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ランボーとキリスト教についての散文

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の文章は2001年11月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

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詩人ランボーの毒、社会嫌悪、キリストへの反抗心を前にしては、ランボーの師、ボードレールの代表作『悪の華』は健全な書物に映る。ボードレールは『悪の華』の冒頭で詩人自らがキリストにならんとすることを述べる。それに対して、ランボーはキリストおよび教会への嫌悪感を徹底して表す。善よりも悪の方が劇的であるのは分かり切った事だ。善たらんとすればいろいろな制約がある。規則がらめの世界となる。悪には規則というものがない、何をしても許される。聖書の頃より名作文学は悪の世界を描ききる、ただし断罪としてであって、あくまで作者および読者の視点は聖の側にあり、教訓的となる。ボードレールは偽善を装うことなく悪になりきったのだと言える。そちらの方が綿密に美を描けるからだ。道徳的判断や教訓を示そうとする手間を省き、美の構築に専念できる。いやむしろボードレールは美を第一におく輩には敵対していたはずだ。彼らの示す美は社会的に美しいものに限られ、社会からはみだす美を描ききることはなかったから、ボードレールは何者にも規制されない美を描こうとしたのだろう。ただし、ボードレールは汚いと思われていたものを描くことには徹底したが、聖を定める社会権力を糾弾する手は弱かった。ランボーは聖性に対して攻撃をしかけた。社会の中の聖なるものはどうみても汚い、堕落している。「教会の貧者たち」にもそれはよく表されている。

『垢にまみれた胸をはだけ スープ腹をかかえるこの女たちは 目つきを見れば祈っているようだが実は決して祈ってはいず 形のくずれた帽子をかぶったお転婆娘たちの一群が 邪な思いを抱いてこれ見よがしに居並ぶ姿をじっと見ている 

外に待っているのは寒さと飢えと そして飲んだくれの亭主だ ここは快適 まだ一時間はあるのだ そのあとは言いようもない苦しみの連続だが ―その間も近くでは 肉だれの目立つ婆さん連が収集品よろしく群れ集まって 愚痴をこぼしたり鼻をならしたりしてひそひそ話の最中だ』(宇佐美斎訳、ちくま文庫)


教会での汚れた教え、退廃したキリスト教の姿を糾弾するランボーは奇妙にユダヤ教の律法を批判するイエスの姿に重なる。『福音書に関わる散文』でランボーはヨハネの福音書を言及しているが、彼はよく読んでいなかったのではないか、イエスと自分が同じ性格であることに気づかなかったのではないか。ヨハネの2章4節にイエスが母マリアとの関係を拒絶する場面が描かれている。『すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」』ランボーも母親から逃れようとした。女性に対する嫌悪感、恋愛では己の願望が成就されない挫折を詩で思う存分表した。イエスもまた神の子であることを自覚し、親兄弟、および恋愛関係から離れることを弟子たちに説いている。『地獄の季節』の最終パラグラフをみてみようではないか。『友愛の手について、私は何を語ったか!一つの大きな強みは、昔の偽りの恋愛を笑いのめしてやることができるということ、あれらの嘘つきのカップルどもに、恥辱の不意打ちをくらわせてやることができるということだ。―わたしはあちらでは女たちの地獄を見てきた。―そしていずれ私には、ひとつの魂とひとつの肉体のうちに真実を所有することが、許されるだろう。』自らが神の化身とならんとしたのである。思い出すだろう、イエスもまた神の子と名乗ったことが罪となり現行権力により処刑されたことを。イエスは完璧にノーの人なのだ社会に対しては。批判批判でわけのわからぬことを並べ立てるイエスは、安穏としている人からみればランボーやボードレールよりも危険人物と映るだろう。神の国、幻の世界、目に見えないが真の世界に対しては、その世界から来る呼びかけに対しては絶対的にイエスの人がキリストとなる。再び「教会の貧者たち」に戻ろう。

『そしていずれも乞食めいた愚かな信仰を涎のように垂れ流し イエスさまに際限もない泣き言を並べて見せているのだが イエスさまは鉛色のステンドグラスに黄ばんで 高みで夢見ておいでだ 邪悪な心を抱いた痩せっぽちや根性曲がりの太鼓腹も 肉の香りも黴の生えた布地の臭いも我関せずと むかつくような仕種で綴る陰気で衰弱しきった茶番劇だ』

社会に無関心なイエスの姿、イエスはおそらく地上世界の出来事には価値判断を全くしなかったのではなかろうかという意見を『ライ麦畑でつかまえて』の中でホールデンもいっている、弟子は誰でもよかったのだと。彼岸の世界に関心がいっているので、痴情世界の出来事にはまるで関心がないのだろう、イエスや偉大な数学者や芸術家は。イメージの世界、神をありありと見れる世界にいる者が社会にはない国に行ける。

ランボーのキリストに対するルサンチマンは、ナボコフのドストエフスキーやフロイトに対するルサンチマンと同じ種類のもので、先にそれを見つけてしまった者への嫉妬ではないだろうか。全ての西洋文学者はキリストやダビデのイメージ力を羨ましがるだろう。ダビデはいつも右隣に神が付き添っていてくれたという。イメージは右脳の見せてくれる世界である。右を伝統的に優遇していた西欧社会だが、皮肉にも理性を司る脳は左脳であった、必死に排除しようとしてきた感性の世界は、大切な大切な右の脳にあったのだからどうしようもない。ありありと印象を想起し操作し、再構築できるものが芸術と宗教と数学を彩るだろう。


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