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書評:モリスン『ビラヴド』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2003年1月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。元は大学時代「アメリカ文学史」のレポートです)


ビラヴド ビラヴド
トニ・モリスン 吉田 廸子 Toni Morrison

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by G-Tools


Toni Morrison, Beloved, 1987

 一般的に、20世紀初頭の時代に小説は最高の到達点に達したと言われている。ジョイス、プルースト、カフカ、フォークナー、ムージルなどの傑作が書かれたのは20世紀前半だった。20世紀後半はポストモダンの時代だった。まだまだ同時代なので、評価が確定していないせいもあるが、自分としてはモダニズムの時代に書かれた小説の方が、完成度も、面白さも高いと思う。もちろんモダニズムの時代には、「芸術」というものの優位性が信じられていた。私が感じるモダニズム小説の完成度・素晴らしさとは、所詮上位文化の価値観によって編制された「芸術」としての完成度に過ぎないのだが、かといってポストモダンの小説家の作品にジョイスやプルーストらと同等の面白さ、小説制作に対する執念が見られるかは疑問だった。同時代の作品に対してはずっと悲観的だったのだが、この作品はそんな無益な悩みを覆してくれた。読んでいて、久々に熱中した。物語の構成の巧みさに惹き込まれた。トニ・モリスンというと、黒人について書いた作家、政治的な小説、ポストコロニアルというイメージがあったので、毛嫌いしていたのだが、読んでみて、小説としての面白さがつまっていたので評価しなおした。
 美や芸術といったものが、汚いものを排除する階層構造をとっており、虚構に過ぎないことが分かっているのだから、これからの小説は、歴史を問い直し、排除されたものを取り上げ、世界を問い直すことに取り組むべきだということはわかっていた。一般的に繰り返される決まり文句である。頭では分かっていても、体がついていかないことがある。それで面白いものができるのかという蔑み。しかし、それは杞憂に過ぎないことが分かった。ポストコロニアルを主題としていても、十分楽しめる作品があることが分かった。
 『ビラヴド』は、頭でっかちな他の現代作家の作品よりも、感情的な描写が多かったし、それが優れていた。この小説の大きな特徴である。黒人たちの苦難、哀しみが十分表現されていた。だいたいにして、白人が黒人をひどく扱う情景があまりに痛々しいため、読者自身もエピソードが浮かぶ度に壮絶な気持ちになってしまう。もちろん、苦難の描写だけでなく、恋愛心理など他の様々な繊細な感情を描くことにもモリスンは長けている。思い違い、すれ違いの描写がうまい。
 白人と黒人の間にも思い違い、すれ違いがある。ベビー・ザックスを奴隷の身分から解放し、自分の農園が黒人にとって素晴らしい環境にあると思っているガーナ?氏だが、実際は他の農園とほとんど変わらないとベビー・ザックスは言う。ただし、ガーナー氏の前では、そんなことは言えない。黒人が白人の意見に反論することなど許されないのだ。
 感情の描写が溢れ、感動的な場面が続くと言っても、モリスンは感情に押し流されるタイプの作家ではない。抑制された文体、冷静な分析があり、どちらか一つの価値を高めて物語が終わるわけではない。最後に救済が訪れるわけでもない。もちろん作者は基本的に黒人側の立場にたっている。物語中でも白人の様々な残虐な行為が描かれ、黒人たちは白人への怨みを口にする。しかし、不思議と読んでいても私の中に白人への怨み、怒りは怒らなかった。黒人への差別を覆すために、今度は白人を憎悪すればいいかといえばそうではない。白人を攻撃しては、黒人に対する残虐行為の歴史を裏返しで繰り返すことになってしまう。物語中の人物は、白人への怒りを何回も表すが、私が読後もそれに同調し続けることはなかった。そのかわりに、黒人に対する理解のようなものが進んだと思う、少々傲慢に「理解」という言葉が響くかもしれないが、読む前と読んだ後では、随分黒人に対するイメージが変わることは確かである。白人に対するイメージも当然変わるのだが、過去にひどいことをしており、現在も緩やかだが、同様の差別をしている人というイメージが強くなっただけで、それが白人に対する怒り、嫌悪感には変わらなかった。むしろ、自分の中にあった汚いものを排除するような思考法、「だらしないもの」への嫌悪感が弱まったと思う。美しいものをみても、所詮一部の限られた人が鑑賞するだけのものだという考えに切り替わった。
 それはやはり、白人に対する憎悪を煽りたてるようにはモリスンが書いていないからだと思う。なぜ、こんな残虐行為をみせつけられても、黒人に対する情は深まったのに、白人に対する情は怒りへと転化しなかったのか。どうも2項対立の価値観をどちらがいいと決めつけないようなモリスンの書き方によって、そのような効果が出ているのではないか。
 小説中の白人の全てが黒人にとって「悪い」人なわけではない。黒人に対してよくする白人もいる。ボドウィン兄妹、ガーナー夫妻、エミイなどである。しかし、前に書いたように、ガーナー氏の好意をベビー・ザックスはそれほど評価していない。

 答えながら、ダケド、アンタハワタシノ息子の所有者ダシ、ワタシハスッカリボロボロニナッテル、と考えていた。ワタシガ主ノ御許ニ召サレタズット後マデ、息子ヲヨソニ賃貸シシテ、ワタシノ支払イヲサセルクセニ。(下p28)

 それでもセスにとっては、ガーナー夫妻はよい白人であった。簡単に言うと、人によって相手の印象が異なるという当たり前のことなのだが、これが効果的に使われているので、黒人対白人という単純な構図がいささか脱臼させられている。人種差別の複雑さが描かれている。
 ボドウィン氏は、黒人に他の白人に比べてよく接しているが、そのせいで、他の白人からひどい目にあわされてもいる。エミイはセスの出産を手助けしたが、セスの背中を見たら、恐れてセスを傷つけるような言葉を吐いた。一方的に固定した「善人」は基本的に描かれない。
 黒人側でもそうである。スタンプ・ペイドの慈善的行為の裏には、妻を白人に奪われたという悲劇があるし、彼は慈善的行為をすることで、皆が自分を家族のように受け入れてくれることを見返りとして求めている。レディー・ジョーンズもデンヴァーにとってはよい人だが、ハーフとして産まれた彼女には苦難の歴史がある。母親想いで優しいハーレも、心の奥底では白人に対する不信感でいっぱいである。このように善人的な、愛情あふれる振舞いを示し、小説中に19世紀小説の登場人物のような彩りを添える人々も、20世紀的な複雑な性格造型が成されているので、価値が固定することはない。
善人たちに比べて、白人の悪人はいささか否定的に描かれすぎている感があるが、彼らは自分たちの黒人に対する非道な扱いを当然のことだと思っており、何の悪気も持っていない場合がある。むしろ聖なる行いだと思っている人々もいる。この小説の持っている価値システムの複雑さが、白人対黒人という単純明快な勧善懲悪の構図にもっていくことを拒否しているので、読者はそんなに白人憎悪へと赴かないのだと思う。
 2項対立の無効化・複雑化は、白人と黒人、いい人と悪い人だけでなく、いたるところにみられる。例えば、この小説の大きな主題である愛。黒人は何かを愛することができない。自分の子どもも、自分の体でさえも。愛すれば、愛したものが白人によって簡単に奪われ、壊されてしまう目にあう。それが深い哀しみをもたらす。セスと初めてあった時のエラの言う「何も愛するな」という台詞は、痛烈に読者の心に届く。
 愛することを知らなかった黒人に対して、ビラヴドが対置される。ひたすらセスを愛する女。二人だけの愛の関係は、しかし他を寄せつけない破滅的なものになってしまう。小説の後半では、セスも、自分の子どもだけは誰にも渡さないという愛の深い、深すぎる女だっだということがわかる。黒人の歴史における愛がない、持てない状態が否定的に描かれるのだが、かといって、愛が強すぎることも否定的に描かれる。では中庸がいいのかというとそうでもない。

 アブナイ、とポールDは思った。かなりキケンだ。むかし奴隷だった女が、何かをこれほど愛しているのは危険なことだった。しかも愛しぬこうと決めたのが我が子だったとしたら、なおさら危険だった。いちばん賢いやり方は、ほんの少しだけ愛しておくことだ、と彼は経験から知っていた。あらゆることを、ほんの少しだけ愛しておくのだ。そうしておけば、奴らが愛しいものの背中をへし折ったり、南京袋に押し込んだりするようなことがあっても、ひょっとしたら、まだ次に何かをいとおしむ、ほんのわずかな愛が残るかもしれないのだ。(上p90)

 愛しすぎることは危険だから、かといって愛がないことも悲惨だから、しょうがなく選択された、ほんの少しだけ愛しておくということ。決して中庸が無条件で肯定されるわけでもない。
 愛がどこにも定まらない状態が何故おきたのかといえば、黒人が人間として扱われていないからである。白人から動物以下の扱いを受ける。人権の描写についてみてみよう。
 奴隷の黒人にはほとんど人権がない。自由州の黒人にはいくらかの尊厳が認められる。しかし、物語中の時代設定では、自由州の黒人の誰もが、過去に奴隷としての経験を持っており、逃亡奴隷を捕まえにくる白人を恐れている。人権が白人と同等に認められるというのは夢物語みたいな話だ。そんな人権のない状態に対して、人権のある状態が小説中で賞揚され、理想化されて描かれているかといえば、そうでもない。権利の認められている白人は黒人に対して何でも自由である。自分の気まぐれで黒人を殺すことがある。傲慢。黒人は絶えず白人の機嫌を伺っていなければならない、知っている者に対しても、道ですれ違うだけの者に対しても。
 ベビー・ザックスが自分の家で贅沢すぎる饗宴を行えば、高慢だということで、他の黒人から相手にされなくなる。セスの、自分の子どもは何があっても白人から守るという想いから出る高慢な態度も、他の黒人の反感を買う。このように、自己の権利を主張したり、自由に行使することが無批判に賞揚されているわけでもない。
 まとめると、小説の中では、否定的な事態がある一方で、その逆の肯定的な事態もある。しかし、肯定的な事態が理想化されて、一元化されて語られることはなく、肯定的と思われている事態にも問題的な側面があることが暴かれる。だからといって、中庸が賞揚されるわけでもない。否定を避けるしかないし、肯定にも至れないから、しょうがなく居座っている真ん中の状態。それは、ほんの少ししか愛さないということであるし、自由州にいる黒人の状況でもある。対立の構図が弱められているので、読者は肯定に向かって突き進むことを正しいとは思えないだろうし、黒人を蔑む白人の全てが人種として悪いやつらだと憎むこともない。事態は小説に描かれているように、複雑なのである。



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