世界の名著リバイバル!

World's Great Books Revival Project

ホーム >

書評:ノヴァーリス『青い花』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年11月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。)

青い花
ノヴァーリス


ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳、岩波文庫、1989年刊。ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリス(1772-1801)が書いた教養小説。原著は1802年刊行。教養小説とは、若者が旅行や苦難を経験しながら、先人の教えに触れつつ、人間としての成長を遂げてゆくドイツ得意の小説形式である。ノヴァーリスはゲーテの教養小説「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」に触発されて「青い花」を書いた。この作品では詩的なもの、不思議なものに対する憧憬が多分に語られる。

巻末の解説によると、ノヴァーリスは1790年イエーナ大学に入学し、詩人シラーの歴史学講義も受けている。シラーの推薦を受けて「若者の嘆き」という処女詩を発表する機会も得るのだが、シラーはノヴァーリスに文学の道に就くよりも実務に就くよう説く。そうだ、いつでも大人は文学を志す者の希望をくじいて、実務に就くようさとす。現代日本でもロマン派時代のドイツでも、ちょっとやそっとの反対では意志を曲げずに、ベートーヴェンのように不屈の闘志で創作にたずさわる者にのみ、芸術の女神は微笑むのである。大人は社会的に意義のない文学なんて早く諦めて真面目に働けとさとすものだが、青年は己の文学を実務などより有意義なものにするため、真面目に詩作に励む。

生まれつき実務にむいている人は、あらゆることをできるだけ早いうちから、自分の目で観察し、それに生彩をほどこす方法を身につけたほうがよい。どこにいってもみずから物事に手をそめてみて、あまたの事情にひととおり通じて、新たな状況が生じてもその印象にまごつかぬよう、また多種多様な対象に注意が散漫にならぬように、いうなれば心情を鍛えあげておき大事件が次々おしよせることがあっても、自分の目標の糸をしっかり握ってはなさず、巧みにさばけるようになることが肝要である。静かな観照という誘いにのってはならない。自分の内面を観察することよりも、つねに外へ向って目を開き、てきぱきと決断を下しながら、まめまめしく分別に仕えることがこの人たちの持ち前なのだ。器量のすぐれたこの人たちは英雄で、まわりに指示と解決を要する事柄が次々とおしよせてくる。あらゆる偶然事は、その手にかかると、つながりのある話となり、かくしてその生涯は、珍しくも輝かしい出来事、複雑でまたとない出来事の切れ目のない連続となる。
 ところが、心情こそが自分の世界であり、自分の仕事とは観照することで、その生活は内面の力を静かにはぐくむことであるような名もない静かな人たちの場合には、事情はすっかり異なってくる。どんな不安もこの人たちを外へ向かって駆りたてはしない。自分がいま所有するものに静かに満足し、外界にある自分には予測できない演劇の舞台にみずから登場する気になりもせず、むしろそれを観ることの方が十分に有意義ですばらしいこととみなしている。演劇の精神を解そうという願いが、かえって舞台との距離を保たせているのだ。じつにこの演劇の精神が、世界を人体でたとえれば、この人たちに心情という神秘にみちた役割をになわせるのであり、一方さきに述べた人たちは、四肢とも五感ともなって、人体の外へむけて働く力の役割をになっているのである。
 大事件や複雑な出来事も、この静かな人たちにとっては厭わしいものとなろう。波乱のない人生がこの人たちの運命で、外の世界の多岐にわたる事実や数えきれぬ現象は、物語や書物のなかからだけ伝えられるという次第である。(…)この人たちの鋭敏な感覚は、すでに大きな世界の縮図としての卑近で些細な現象にじゅうぶん通じているので、一歩外の世界に踏みだしさえすれば、すぐその現象の本質や意義がとっくに自分の内で了解されていることに気づき、われながら驚くのである。(…)詩人とすぐれた器量の英雄とを比べてみると、詩人の歌はしばしば青年に勇敢な心をふるいたたせるが、英雄的な行為が誌の精神を呼びさまして、新たな想いへと向かわせたりすることはついぞない
」(pp147-149)

ここまで詩人を讃美してもいいものかと現代人は気がひけてしまうが、当時の詩人には必要な自己認識だった。十八世紀後半のドイツでは、詩人や芸術家は王族の婢という立場から独立して、創作の自由を持とうと格闘していた。芸術讃美は奴隷状態からの脱出という目的を持っていたのである。ゲーテとベートーヴェンが散歩中貴族に出会った時、楽聖に頭を下げる貴族をベートーヴェンは軽蔑の眼差しで相手にしなかったが、ゲーテは道端で折り目正しくかしこまって敬礼していたという話は有名である。十九世紀後半には芸術家の権威が確立される。シューマンもチャイコフスキーも精神の病に苦しんだが、芸術家の尊厳と自由は十八世紀よりも確保されていた。二十世紀では、すでに前世紀に芸術家の尊厳が確保された以上、声高に芸術の偉大さを叫ぶことは野蛮となる。現代芸術は極大化する大衆文化の通俗化の波におされている。二十一世紀において芸術は、主流社会のあやまちを摘発する良心としての役目を担うことで、その矮小化から逃れることができるだろう。

主人公である詩人を目指すハインリヒに、ジルヴェスターは教えを施す。

良心は、真面目に完成されたものや、ついに達せられた真実の相なら、いずれにもあらわれる。熟慮の末に、世の評価を得るものにまで改良された趣向や技量なら、どれも良心のひとつの現象(あらわれ)であり、変容なのだ。あらゆる教育は、まさに自由と称されるものに帰着する。もちろんこの自由は、ただ単なる概念ではなく、あらゆる存在の創造的な基盤とみるべきだがね。このような自由は、名人の境地で、名人はこの自由な力を、熟慮された一定の手順で計画的に行使して、その芸術の対象をわがものとし、意のままに駆使するが、対象から拘束され、掣肘を加えられることなどない。すべてを包括するこの自由、名人の境位、すなわち自在な制御こそ、良心の本質であり、起動力だ。名人のあらゆる行動は同時にまた、高く素朴で錯綜せぬ世界の告知、すなわち神の言葉なのだ(…)」
「もちろん良心は、人間ひとりひとりに生れつきそなわった仲介者だ」とジルヴェスターは言った。「地上における神の代理であり、それゆえ多くの人にとっては至高、究極のものである。だが道徳学、倫理学と称された従来の学問は、この崇高にして包括的かつ人格的な思想の純粋な姿からほど遠いものだった。良心は人間のもっとも固有の本質が完全に浄化されたもので、いわば天上の原人間なのだ。あれが良心だ、これが良心だと指せるものではないし、普通の言葉で命令を下すこともない。つまり具体的なあれこれの徳目からなりたつのではなく、ただ一つの道徳、決定のときには果敢に断をくだし、選択する純粋で厳粛な意志があるだけだ(…)」
「そうしますと、詩の真の精神は、道徳の精神の人なつこい変装であって、道徳に従属する文芸の本来の目的は、至高で特有の存在を高揚させることにあるのですね。真の歌と崇高な行動との間には驚くべき同一性があって、平穏で抵抗のない世界では無為にすごす良心が、人をひきつけずにはおかぬ対話ともなり、すべてを物語る詩ともなるのですね。詩人はこの原世界の控えの間や大広間に住んでいて、道徳こそ詩人がこの世で活動し作用を及ぼすための精神なのですね。(…)宗教が道徳に対しているように、詩学では、より高い世界の生活が、奇跡から生まれたとしか思えぬ文芸の中に、さまざまに描かれています。誌と歴史は、くねりにくねった道をたがいにしっかりと手をとりあい、とびきり奇妙な扮装をして歩んでいます。してみると聖書と詩学は同一の軌道を運行する星座ということになります(…)こうして人のもっとも奥にひそむ自我のうちに、最高の人格的なものが、ときには意志や愛のかたちをとって、ありありと神々しいばかりに現れるのですね
」(pp275-279)

ここまで詩学を高めて、実務よりも優れて感動的なものにすることができてはじめて、詩人として活動することが許されるわけで、自分を慰めるためだけの文章を書いているうちは、実務をした方がよいのである。

ノヴァーリスはゲーテほどには有名でないが、西洋の思想文化に大きな影響を与えている。まだ読んだことがないなら一読をおすすめする。読んでもロマン主義の何たるかは一言で言えるほどにはわかりようがない。ロマン主義は定義しようもない不思議な主義である。

今回は書かなかったが、恋愛の描写に感銘を受けた。十九世紀後半以降の小説に描かれる、こりにこってひねくれた恋愛描写に読み慣れていると、この小説の純真で感動的で、単純至極の喜びに満ちた恋愛描写がひどく新鮮に思えた。

おすすめ本

お厚いのがお好き?
お厚いのがお好き?
世界の名著を面白く、わかりやすく紹介したテレビ番組の書籍版です。

必読書150
必読書150

柄谷行人らによる人文教養書150冊の解説書です。

千年紀のベスト100作品を選ぶ
千年紀のベスト100作品を選ぶ

千年間に創られた芸術作品の中からベスト100を任意で選び、解説した本です。

教養のためのブックガイド
教養のブックガイド

東大教授陣による教養書ガイドです。

ニコスマス倫理学
ニコスマス倫理学
古典の中の古典。必読の名著です。

失われた時を求めて 第一篇 スワン家の方へ(1)
失われた時を求めて
20世紀文学の最高傑作の一つです。


↑このページの先頭に戻る
(c) Sidehill