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書評:ピンチョン『重力の虹』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2003年1月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。)

重力の虹 重力の虹(上)
トマス・ピンチョン

Gravity's Rainbow (Penguin Twentieth-Century Classics)???????

by G-Tools


Thomas Pynchon, Gravity's Rainbow、1973



小説中に登場するV2ロケットは、落ちてから音がする。通常は、ロケットの音が聞こえた後に爆発があるのだが、V2ロケットは順番が逆転している。因果関係が人間の予想するものとは逆なのだ。さらに、スロースロップは、ロケットが落ちる予定の地点で勃起し、性交するという奇妙な反射を持っていた。パブロフ派の科学者であるポインツマン博士は、V2ロケットの与える謎を通常科学の枠内で解こうとする。真に機械的な説明、因果関係、関係の長い連鎖により、世界の全てを説明し尽くそうというのだ。因果関係とは、すなわち歴史である。記憶と条件づけの世界。そんなポインツマンに対して、統計学者であるメキシコは全く別の世界観を示す。ポインツマンは0と1、非在と存在の領域でしか思考できない。白黒のはっきりした世界。メキシコは、0と1の中間、確率を思考する。メキシコは、ポインツマンのようにV2ロケットがどこに落ちるか因果関係を調査し、予測しようという欲望など持たない。ロケットが落ちる場所は正確なポアソン分布になっており、全く均等な確率でロケットは落ちているだけだ、場所を予測することなど不可能なのである。若いメキシコにとっては、全ての事象は何の因果関係もなく起こる出来事でしかなく、決して歴史にならない。
 メキシコの確率的な思考法にこの小説が描き出す世界観の一旦が現われている。まずはじめに、作品のみに添った私の作品解釈を述べる。その後に、作品そのものから少しはなれた立場からのピンチョン解釈を述べるつもりである。

1、小説そのものからの作品解釈
 以下に叙述するのは、あくまで私が作品の読解によって編み出した解釈であるから、「作者の思惑」とは全く等しくない。小説の語りの裏にある世界観・価値観を読み取ろうとしたのだが、そもそもこの小説の「語り手」は、19世紀的な考えからすると非常に曖昧である。3人称でもないし、1人称でもない。「視点」の問題は曖昧に処理されている。語り手は、自由自在に場所・時間を移動し、語りの中心となる人物も次から次へと変転する。全体がぼやけている。その朦朧とした文章の中から、ある一通りの意味の流れを読者である私は選別しようというのだが、この試みはやはり極めて無謀に思える。この小説の語り自身が、そういった解釈行為の無意味さを暴いているかのようだ。しかし、曖昧模糊な世界から、パラノイックに、自由に妄想を働かせて一通りの意味を紡ぎ出してみたい。この小説の中では、世界の全ては妄想なのだから。
 この小説では、事象が連鎖していく「歴史」という概念が問題視されている。2巻404頁のヴィンペの台詞にその一旦が示されていると思われる。


「根本問題は」とかれは持論を展開する、「あなたのために他の者に死んでもらうことでした。人間がすすんで生命を捨てるには何が必要でしょう?それは長いこと宗教のなわ張りでした。宗教ってやつはいつだって死のことを考えてきましたから。阿片というよりテクニックとして使われてきました‐死についての信念のために死ぬよう仕向けてきたわけです。なるほど筋が通りませんが、あなたにとやかくいう権利があるでしょうか?宗教に力があるうちはうまい具合いにいっていました。ところが、死のために死ねなくなったときから、人間は宗教色のない信念を持つようになりました‐それがあなたのいうことです。歴史が発展していって、あらかじめ定められた形になるのを手助けするために死ぬ、ということです。おのれの行為がハッピーエンドをほんのちょっと手近に引き寄せるんだ、と納得して死ぬ。自殺して革命の捨て石になる、結構じゃありませんか。だがいいですか、歴史の変化ってのが必然なら、何も死ぬことはないでしょう。どうです、ヴァスラフ?どっちみちそうなるというんなら、死ぬ死なないは問題じゃないでしょう?」(2巻p404)


 個人を超えた大きなものに個人の生が吸い取られること。かつては、宗教が人間に死を与えていたが、近代になって個人主義が確立されてからは、歴史が人間の生を回収するようになった。ここでいう宗教は、キリスト教が念頭に置かれている。敵はヨーロッパから産まれた価値観なのだ。キリスト教ヨーロッパは、死と抑圧をふりまいてきたと、語り手は言う。植民地にのみ生があり、ヨーロッパは世界を侵食してきた。死は、分析と秩序を伴う。ヨーロッパから発した歴史によって、世界が死に追いこまれて行くという極めて悲観的な世界観が叙述される。死は、現代では、「アメリカ製の死」という形をとっている。産業社会=死というようにこの小説では捉えられている。死に対して、この小説が対立項として持ってきているのが、生の世界である。生と死の対立が描かれた部分を引用してみよう。


「〈世界〉は閉じたもので、循環し、共鳴し、永遠に回帰している」と告げる〈蛇〉は、〈循環〉を乱すことを唯一の目的とする〈システム〉の中に受け渡されることになる。この〈システム〉は〈生産性〉と〈利益〉は時と共に増加し続けると主張し、手に入れるだけで与えようとはせず、ほんの一握りの必死になっている輩が利益を得るように〈世界〉から厖大な量のエネルギーを奪ってゆく。人類の大半だけでなく?〈世界〉の大半、動物、野菜、鉱物もその過程において浪費されてしまう。〈システム〉はそれをわかっているかもしれないし、わかってないかもしれないが、〈システム〉は時間を買っているだけなのだ。それに、時間はそもそも人工的資源であり、〈システム〉以外の誰にも、何に対しても価値がない。〈システム〉は遅かれ早かれ、そのエネルギー中毒に〈世界〉からの供給が追いつかなくなった時、生命の鎖でつながれた罪のない者を引きずりながら崩壊するにちがいない。〈システム〉内で生きることは、自殺マニアの運転するバスに乗って国を横断するようなものだ」(2巻p46)


 このように、西洋社会の全ての体制は、あたかもシステムとして一刀両断にふされているかのようだ。語り手はこのシステムの外部で生きることを暗に勧めている。実は、こうしたシステム、分析と死の秩序、因果があり発展する歴史といった考え方は何ら絶対的なものでなく、単なる集団的な妄想だと2巻の321頁でプレンティスは言っている。全ては人為的に構築されたものだという脱構築的な考え方がうかがえる。集団的な、強固に見えるパラノイアに対向するためには、創造的なパラノイアになれ、〈われら〉のシステムと呼ばれている自分自身に関する妄想、〈かれら〉のシステムとは全く逆の妄想をうちたてろとプレンティスはロジャー・メキシコに諭す。ここで注目すべきは、個人的な妄想であるはずなのに、それが「〈われら〉のシステム」と複数形で示されていることである。あくまで、システムに対する闘いは、個人ではなく、共闘で行われる。共闘なのだが、集団的に団結することのない、全体へと、死へと回収されることのない、〈生〉を守るための共闘である。このプレンティスら反勢力の考えを小説の語り手の意向、もっと大きく捉えて作者であるピンチョンからの読者へのメッセ?ジだと捉える事は、論理的には間違っている。ただし、読めば普通はそう思ってしまう。
 ヨーロッパ的な死に対する別の闘いは、ヨーロッパの内部で行われている。ブリセロのものだ。「わしは逃げたいーこの感染と死のサイクルから遠ざかるためにな。愛というやつに呑みこまれたいよ。そうすればおまえもわしも、それに死と生までも、いっしょくたにされて、われわれのなれの果てが光り輝く」(2巻p433)。しかし、ブリセロはゴットフリートをロケットにして発射してしまう。愛だと言っておきながら、決定を下すのはいつもブリセロの方だった。ゴットフリートは最後までブリセロの意見に従うだけだった。死と生の2項対立を超えるところにあるはずの愛が実現しているのかどうかはわからない。むしろ否定的に描かれている。
 小説全体はこのように、西洋的な秩序に対して、混沌・生の状態を対置させ、2項対立の価値を等価、もしくは無効なものに、あるいは逆にしようとしている。多種多様なエピソードによって、この対立概念の消去が行われている。そこに因果的なつながりはあまりみられない。速射法的にエピソードが脈絡なく噴出してくる。2巻300頁にある調性と騒音の対立もその一部である。〈ゾイレ〉の愛する調性は、ゲームにすぎないとグスタフは言う。所詮人為的に作られたものなのだ。「おまえはああいった最高水準の素材をしょい込んでいるから、それに啓蒙というレッテルを貼って、愚鈍を合理的に片付ける。カール、おまえには啓蒙が何かわかっちゃいない。わしなんかより、ものが見えていないじゃないか」(2巻pp300ー301)愚鈍として排除されたものにこそ、生の輝きがつまっている。騒音の方がトナリティより啓発的だとグスタフは言う。この意見もまた、作者の意見と同一視することなどできないが、読んでいれば自然と作者の意見だと思えてしまう。その「自然」こそ誤謬なのかもしれないが。
 
2、自由な立場からのピンチョン解釈
 ここからは、作品そのものへの忠実性から離れて、ピンチョンによって書かれた『重力の虹』を解釈したい。最初は、いくらか刺激的な、あまり前例のない読みをしようと大望を抱いてポストモダンの大作に取り組んだが、結局ありきたりな読みしかできなかった。巻末の解説に書いてありそうなことくらいしか読み取れない。誰もが、読み取ってしまうような『重力の虹』の解釈。自分ではそう思っていても、おそらく他人のものとは、細部で相当異なっているのではないだろうか。どこを引用してくるか、取り出せる箇所がたくさんありすぎる。解釈しようとすれば、必然的に何通りもあった他の可能性を省くことになるし、いくつもの大切なエピソードを省くことになる。
 しかし、よくよく考えると、やはりシステムに対する嫌悪とエントロピーの増大という構図の大枠はピンチョン解釈にとって揺るぎそうにない。2項対立を無効にすること、西洋的な価値観を疑うことはポストモダンの潮流のど真ん中にあるありきたりのクリシェだが、ピンチョンは、そこに理系と神秘主義の教養をありったけ継ぎ足した。さらに、小説はヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジアと、幅広い地域からの人物を登場させている。しかし、全てを包みこもうとしている全体小説ではない。全てを吐き出そうとしているだけだ。物語に大団円はなく、終わり方が曖昧だ。まだまだ話はあの調子で無限に続いていきそうであるし、多くの謎が残されたままだ。ポストモダンとしてできることの最大限をなそうとするかのように小説は膨張している。
 ポストモダン最高の作家、20世紀最高のアメリカ小説家と言われたりするピンチョン。「重力の虹」は20世紀最大の問題作だと言われたりもする。読もう読もうと思って読めずにいたが、単位に切迫しているため読んでしまった。率直に言うとあまり楽しめなかった。エピソードが多すぎて、どうしても混乱してくるのである。あまり前後のつながりを考えず、気楽に、詩的イメージと文体を楽しむことだけを考えて読んだが、それにしては長すぎる。そんなに評価が高くもなく、「アメリカ文学史」の授業のレポート課題として選ばれもしなかったならば、こんなものは読み通せなかっただろう。難解さ、曖昧さによって、文学史の正統に組み入られそうな作品である。ピンチョン自身、情報量を脈絡なく膨大にすることによって、システムへの反逆を試みたはずであるが、情報の膨大さ、作品の解釈可能性の多様さが逆に文学史という評価システムに大歓迎で迎えられるための必須要素であったということについて、どう思っているのだろうか。
 脈絡のないことを楽しむものであるはずなのに、解釈してしまえば、その瞬間に豊かな生命の動きは止まってしまう。意味を一つに読み取ろうとする読者と、多様な意味を産出しようとする作者の関係を考えさせる小説であった。



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