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書評:トルストイ『光あるうちに光の中を歩め』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年10月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

 河出書房トルストイ全集9「後期作品集 上」所収。中村白葉訳。原著は1887年に完成している。
 キリスト降誕後百年を迎えたローマ皇帝トラヤヌスの治世の時代、主人公のユリウスはキリスト教徒の友人パンフィリウスの話に共感し、何度かキリスト教徒になろうと思い立つが、その度に反対者に説得され俗世で生き続ける。三度目にしてようやく反論を振り払い、キリスト教徒になった男の物語。
 物語冒頭には、「閑人たちの会談」という超短編が序言代わりに添えられている。現代ロシアの、金持ちの家での歓談。心と肉体を苦しめるよくない生活から脱して、キリスト教徒的な生活に入ろうと誰かが話し出すと、すぐ別の誰かが、子どもの養育はどうする気だ、両親の意志を尊重しろ、妻を大切にしろ、老人は今更生活を変えるなと反論して、実行を思いとどまらせる。「というわけで、けっきょくだれひとりいい生活をしてはならない、ただ喋ることだけは差し支えない、こういう結論になるんですね」(p162)という一人の客の嘆きで、この小編は終わる。
 本編は、「原始キリスト教時代の物語」と銘打たれている通り、キリスト教徒が政治犯としてローマ政府から迫害され、民衆からも忌み嫌われていた時代の物語である。主人公のユリウスは学生時代の友で、今はキリスト教の団体で生活しているパンフィリウスに、キリスト教の信仰について質問する。
「キリストはまたわれわれに、われわれが喜びと呼んでいる喜びーー食べること、飲むこと、遊ぶことは、もしその中に人生があると考えるのだったら、それは喜びではありえない、それらが喜びであるのはただ、われわれが他のものーー神の意志の遂行を求めるときだけであり、ただそのときにだけこれらの喜びは、正しい報いとして、神の意志の遂行につづくのであると、教えている。神の意志の遂行という労苦なしに喜びをえようとすること、労苦から喜びだけをえりだそうとすること、これは、花茎を切りとって、それを根なしで植えつけるの変わりがない。われわれはそれを信じている。だから、真理の代わりに虚偽を求めることはできない。われわれの信仰は、人生の幸福はその喜びにあるのではなく、喜びとかそれを思う期待とかいう考えをぬきにして、神の意志を遂行することの中にある、これを信じることである。」(p168)
 神の意志の遂行とは、何も十字軍となって異教徒を殺すことでも、アフリカ大陸やアメリカ大陸を征服して異教徒を虐殺することでも、まして地下鉄にサリンをまいて無差別殺人をすることなどではさらさらなく、非暴力と愛の生活を実践することである。
 ユリウスは喜びの中にこそ自分の人生をおいていたので、パンフィリウスの考えを非難した。パンフィリウスは何も喜びを感じることそのものを否定したのではなく、喜びを人生の中心に置くことを否定しただけなのだが、ユリウスは回心することなく、キリスト教徒の中に商売をして裕福な者を見つけたら非難し、偽善者、詐欺師とののしり、自分の享楽的な消費生活を維持し続けた。
 ユリウスは放蕩生活を続けながらも、誰からも愛されていないと感じ始め、ただ一人の友だと感じられるパンフィリウスのもとへ向かおうとする。途中、中年の見知らぬ男に呼び止められ、キリスト教徒を否定する言葉を聞く。男はキリスト教徒の学問や社会事業や芸術を知らない無知と、その盲目的信仰を批判し、共和国の利益のために尽くす、英知ある男子になることをユリウスにすすめる。ユリウスは道を戻り、豪商の娘と結婚する。
 結婚後、ユリウスは再度パンフィリウスと出会う。幸福かと聞かれて、ユリウスはこう答える。
「いったい幸福とは何だろう? もしこの言葉によって自分の欲望の完全な満足を意味するとすれば、もちろん、ぼくは幸福じゃない。まあ今のところ、自分の商売をどうにかうまくやっているし、世間の人もぼくを尊敬してくれかけている。そしてそのどちらにもぼくは、若干の満足を見出している。そりゃね、ぼくだって、自分より金持で尊敬されている人を大ぜい見ている、けれどもぼくは、自分がやがて彼らと肩をならべるばかりでなく、彼らを追い越すことさえできると、予見している。ぼくの生活も、この面は充実している。が、夫婦生活というものは、率直に言うが、ぼくを満足させてくれなかった。(…)ぼくの家内は美しく、りこうで、学問もあり、気分もやさしい。はじめのうち、ぼくは完全に幸福だった。しかし今はーーきみは妻を持たないから、こんなことはわかるまいがーーわれわれのあいだには、ぼくが彼女にたいして冷淡な気持ちでいる時に、妻がぼくの愛撫を求めたり、またはその反対であったりすることから、不和の原因が現れつつあるのだ。」(p179)
 ユリウスはキリスト教を欺瞞だと言う。キリスト教は人生の喜びを否定しているし、幻滅から逃れるために、魅惑、結婚そのもの、はてには愛をも否定しているという。それに対してパンフィリウスは、「それは反対だ、ぼくらは愛以外のものをすべて否定しているのさ。愛は、ぼくらにとって、いっさいのものの第一の基礎をつとめているものだ」(p180)と答え、欲情を挑発しあう色欲関係のかわりに、兄弟姉妹の間で生じるような愛の感情を育むよう努力していると言う。
「異教徒は、きみもそうだが、自分の意見によって、自分、自分一個人に何よりも多く快楽を与えるだろうと思われる女をえらぶ。ところが、そういう条件では、目移りがして、決定が困難だ、ましてや、快楽がさきのほうにあるにおいてをやだ。ところが、キリスト教徒にとっては、そういう自分のための選択はない、あるいは、むしろ自分のための選択、自分の個人的な快楽のための選択は、第一でなく、第二義の位置を占めているにすぎない。キリスト教徒にとっては、自分の結婚によって神の意志をおかさないということが第一の問題なんだからね」(p182)
「侵犯というのはね、つまり、ひとりの男か女にたいして、自分と同じ人間でなく、彼女との接触から生じる自分の快楽を愛すること、したがって、自分の快楽のために結婚生活にはいる、こういうことをいうのだよ。キリスト教の結婚が可能であるのは、ただ、人間に万人にたいする愛があり、肉の愛の対象が、その前にすでに、人間にたいする人間の同胞愛の対象になっている時にかぎられるのだ。」(p182)
「万人にたいする愛に根ざさなくても、それ自身美しいものと認められていて、詩人たちにうたわれている恋愛は、愛と名づけられる権利を持たない。それは動物的情欲であって、ひじょうにしばしば憎悪に移行し易いものだ。」(p183)
 ここまで読んで、自分の快楽、動物的情欲のために恋人を必要とし、かつしばしば嫉妬や憎悪に移行してきた人生を反省しない者がいるのだろうか。
「異教徒の世界では、人々は、同胞にたいする愛などは考えないで、そういう感情を育て上げることはしないで、ただひとつのことばかりーー自分のうちに婦人にたいする肉情的愛をかきたてることばかり考えて、その情欲を自分のうちで育て上げようとしている。だから、彼らの世界では、すべてのエレーナ、あるいはそれに類した女が、多くの男の愛を呼びさましている。競争者は互いに争って、互いに相手を打ち負かそうと努力しているが、それはちょうど牝を奪い合う動物である。そして、程度の差こそあれ、彼らの結婚は、闘争と暴行にほかならぬ。われわれの共同体では、だれも美の個人的享楽なんか考えないばかりでなく、それにみちびくすべての誘惑ーー異教徒の世界では立派なこととあがめられて、崇拝の対象となっている誘惑を避けようとしている。ところが、われわれは反対にただ、絶大の美にたいしても、絶大の醜にたいしても、すべての人々に無差別に持っている、隣人にたいする尊敬と愛の義務について、考えているだけだ。われわれは力いっぱい、この感情の育成につとめているから、ぼくらの中では、万人にたいする愛の感情が、美の誘惑にうわまわり、それを征服して、性的関係から起こる不和を根絶しているというわけだ。
「キリスト教徒は、ただ、互いに牽引を感じ合っている婦人との結合が、だれにも不幸をあたえない時にかぎって、はじめて結婚することにしている。(…)キリスト教徒はひとりの婦人にたいして牽引を感じるのは、ただ彼が、彼女との結合がだれにも悲しみを与えないことを知っている場合にかぎられる」(p184)
 嫉妬するのは、美しい人を愛しているから、独占したいからであって、もし嫉妬していた相手の男に彼女をとられると、自分自身は泣いて悲しみ怒り狂ってしまうものだ。これでは欲望の対象を巡る生存競争である。誰もが悲しまず、喜び合う関係など、無理ではないかとも思われるのだが、パンフィリウスは、相手が個人的満足の対象ではなく、愛の対象になるだけなら、情欲は目をさまさないと言っているから、情欲なく相手を愛することが実に大切であることがわかる。同胞愛と情欲を完全に切り離して考えること。
「その相違はだね、第一に、きみたちのほうでは色欲が、美とか、愛とか、女神ヴィナスへの奉仕とかいう名で、人々の中に保有され、挑発されているが、ぼくらのほうでは、反対に、色欲は、悪ではないが(神は悪をつくらなかった)万一ところをえない場合には悪ともなりうる、ーーわれわれがいうところの誘惑ともないうる善なのだ、と考えられている点から生じるわけだ。そしてわれわれは、あらゆる方法をつくしてそれを避けようと努めている、そしてまた、この故にこそぼくは、こんにちまで結婚しないでいるのだが、明日にも結婚するということは、大いにありうることなんだ」(p184)
 
 ユリウスの、キリスト教徒は科学や芸術をみとめていないという批判に対して、パンフィリウスは、大きな誤解だと言う。ここから述べられるパンフィリウスの科学・芸術観は、トルストイの芸術論に等しいものである。
「科学と芸術の中にも、われわれは、ただ閑な人間の慰安にだけ向くような娯楽を見ているわけではない。われわれは、科学や芸術からも、人間のあらゆる仕事にたいすると同じものを要求している、ーーつまりそれらの中にも、キリスト教徒の行為のすべてを貫いている神と隣人とに対する同じ活動的な愛の実現を要求しているのだ。われわれが真の科学とみとめるのは、ただ、われわれのよりよく生きることを助けてくれる知識だけで、またわれわれが芸術を尊重するのは、それがわれわれの思考をきよめ、魂を高揚し、労働と愛の生活に欠くべからざるわれわれの力を強化する場合にかぎるのだよ。こういう種類の知識は、われわれも、できるかぎり、自分のうち、われわれの子供のうちに発達させる機会をのがさないようにしているし、この種の芸術にはわれわれも、すすんで自由な時間をささげようとしている。われわれは、前時代に生きていた人々の英知によってわれわれに残された書物を、読んだり研究したりしている。われわれはまた、詩をうたい、絵を書いている、そしてわれわれの詩と絵は、われわれの精神をはげまし、悲しい時にわれわれを慰めてくれる。だからこそわれわれは、きみたちが科学や芸術にたいして行なっている例の応用に賛成できないのだ。きみたちのほうの学者は、人々に悪をもたらすための新しい方法の捏造に、自分の思考能力を用いているーー彼らは戦争、すなわち殺人の方法を完成したり、また楽な金もうけ、つまり他人の骨折りで一部の者を富ます新しい手段を案出したりする。君たちの芸術は、神々をまつる神殿の造営や装飾に奉仕しているが、そんな神々なんか、きみたちの中でもずっと進歩している人たちは、もうとくの昔から信じてはいないのだ。しかもきみたちは、そうした欺瞞で多くの人々をよく自分の権力下に維持できるものと考えて、他の人々のあいだではその信仰を支持している。」(p187)
原子爆弾を作った科学者は無差別大量殺人兵器の製造に自分の思考能力をささげたのだから、殺人者であるが、彼の罪は裁かれない。本心では信じていないものをも、人は信じているように偽装することで、人々から称賛されることを求める。嘘は全て人に気に入られるために作られる。
 ユリウスは、権力を批判するキリスト教徒たちが、実はローマ帝国の保護を利用していることを批判する。また、私有物を認めていないのに、それを利用し、市場でぶどうを売ったり買ったりしていることをも批判する。これはキリスト教徒が自分たち自身を欺いていることだと言う。その批判に対してパンフィリウスは、「暴力による保護を要するものなどには、なんの価値をも認めていない」(p188)と答える。
「またもし、きみたちの目に私有物と思われるようなものがぼくらの手を通って動いているとしても、それはぼくらがそれらを自分のものとは考えず、生活上必要とする人にそれらを渡しているにすぎないのだ。ぼくらは買いたいという人にぶどうを売るが、それは自分たちの儲けのためではなく、ただただ困っている人たちに生活の必需品をえさせるにすぎないよ。もしだれかがぼくらからこのぶどうを取り上げようとしたら、ぼくらは逆らわずにそれを渡してやるだろう。つまりこの理由で、ぼくらは野蛮人の襲来をも恐れてはいないのだ。」(p188)
 商品を自分のものと考えず、必要とする人に渡すためのものと考えるなら、創作物、小説作品もすべてそれを作り出した作家のものではなく、生活上必要とする読者に渡されるものとなるだろう。
「もしわれわれが、ぼくやぼくの同胞が努力しているように、わが師の掟を実行しながら、暴力や、暴力から流れだす私有権なしに生きて行くことに努力しているとすれば、それはわれわれが外面的目標ーー富とか、権力とか、名誉とかいうもののためでなく、ーーそんなものはみなわれわれのえようと思っているものではない、ーー何かあるほかのもののためなのだ。(…)ぼくらの信仰は、ぼくらに、われわれの幸福は暴力の中でなく恭順の中に、富の中でなく、すべてを与えることにある、と教えている。そしてわれわれは、植木が光のほうへ向かうように、われわれの幸福の見えているほうへ、突進しないではいられない。」(p189)
これほどの教えを受けても、我々が消費生活を続けるように、ユリウスは商人仲間のもとに戻り、食事と飲酒と妻との夜を続け、十年間パンフィリウスと会わずに過ごす。不愉快な事件の連続を前にして、ユリウスはギリシア語で書かれたキリストの教えの写本を読み、キリスト教徒の許に向かうことを決意する。
 翌朝、ユリウスは出発の前に、持病の治療のため医師に会いに行く。その医師こそかつて彼の復活を引き留めた見知らぬ男であった。医師はまたユリウスの決意をくつがえそうと反論を述べる。医師はキリスト教徒になったら独身で子も産まれない、君は息子をしっかり教育し、共和国にふさわしいしっかりした人物に育てあげろと言う。それこそ市民としての義務であるとさとされたユリウスは、一年間今まで通りの生活を続ける。
 キリスト教は裁判にかかり、宣教抑圧を受ける。裁判にも参加したユリウスは、貧しい身なりとなったパンフィリウスと再び出会う。
 ユリウスは愛を説くキリスト教徒は、優れた文化を否定し、殺人や暴力や略奪など野蛮状態を復帰させる元凶になっていると言う。これが異端宗教に対するローマ市民の一般的な見方であろう。パンフィリウスは、犯罪には愛で答えるしかないと言う。ローマのように暴力に対して暴力で答えたり、厳格な法律を作って刑罰を与えている限りは、犯罪はますます増えると言う。犯罪は自分の財産を増やしたいという欲望から生まれるものであるし、また富の極端な集中によって、持たざる者が食糧を得るため仕方なく行なうものでもあるという。アメリカ国内と、アメリカに対する最貧国の復讐劇を見るとよい。ブッシュはキリスト教の正義を掲げて異教徒に闘いを挑んでいるが、そうした行動はトルストイ的に考えれば、聖書を読んだら有り得ないはずの単なる暴力の上塗りである。
「また別の種類の犯罪は、放埒な情熱、たとえば嫉妬とか、復讐とか、動物的愛情とか、怒りとか、憎みとかいうものによってひき起こされる。この種の犯罪は、法律ではけっして抑制されるものではない。こうした罪を犯す人間は、完全に野ばなしにされたなにかの情熱による動物的状態に落ちているので、自分の行為の結果について考える余裕はない。じゃまはかえってただ、その情欲に火をそそぐばかりだ。だから、法律の助けくらいでは、こうした犯罪と闘うことはできん。ところがぼくらは実際に、彼らと闘争している。ぼくらはただ人間の魂の中に、自分の生の意識と満足を見出しているので、自分の情熱に奉仕するだけでは人間は満足をうることのできないことを信じている。ぼくらは自分でも、労働と愛の生活で自分の情熱をやわらげている、そして、自分の中に精神の力を発達させている。」(p204)
 嫉妬や肉欲を忌み嫌ってなくそうなくそうと努力するだけでは、情欲はさらに燃え盛るだけである。情欲を燃え上がらせることでは決して永続する満足は得られないことを認識すべきである。情欲は自分の外にある対象を常に必要とするものだから、対象の喪失によって嫉妬、不平不満が爆発する。「自分自身の精神生活をたかめ、どんな状況にあっても心の平衡を保ち」(p207)自分の中で育む精神生活、心の平安に幸福を見出すこと。燃える思いを心から遠ざけること。
 この会合からさらに十二年たって、さらに不幸な生活が積み重なった後はじめて、ユリウスはキリスト教徒の共同体に向かった。またその道行きでもあの医者が現れたが、ユリウスは英知をすすめる医者に対して、「しかしわたしには、英知なんてものは少しもない。わたしは全身迷妄のかたまりです、迷妄は古いが、だからとて英知に変わることはない。水は、いくら古くてくさったところで、酒になるわけはないからね」(p212)
 と言って、誘惑を振り切る。国家の発展に役立つであろう英知は酒であり、迷妄は水なのだ。
 ユリウスはぶどう畑の中で、何故ここに早くこなかったのだろうと悔やむが、老人に嘆きを抑えて働くように促される。老人は、早いも遅いもなく、大きいも小さいもない、一切は平等だ、ただまっすぐ光に向かってすすめとさとした。この後ユリウスは二十年間喜びの生活を送る。
「光あるうちに光の中を歩め」は、 ユリウスとパンフィリウスの、キリスト教的生活に関する問答に終始する、形式的には前近代的な小説となっている。また内容的にも、キリスト教が国教化する以前の時代に託して、作者であるトルストイの宗教哲学がそのまま語られており、小説としての完成度は疑問に付される。しかし、何回も友人からキリスト教徒の教えを聞きながらも、いろいろ難癖をつけて反論し、信仰の道に入ろうと決意しても、反対者の妨害にあって元の生活を続けるユリウスの人生は、是非一度読んでおきたいものである。果てしなく続くかのように見える消費生活の間にも、何度もパンフィリウスはユリウスの前に現れ、道を示してくれ、最後にユリウスは虚偽から脱するのだから。
 最後に、ユリウスが見た写本の一部を書き記しておく。写本はトルストイ的なキリストの教えの圧縮となっている。
「殺すな、姦淫するな、放蕩するな、盗むな、占うな、毒害するな、隣人に属するものを望むな。誓うな、偽証するな、誹謗するな、悪を記憶するな。心に表裏を持つな、ふたつの言葉をつかうな……汝の言葉は偽りならず、空しからず、行ないと合致するようにせよ。貪欲であってはならぬ、掠奪者であってはならぬ。偽善者であってはならぬ。不道徳であってはならぬ、傲岸であってはならぬ。隣人にたいしてわるい企みを抱くな。あらゆる人に憎悪を持つな、しかしあるものはその罪をあばき、あるもものために祈り、またある者はおのが魂にもましてこれを愛せよ……」
「(…)ただ柔和であれ、柔和なるものは地をつぐであろうからである。辛抱づよく、慈悲ぶかく、怨みを去り、おとなしく、善良にして、常に汝が耳にする言葉に戦きふるえよ。うぬぼれるな、おのが心に不遜の念を与えるな。(…)貧しき者から顔をそむけず、何事にもおのが兄弟との交わりを保ち何物をもわがものと名づけるな。」(pp194-195)


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