他のなにものでもないそのものを現前させる芸術家の有り様は、しかし古典的世界の枠組みを超えて、異様なりんごを描くセザンヌや、ひまわりを描くゴッホを想起させますし、「複雑な、多様な、分ち得る、切り離し得る、いくつかの部分から成り立っている」もの、そうした「部分と全体との調和」は、フィネガンズウェイクの究極言語をも思わせます。あらゆる美学論から、あらゆる前衛的な芸術が生み出せるのでしょう。

ディーダラスは美の女神となった少女に声をかけなかったし、現実の女とは交じらわず、ひたすら芸術の美だけを追い求める理想家だと書きましたが、やはりディーダラスも我々と同じようです、幼なじみの女性に恋心を寄せつつ、嫉妬し、罵倒している箇所を見つけました。

『彼は街の通りを歩きながら、彼女はアイルランドの女の一典型、闇と秘密と孤独のなかで自分の意識するようになる、蝙蝠のような存在、愛情も罪もなく、しばらく自分の恋人のところに留まってそれから彼と別れ、格子の向うにある司祭の耳に無邪気な罪をささやくような人なのだと、苦々しい気持で自分に言い聞かせた。彼女に対する怒りは、彼女の愛人に対する荒ら荒らしい罵りにはけ口を見つけることになったし、その男の名前と声と顔立ちは彼の心をはなはだしく傷つけたのである。百姓司祭め。兄貴はダブリンで巡査、弟はモイカレンで飲み屋の給仕じゃないか。その男に彼女は、その裸の魂をおずおずと示すことだろう。』(p341)

このフローベール的俗物批判の模範例は、おそらく嫉妬心の最も輝かしい芸術表現の一つでしょう。嫉妬なんて醜い、大人げない、弱さの証と思っていましたが、ディーダラスや「失われた時」の話者さえ嫉妬したし、こんなに恋した相手やその恋人に毒づいているのだから、俗物批判の精神は嫉妬の憎悪から生まれるといってもよいのでしょう。

5章の終盤、ディーダラスと彼の友クランリーとの対話により、ディーダラスの古典的なまでに気高く美しく近寄り難い精神が表現されます。この小説のハイライトの一つです。

『ーーぼくは何に対しても仕えない、とスティーヴンは答えた。(…)ーー聖体を信じるかい? とクランリーが訊ねた。
 ーー信じない、とスティーヴンが言った。
 ーーじゃあ疑うわけか?
 ーーぼくは信じも疑いもしないんだよ、とスティーヴンは答えた。
 ーー疑ってる人は多いんだよ。修道会の人でもね、でも、それを克服したり脇にどけておいたりしてるわけさ、とクランリーが言った。その点について、君の疑惑は強すぎるのかな?
 ーーぼくは克服したいなんて思わない、とスティーヴンは答えた。』(pp372-373)

 信じも疑いもしないし、克服したいとも思わないスティーヴン・ディーダラスは、ならば何故聖体拝受を行わないのでしょうか。

『われわれの宗教が贋物でイエスが神の子でない、ともしきみが確信してるのなら。
 ーー確信なんかちっともしてないよ、とスティーヴンは言った。イエスはマリアの子であるより、神の子らしいからね。
 ーーじゃあ、だから君は聖餐にあずかろうとしないのか? とクランリーは訊ねた。つまりそのことに確信がないから。聖餅は一切れのパンじゃなくて神の子の肉と血かもしれないと感じるから。そうかもしれないという不安があるから。
 ーーそうだよ、とスティーヴンは静かに言った。そういう気がするし、ぼくはそれを恐れてもいるんだ。』(p379)

ディーダラスはキリスト教および宗教の否定者なのですが、無神論者ではなく、キリスト教徒よりも妄信的でさえあります。キリスト教徒がパンとワインをイエスの肉と血だと思い、それを食することで象徴を操るのに対し、ディーダラスは、パンとワインがイエスの肉と血だということを、象徴ではなく、事実として受け止めうる可能性を否定できないから、聖餐に参加できないと言うのです。そんな神秘主義者のディーダラスは、では何故宗教者にならなかったのか、問題の核心はここにあります。

『ーーこんな気がするんだよ、とスティーヴンが言った。ぼくがこわいというものの背後には、何か悪意のあるものがひそんでいるとね。
 ーーじゃあ、もし君が神聖をけがすような聖体拝受をおこなえば、カトリック教徒の神が君を打殺して地獄へ落すというのがこわいのかい? とクランリーは訊ねた。
 ーーカトリック教徒の神は、今でもそうすることができるわけだ、とスティーヴンは言った、ぼくはそれよりも、二千年の権威と尊敬がその背後にうず高く積まれている一つの象徴に対し偽りの讃美をささげるせいで、ぼくの魂のなかに化学反応のようなものが起こることがこわいのさ。』(p380)

キリスト教の歴史は侵略と支配の歴史でもあります。アイルランドもまたキリスト教徒に侵略され、支配されています。宗教組織の中に組みこまれることは、国教体制をしく政治国家への服従を認めることにもなりかねません。キリスト教にかぎらず、宗教ならどれでも破壊行為をやっているのですが、ディーダラスは、アイルランドが現状キリスト教徒に支配されているからこそ、政治的装置としてのキリスト教を拒絶するのです。彼は全ての共同体的、政治的営みを拒絶する独立心の権化なのです。

『ぼくは自分が信じていないものに仕えることはしない。それがぼくの家庭だろうと、祖国だろうと、教会だろうと。ぼくはできるだけ自由に、そしてできるだけ全体的に、人生のある様式で、それとも芸術のある様式で、自分を表現しようとするつもりだ。自分を守るための唯一の武器として、沈黙と流寓とそれから狡知を使って。』(pp385-386)

原文では、最後の文は、
using for my defence the only arms I allow myself to use--
silence, exile, and cunning.
となっています。

cunningとは、気高い善なる知ではなく、悪の、だましの要素が含まれた、実効的な知です、それこそフローベール的芸術家の知なのです。

さて、早速このcunningの冷酷無比な実例が示されます。絶対的孤独を求めるディーダラスはかっこいいのですが、果たして一人でいることに耐えられるほど、人間は強くなれるのかという疑問がわき起こってきます。しかし、以下のディーダラスが下した皮肉の言葉を読むことで、そんな心配は無用だとわかりました。

『ーー一人きり、まったくの孤独。それを恐れないというわけだね。この言葉がどういう意味なのか、判ってるかい? ほかのみんなから離れるだけじゃなく、一人の友だちだっていないんだぜ。
 ーーぼくはその危険を冒すつもりだ、とスティーヴンは言った。
 ーー誰一人いなくなるんだよ、とクランリーは言った。友だち以上の存在、この世でもっとも高貴で真実の友以上の人さえ持てないんだよ。
 その言葉は、彼じしんの本性の深い所にある琴線に触れたようであった。自分のことを言っているのだろうか? 自分がそうなりたいと思っている自分のことを言っているのだろうか? スティーヴンは黙ったまましばらく彼の顔をみつめた。冷たい悲しさがそこにはあった。自分のことを言っているのだ。この男が恐れている、この男じしんの孤独について語った言葉なのだ。
 ーー君は誰のことを言ってるんだい? とやがてスティーヴンは訊ねた。
 クランリーは答えなかった。』(p387)

多くの読者は、ディーダラスはなんて冷たい奴なんだろうと思うでしょうが、「君は誰のことを言ってるんだい?」という非情の突き放しは、クランリーを絶対的孤独の世界に突き落し、芸術的、悲劇的な美を形成します。ディーダラスが小説の中で語ったように、一見劇的に見える動的事件は悲劇ではないのです。このような、人間関係の非情を描く、静かに放たれる柔らかい毒舌こそ、悲劇の真髄なのです。

私はディーダラスのように絶対的孤独に耐えられないのではないかと悩んでいましたが、別に命をかけてつきあう必要もないこととはきっぱりと決別して、本当の理想に向けて歩むことが大切だと思いました。情け容赦を知らぬ飛翔性……

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