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(以下の書評は2005年10月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)
クロイツェル・ソナタ/悪魔 トルストイ by G-Tools |
引用文は<河出書房トルストイ全集9「後期作品集 上』所収、中村白葉訳>を使用しています。
後期トルストイの中編小説。自身の原始キリスト教的宗教哲学にそって書かれたもの。ゆえに倫理を重要視しない、トルストイが嫌った無価値論の文学愛好者からは、罵倒の対象となっている小説である。
結婚前に読んでおくべきおそるべし小説として紹介されていたのを読んで、読むことに決めた。これを読んでも結婚に踏み切れるのかどうか、踏み絵のようなものである。マルクスを読んだ後で資本主義に組することにするのか、と同じような社会制度是認に対する踏み絵ならぬ踏み小説であろう。トルストイの残した結婚制度批判を踏みつけて結婚することができるのかどうか。
小説の語り手は、電車の中でポズドヌイシェフという男と知り合う。彼がこの小説の主人公である。ポズドヌイシェフは性欲と結婚についての自説を小説中盤まで延々とのべる(この長談義が小説的でないとしてまず批判の対象となる)。ポズドヌイシェフは妻を嫉妬から殺している。妻を殺した男が性欲と結婚を徹底的に厳しく批判しているという点に注意しながら小説を読むことにしよう。
殺人者は、性欲をまず徹底的に批判する。性欲批判は結婚にまで及ぶ。
「放蕩は、なにも肉体的なことにだけあるものではありませんからね、ーーどんな肉体的醜行も放蕩ではありませんからね。放蕩、真の放蕩とはつまり、肉体的関係をむすんだ婦人に対する道徳的義務から自分を解放しようとする事実のうちに、あるのです。」(p16)
肉体的関係を結んだことに対する道徳的義務が結婚だという説は、愛も美しさのかけらもない極論のように思えるが、「できちゃった結婚」という現代日本の現象を見ると、彼の主張はきわめて正当なようにも思える。欧米ではもう、子供ができても結婚する必要のない社会体制ができている。「できちゃった結婚」の蔓延を嘆く保守主義者も多いだろうが、実は婚前性交に励む若者たちは、子供ができたら結婚すべきという道徳観念に根深く囚われているのだ。彼らがそう思いこんでいるだけではないかもしれない。子供ができたら結婚せざるを得ない環境が日本にはある。この社会ではまだ、子供がいるのに結婚していない女性は差別の対象となるし、親が結婚していない子供もまた学校で差別の対象となってしまう。
こう言うからといって、私は婚姻前のセックスを奨励する性的自由主義者ではない。私はトルストイと同じく、無規制の性欲には反対だが、放蕩の結果産まれた子供を差別する社会にも反対する。トルストイは放蕩を断罪するが、おそらくその論理的帰結として、放蕩の結果としての私生児をも悪しき存在として認定するだろう。これは私の憶測にすぎず、トルストイは神父のように、社会から忌み者にされる存在にも慈愛を捧げるかもしれない。
トルストイは婚前婚後に関わらず、性欲そのものに否定的である。トルストイは、性欲は健康の証だとする医学を否定する。医学も政治社会も、性産業の存在を擁護していると批判する。正確には妻を殺した男ポズドヌイシェフの意見なのだが、小説中盤まで続く長い語りは、トルストイの思想の反映そのものと思って間違いない。
「それはね、もし梅毒の治療に費やされる努力の百分の一でもが放蕩の根絶に利用されていたら、梅毒なんか、とっくの昔に忘れられていただろうからですよ。ところが、その努力は放蕩の根絶には向けられないで、逆にその奨励ーー放蕩の安全を保証することにむけられているのです。」(p18)
梅毒をエイズと換言してみよう。政府はもちろんエイズの治療、ワクチン開発に本気だが、エイズ予防でコンドームも配る。これは放蕩を奨励していることともとれる。まあこんなのは宗教的極論だ。政府は不特定多数との性交を控えるようアナウンスもしているだろうが、道徳的教説だけではエイズがおさまらないから、仕方なくコンドームも配布しているのだろう。それでもトルストイ的に考えると、快楽目的の性交を是認するようなコンドームを配るより、快楽を求めて性交をするのは控えるよう教育する方が重要なのである。このあたりの考えは、アメリカの宗教的保守派のようだ。私はとりあえずコンドームを配ることには賛同する、現実的な対策なのだから。せめて私が成せることは、快楽を賞讃する恋愛小説を作ることではなく、愛に基づく慈悲深い行動を小説化することである。
トルストイは愛ある関係、神聖な結婚を奨励しているかというとそうでもなく、彼は結婚そのものも否定する。ポズドヌイシェフは、女たちは精神的に美しくあるよりも、肉体的に美しくある方が男の関心を惹くことを知り抜いており、着飾った最上流の社交婦人は淫売婦も同然だと言う。そして結婚とは、長期に渡る淫売婦を購入することなのである。
「きびしく定義すれば、ただこういうほかないことになるのです。短期間の淫売婦はふつう軽蔑されるが、長期にわたる淫売婦はふつう尊敬されるのだと。」(p23)
近代の結婚制度とは妻の奴隷的従属を促すものだと考えれば、フェミニストもこの極論に賛成できるだろう。だいたいにして私も、恋愛とは精神的なものであり、恋は精神的な尊敬の念から生まれると考えたいのだが、いつも私は女性の外面的美しさに惹かれて恋していたのだから、トルストイの厳しすぎる批判を否定することはできない。
トルストイは婚前性交だけでなく、結婚後の性交も否定している。結婚後、性的欲求が満たされた後の夫婦に、真の悲劇が始まっていく。
「わたしはそれをいさかいと名づけましたが、しかし実はいさかいではなく、ただただ、現実に二人のあいだにあった深淵が暴露されたまでのことでした。恋情が肉欲の満足によって消滅し、二人は互いに真の関係に立って、面と面とを向け合わせた、つまりお互いにできるだけ多くの満足を相手を通してえようとしている、互いにまったくの他人同士である二人のエゴイストとなったわけです。わたしは、二人のあいだに起こったことをいさかいと名づけましたが、それはいさかいではなくて、単に肉欲中絶の結果が、われわれ相互の現実の関係を暴露したまでのことだったのです。わたしは、この冷たい敵意ある関係がわれわれのノーマルな関係であることを知りませんでしたが、それを知らなかったのは、わたしたちの敵意ある関係が、最初の時はきわめて速かに、新たに立ち昇った肉欲の蒸気、すなわち恋情のために、ふたたびわれわれから隠されてしまったからです。」(p33)
こんなことになるのなら結婚しない方がいいだろう。性欲の満足を目指した結婚は、性欲充実後は悲劇でしかなくなるとすれば、他に結婚する理由をどう見つけようか。子供を養育するために結婚しようか。ポズドヌイシェフすなわちトルストイは子供を持つことさえ否定する。
「百姓や労働者には子供が必要です、育て上げるのに骨は折れますが、彼らにはそれが必要なのです。それがあってこそ、彼らの夫婦生活の弁明になるのですから。ところが、われわれ子供を持っている人間には、もう子供は必要でない、それはよけいな心配、物入り、遺産相続競争のたねであって、むしろ重荷です、こうなると、わたしたちの豚的生活の弁明は、一つもなくなってしまうわけです。」(p48)
子供を産む必要がないというなら、トルストイは人類の存続を希望してもいないということになる。実はトルストイはそれでいいと思っているふしがある。昔から宗教ではハルマゲドンの教説があたり前だと彼は書いている。トルストイは堕落した人類の存続は意味がないと思っているのだろうか。そうだとすると、そもそも社会について考えることが成り立たないではないか。トルストイは社会的意義を考えて小説を書いているのではなく、原始キリスト教の愛の理想から、小説を書いており、信仰に生きる者以外が死に絶えてもかまわないと思っているのだろうか。そうなると彼はもう小説家ではなく、ただの宗教家となってしまう。
結論を出す前に、小説の続きを読もう。性欲、結婚、子供を否定した主人公は、家庭を捨てて、信仰の道に入ったかというとそうではなく、妻の前に現れた音楽家の男に嫉妬するのである。彼はついに妻と音楽家が深夜家で会っているのを発見して、嫉妬に苛立ち、妻を刺し殺してしまう。この嫉妬の描写がものすごく小説的で、ここにトルストイの小説家としての腕前が見て取れる。妻と音楽家が性的関係にある証拠は何もないのに、夫はどんどん嫉妬を膨らませて、妻を殺してしまう。
「しっかりして下さい! どうなすったのあなた? どうなすったの? なんにもありゃしませんわ、なんにも、なんにも……わたし誓いますわ!」(pp.77-78)
妻がそう言っても、真相がどうかはわからない。夫の嫉妬をかきたてる要素があったのは確かだ。音楽家が妻を性的に見ていたかもしれない。本当に何もなかったかもしれない。妻と音楽家との間にある心理は謎のままである。この殺人にいたる嫉妬の描写はものすごく説得力があり、主人公と同じように嫉妬に悩まされている自分が罪深い存在に思えてきた。小説的には、性欲をさんざん批判する主人公の男が、性欲を捨てきれず、嫉妬で殺人をおかしているという皮肉だけが残る展開である。ポズドヌイシェフは自分の考えにしたがって、家庭を捨てればよかったのだが、結局この男は出家の後に向かう宗教的組織も何もなく、妻を殺すことで家庭、嫉妬の輪から脱しただけである。
小説末尾には、作者による「後語」という作品解説が付されている。作者であるトルストイ自身が、小説で言いたかったことを全て詳細に書いている。
「第一に私が言いたかったのは、こんにちのわが社会には、あらゆる階級を通じて、偽りの科学によって支持されている堅固な信念、すなわち性交は健康のために欠くべからざるものであるのに、結婚はつねに可能というわけにゆかぬものだから、しぜん、男子に金銭の支払い以外になんの義務をも負わせない結婚外の性交をもって、まったく自然な、したがって奨励されてしかるべきことだする信念ができあがっているということである」(p83)
性風俗がいけないのはこうなったらもう当然として、アダルトビデオの存在はどうか。若者の快楽を奨励する、メディアの中でセックスをする女優たち。彼女たち自身の性は傷ついている。快楽をあおるような記事を書いている男、漫画家、小説家、全てが性欲と売春を促進しているとも考えられる。
トルストイは小説の中で言いたかったことの二番目の事項として、性的結合を詩的に美化したり、神聖化したりする風潮への反対、結婚の目的を性的満足に置くことへの反対を表明している。「クロイツェル・ソナタ」を一読したかぎりでは、トルストイは性欲にも、結婚にも、出産にも反対している狂信家のようだが、彼はただ、性的結合や恋愛を美化して語るメディアのあり方に反対したいだけだったのだろうか。その割には意見がエキセントリックすぎて、辟易させられるのだが、トルストイは、性的結合を第一の目的としない結婚や出産は容認しているようである。
「(主張の)第四は、子供が快楽の妨害だとか、不幸な偶然だとか、あるいはまた、彼らが予定の数をこえないかぎり一種の悦楽だとかいうふうに考えられているわれわれの社会では、これらの子供は、理性あり愛ある創造物としての彼らの前に立っている人生の任務に適応するようにでなく、ただ彼らが両親に与えうる快楽を目標として教育されている事実である」(p86)
トルストイは子どもが快楽の対象となるよう美しくなることを願って養育することなどやめて、別の目的を立てねばならぬという。
「結論は、肉の愛がなにかとくに高尚なものででもあるように考えることをやめなければならぬということ、人間に値いする目的は、人類にたいする奉仕にしろ、祖国にたいし、科学にたいし、芸術にたいする奉仕にしろ(神にたいする奉仕はいうにおよばず)、すべてわれわれが人間に値するものと考えるほどのものである以上、いかなるものであろうとも、結婚ないし未婚における恋愛の対象物との結合によって達せられるものではなく、反対に、恋愛とか愛の対象との結合などは、(詩や散文の中でいかにその反対を証明しようとつとめようとも)けっして人間に値いする目的の達成を容易にするものでないばかりか、むしろつねにそれを困難にするものであることを、理解しなければならぬということである。」(p86)
ここを読むと、トルストイはセックスも結婚も出産も禁止だという狂信的な宗教団体の宣伝家ではなく、社会問題を考える小説家だということがわかる。トルストイは作者自らによる小説の解説で、性的結合を美的に描く小説はいけないと言い、人生の目的は性的結合ではなく、別のところ、隣人愛にあるという。それを小説内で読者に気づかせなかったら、この小説は失敗作だろう。げんに多くの読者が、小説を読んだ限りは、トルストイは性欲も結婚も子供を持つことも全て否定しているのかと思ったから、トルストイは自らの解説で、小説内では語れなかった、性的結合に勝る人間が生きる目的、隣人愛について語るのだろう。
『「汝の心のすべてを挙げ、汝の魂のいっさいを傾け、汝の理解のことごとくをつくして、汝の神を愛し、汝の隣人を、汝自身を愛するがごとくに愛せよ。天なる汝の父の完きがごとく完たれ」これがキリストの教義である。外面的教義の実行の検証は、これらの教義の規正と行為との合致である。そしてこの合致は可能である。キリストの教義の実行の検証は、理想的完成との不一致の程度を認識することである(接近の程度は見えないーー見えるのはただ完全との隔離だけである)。』(p88)
トルストイは狂信的な宗教家ではなくやはり社会問題を見つめる小説家だと先ほど決定したのに、この部分を読むと、彼はやはりキリスト教の単なる宣伝者ではないかと読者は思うかもしれない。実際そうなのだが、それでも私は、彼の宗教倫理を、社会問題と対峙する小説家の姿勢として擁護し、後期のトルストイをも小説家として理解し、許容したい。
性的結合に第一義をおかないかぎりの結婚なら肯定したかに見えるトルストイは、次のページで早くも結婚制度を否定する。
「キリストは、ただに結婚という制度を設けなかったばかりでなく、その外的教義だけの解釈に従うと、むしろ結婚を否定してさえいるのである。彼は「汝の妻をすててわれに従え」と言っている。にもかかわらず、自称キリスト教会の教義は、結婚をキリスト教的制度として設定している。詳しくいえば、彼らが制定した外的条件によると、恋愛は、キリスト教にとり完全に罪悪ではなく、正常のものだと主張するのである。」(p89)
新約聖書では結婚を認める箇所もあるし、否定する箇所もある。そもそもキリストの言い方が、白黒はっきりさせる合理的なギリシア哲学的言い方ではないから、聖書の別の箇所で、全く違うことを言っていても問題ないのではないか。それでもトルストイは、イエスは結婚を否定したと決めつけたがる。イエス自身アリストテレスみたいに白黒はっきり言えていないのだから、トルストイが無理をして決めることはないとも思えるのだが、ここで結婚を認めてしまっては、ほかの社会制度もなしくずし的に認めることになってしまうから、トルストイは結婚制度を否定したがる。
「キリスト教の教会内礼拝、教会的礼拝、キリスト教の教師教父、キリスト教的財産、キリスト教的軍隊、法廷、政府などが、いかなる時にもあるべきでなく」(p90)とトルストイは主張する。軍隊と法廷と政府を認める現行のキリスト教などキリストの教えから外れているというのがトルストイの主張である。ゆえに、聖書の中でイエスは結婚をしてもいいとも悪いともどっちつかずに言っているからといって、現行教会のように結婚を制度的に認めてしまっては、トルストイ的にはまずいのである。ただそう決定したがるトルストイも、結局結婚してもいいのか悪いのか明確に書きわけておらず、いいと書いた後にすぐ駄目だと書いてみたり、一定していないのがイエスそっくりで面白い。
「結婚は、よし結婚する人たちが人類の存続を目的とする場合であっても、神と人々への奉仕に協力することはできないものである。かような人々は、子供の生命を創造するために結婚するかわりに、日ごろわれわれの周囲で、あえて精神的とはいわず、物資的糧の不足から滅びつつある数百万の子供の生命をまもり救うほうが、はるかに簡単である。ただキリスト教徒も、現在存在する子供たちの生命すべて保証されているということを見かつ知った場合にだけ、堕落や罪の意識なしに結婚することができるだろう。」(p90)
これがトルストイの結婚に対する考えの結論であろう。自分たちだけが幸せで、他が不幸でもいいのかという良心の呵責を感じるかぎり、結婚せず、奉仕の道を歩むべきなのである。自分の幸せの償いとして、いくら償っても決して償いきれない、受け取った愛への恩返しとしての人類、地球生命への奉仕を、我々日本列島に住むものもまたトルストイに続いて実行し続ける義務があろう。
中編小説の書評のはずが、全人類の問題、かつ己の生き方の問題にまでいってしまうところが、トルストイのトルストイたる由縁なのであった。
日本は平和に覆われている。遠い国の悲惨は見えてこない。それを圧倒的に感じようと努力するのが倫理である。また同時に、望まれている平和状態にあるかのようで、心は常に嫉妬と独占欲と飢餓感で覆われていて、絶えず奇妙な事件が発生している現実を、それでいいのかと徹底的に批判することもまた、隣人たちに対する義務である。
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