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書評:ロマン・ロラン研究

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の文章は2005年11月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。)

蛯原徳夫「ロマン・ロラン研究」第三文明社、1981年刊をもとに、希有な作家ロマン・ロランを紹介します。


ロランが示した日常生活の規範

『一、生活に目的を定めること、一つの仕事をおのれに課すこと
 二、その目的に添うように、おのれの努力を方向づけ、意志を確定すること。
 三、おのれの行動の対象を、おのれ自身の中に求めずに、おのれの外に求めること。おのれのための生活に専念せずに、おのれの生活の対象のために専念すること。
 四、他に役立つものになること。それも抽象的、概念的、遊離的、「博愛的」でなしに、積極的で具体的にそうなること。善(たとえば施し、同情、寛容、親切など)を行なう一般的な機会を逃がすことなく、他人の誰かの幸福のために尽すことに、おのれの生活を捧げること。ーーおのれの慈悲心や愛を、あいまいな感傷におわらせないようにとくに心がけること。
 五、真実を求めることをけっしてやめないこと(調和的すなわち全体的な真実。芸術においては美。行動においては善。)もし真実がえられたなら、それをできるだけ他人にも享受させること。ただしそれを他人に押しつけないこと。他人には他人の欲するもの、たとえば自尊心の満足とか愛情とかを与えること。そういうものは、真実(たとえささいな真実であろうとも)をえてそれを信じている者にとっては、与えたとてなにほどのものでもない』(pp32-33)

トルストイの意志を継ぐ作家として、私はロマン・ロランにたどりついた。ロランはフランスの文学者であり、代表作は長編小説「ジャン・クリストフ」「魅せられたる魂」。ベートーヴェン、ミケランジェロ、トルストイの伝記三部作も残している他、日記、書簡、戯曲等著作多数。私はずっとロマン・ロランとヘルマン・ヘッセの区別がつかなかった。二人とも苗字と名前で韻を踏んでいるし、音感が似ているため、ロランが「車輪の下」や「デミアン」を書き、ヘッセが「ジャン・クリストフ」を書いたとあやふやな記憶を持っていた。ボードレールとボードリヤールのごとく似た音感を持つロマン・ロランとヘルマン・ヘッセは、戦争に言葉で闘った文学の盟友であった。

ロランは、フランス文学史の本を開いてもごく小さな扱いしか受けていないし、第二次世界大戦後の現代思想でも注目されていなかったので、私もさして注意を払っていなかった。「ジャン・クリストフ」を昔一度開いたことがあったが、描写のつたなさと、二十世紀小説なのに古くさい大河小説の構造に辟易して、冒頭部分しか読まなかった。

最近になってトルストイにどっぷりと集中した時、ロランとトルストイが往復書簡を交わしていたことを知り、トルストイ以降の道義的な作家としてロランを見出したのだった。ロランについて知識を深めていくうち、何故ロランが現代フランス文学史で黙殺されているのか原因がわかった。

ロランは二十世紀初頭フランスで起きていた新しい文学の流れを思想的な頽廃とみなしていた。彼はトルストイ同様にボードレール、ランボー、マラルメ、プルドンなど道徳を顧慮しない文学の歩みと同調しなかった。フランス現代文学、いや世界現代文学はボードレールのモダニズム、芸術至上主義から始まる。「芸術のための芸術」はプルースト、ジョイス、ナボコフ、ピンチョンといった文学の巨匠を生み出していくが、難解になりすぎた文学は一般大衆から遊離していく。トルストイは道徳的、教育的意義をなくしていく文学を批判した。晩年にはベートーヴェンやシェイクスピアまで批判することになるトルストイに、ロランは完全に同調するわけではないが、文学に賦与する精神的・道徳的意義は、トルストイに等しい。

モダニズムの流れにのらないロランは孤立していたかというと、全くそんなことはなく、全世界に向けて真摯なメッセージを発し続けていた。トルストイからくる絶対非暴力の平和主義を掲げるロランは、ヘッセ、マン、タゴール、ガンジーなど知の巨人たちと連帯して、世界大戦に飲みこまれていく二十世紀と対峙する。そんな彼が何故現在全く文学史に扱われないのか。二十世紀文学が、善悪の価値判断を放棄して小説を創ることで発展したのに対し、ロランはそれをデカダンと批判して、善を尊んだためである。

彼の小説は技術的に優れたものではないし、かといってトルストイ流の十九世紀リアリズムで書かれたものでもない。『私は文学の作品を書いているのではない。信念の作品を書いているのである』(p144)とロランが言っている通り、彼の小説は全編詩のような、主観的かつ宇宙論的な詩法で書かれている。小説の登場人物は強烈な信念に基づいて現実社会と闘う人であり、主人公の闘争的生が、読む者に勇気を与える。図書館で唯一見つけたこの研究書に綴られた、ロランが生み出した小説の登場人物のあり方を引用しよう。

『つねにより深いもの、より高いもの、より真実なものを、指向していなければならない。こういう自己の、より純一な秩序づけ、より高度な人間完成のいとなみは、もちろん、さまざまな要因によって妨げられ阻止される。人間として担う先天的な障害ーー本能、性格、病気などや、外部的な妨害、ーー時代や社会の無理解、貧困、他人の凝視などである。ゆえにその精神生活は必然的に闘いとなる。自分自身との闘い、および外部的なものとの闘いである。そしてその方向づけられた生活態度が強固であればあるほど、その闘いもまた深刻となる』(pp134-135)

ロマン・ロランは学生時代トルストイに手紙を書いた。知識階級が楽しむ芸術は、肉体労働より遥かに劣るものだと喝破した後期の宗教哲学的トルストイに、若きロランは、芸術の意義はないのかと質問する。答えを得られないまま、ロランは返事を懇願する二通目の手紙をトルストイに送る。トルストイはロランの手紙に感動して、長文の返事を書く。

『トルストイはまず肉体労働について答えた、「わたしはけっして肉体労働をそれ自身一つの原則と見なしているのではなく、それをただ道徳的原則の最も簡単で自然な適用だと見なしているのであり、その適用は誠実な人なら誰でもなによりも第一に経験することなのです」と述べ、われわれの堕落した社会、自称開化人の社会で、肉体的な仕事がわれわれに課せられるべき理由は、ただ、この社会の過去および現在までの主要な欠陥が、肉体労働を勝手に免れて、古代の奴隷と同じような奴隷であるとこの無知で不幸な貧民階級の労働を、無償で利用しているということだ、とする。(…)肉体労働は万人にとって義務でもあり幸福でもある。ところが精神活動ーー科学や芸術は、「その天職をもつ人にとってのみ、義務や幸福となるところの特別の労働」なのである。
 その天職をもつ者とは、「現在の自分およびそうあらねばならない自分、またそうあらざるをえない自分について、深い確信をもつ者」のことである。そしてその確信は希れに見られるものであり、「その天職はただ、学者や芸術家がその天職を遂行するために自分の安楽や幸福を犠牲にすることによってのみ、認められ証拠立てられ」るのである。万人の道徳義務から逃がれ、科学や芸術を愛好するという口実のもとに、社会の寄生虫の生活に甘んじているような者は、偽りの科学や芸術しかつくりだすことはできない。そしてその天職をもつ人びとのつくりだすものは、なにも特別なものというわけではなく、ほかの肉体労働者たちのつくりだすものと同じように、おのずからに他人にとっての必要品なのであり、他人にとって利益となるものなのであって、なんら特権的な意味や権利などもたないのである。科学や芸術の特別な意味や権利を主張するのは、「みずから学者や芸術家と称する人たちが、自分のつくりだすものが自分の消費するものに比べて劣っていることを、よく承知して」いるからなのである』(p248-249)

ここで注目すべきは、トルストイは芸術を労働より優れたものと考えているのでなく、ほとんどすべての芸術は労働よりはるかに劣ったものであり、百年に一人いるかいないかの芸術家の仕事のみが、労働と等しいほどの価値をかろうじて持つと言っている点である。巨匠の大傑作といえども、多くの人が言うように労働者の仕事よりはるかに優れたものではさらさらなく、生活必需品に等しい価値をようやく持っているにすぎないというのが、トルストイ的な皮肉である。

この考えを現代に当てはめると少々齟齬が生じる。トルストイは民衆芸術を尊び、将来的に知識人階級からでなく、民衆から芸術家が出ることを期待したが、「民衆による民衆のための芸術」が商業に堕落しすぎているという危険がある。高度資本主義社会は生活に必要な商品ではなく、実際不要だが、差別化と利益を生み出すためだけの過剰な消費を高速促進する。高度大衆消費社会では芸術もまた、生活に本当に必要な糧ではなく、生産者にとっては利益を生み出し、消費者である読者にとっては気晴らしと差別化をもたらす商品となるにすぎない。高度大衆消費社会下の民衆芸術はトルストイが夢見たような、質素な福音書のようなものではなく、大変享楽的な娯楽に成り果てたのである。これは知識階級の慰みであった十九世紀芸術よりも地球と人類の歴史にもっと害悪をもたらすもので、少なくとも地球環境生活の維持向上にふさわしい内容を持っていない。

ロランは商業受けする芸術を書いたわけではない。トルストイからの返信に感激したロランは、芸術創作を通じてエゴイズムを肥大させないよう、作品が儲けを期待して通俗的にならないよう、学術的な仕事をしながら「ジャン・クリストフ」を書き続けた。芸術は労働より優れたものではないのだが、エゴイズムと束の間の快楽を肥大させるために働くことが究極的には悪いように、エゴと利益のために芸術創作することもまた文化の堕落を導く。現代文学史から消えてしまいそうなロマン・ロランの輝きを復活させることが私の役目の一つだと思った。

母親を毒殺した少女が書いたブログの噂、幼なじみと疎遠になったことを悔やんだ少年が少女を切り刻んだニュース、ホストに金を貢ぐ女性投資家、これらのマスメディアにきらめく報道を前にして、ロランなら、トルストイなら、ヘッセなら、ゲーテなら、アリストテレスなら、ソクラテスなら、キリストなら、仏陀なら何を考え、どう答えたのか。考える道をさぐるには、ただ己の内面にノヴァーリス的に深く沈静するだけだ。

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