世界の名著リバイバル!

World's Great Books Revival Project

ホーム >

書評:トルストイ『復活』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年10月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。)

復活
復活 トルストイ 中村白葉

by G-Tools


引用は河出書房トルストイ全集「復活」中村白葉訳を参照。

原著最終稿は1899年12月に書かれている。トルストイの長編小説と言えば「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」、そして時をおいてこの「復活」の3作であり、いずれもが世界文学の金字塔である。が、たいてい世界文学全集に収められているのは「戦争と平和」か「アンナ・カレーニナ」であり、前期二作とはやや毛色の違う後期の代表作「復活」は、発表当時は賛否両論のもと歓迎されたが、今や話題にされることも少ない。

だいたいにして世田谷区内の一般書店に行くと、ドストエフスキーは「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」など揃っているが、トルストイはない場合がほとんどである。近所の図書館でも、ドストエフスキーの研究書はたくさんおかれているが、トルストイは評伝さえなく、自身の全集しかない。

トルストイは過去の遺物かというと、全くそんなことはない。「復活」について、好きか嫌いかとか、☆何個の評価かなど書けるはずもない。大作家が組み建てた壮大な社会批判の書を前にして、私ごときの評価など述べられるはずもない。

トルストイの作品を読んでいると、つい現在直面している自分の人生の問題と、主人公の苦悩とを重ねてしまう。小説内での主人公の苦悩の解決を見て、自分の人生の羅針盤とするのは私だけだろうか。同時に、ロシア社会の問題を描ききったその社会風刺の視点を、つい現代日本の社会問題にも当てはめてしまうのは私だけだろうか。

青年貴族ネフリュードフは、親戚の家で働いていたカチューシャことマースロワと肉体関係を持ってしまう。彼女に金だけ渡して、ネフリュードフは姿を消してしまうのだが、マースロワは彼の子供を産み落とす。その子はすぐ死んでしまうのだが、その恋愛がきっかけでか、マースロワはどんどん身を落として娼婦となり、殺人の罪で裁判にかけられてしまう。物語は、陪審員として裁判に参加しているネフリュードフが、かつて関係したマースロワを被告席に見出したところから進展していく。

無実のマースロワは、裁判上の手違いで有罪となり、シベリア送りの刑となる。ネフリュードフはマースロワの現在の境遇の原因は、すべて自分にあると考える。彼は責任をとって彼女を罪から救い、階級の違う彼女と結婚し、同時に虚偽に満ちた現在の生活を全て変えようと決意する。ネフリュードフ自身も、マースロワに金を渡して別れてからは、放蕩に身をやつした生活を送っていたのだった。「復活」は二人の生の浄化の物語である。

その隔離の大きさと、そのけがれかたのはげしさは、最初の瞬間、彼が浄化の可能性に絶望を感じたほどであった。《完全になろう、よくなろうという試みは、もう幾度やってみたかしれないが、けっきょく、なんにもならなかったではないか》と彼の心のうちで、誘惑の声が言った。《なんのために、もう一度やってみようというのかね? おまえひとりじゃない、みんなそうなのだーー人生がそういうものなのだよ》と同じ声が言うのだった。けれど、それ一つが真実であり、それ一つが強力であり、それ一つが永遠であるところのあの自由な精神的存在が、すでにネフリュードフの内部に目ざめていた。彼は、それを信じないわけにはいかなかった。今日までの彼と、今後なりたいと思う彼とのあいだの隔離がいかに大きかろうと、目ざめた、精神的存在にとっては、すべてが可能であるように思われたのである。《たとえ、そのためにどんなことがおころうと、おれは自分を束縛しているこの虚偽を打破しよう。そしてあらゆる人に真実を語り、真実を行おう》こう彼は決然とした調子で、声にだして自分に言った。」(p100)

ネフリュードフは裁判をやり直してもらうために、裁判所に再度相談をもちかけに行く。そこで彼はまたもや、罪のない者が検事や裁判官の、その日の機嫌や出世欲によって、罰を確定され、宣告される現実を見る。

だいいち、この若者が、かくべつ問題にするほどの悪党でなく、ごく普通の(これは衆目のみるところである)人間で、彼が現在あるような人間になったのも、ただそうした人間を生みだすような環境におかれたからであるということは、明白な事実ではないか。したがって、こうした若者をなくすためには、こうした不幸な人間をつくりだすような条件をなくするように努力するよりほかはない、これも明白であるように思われる。この若者の場合にしてもーーとネフリュードフは、若者の病的な、おどおどした顔を見ながら考えるのだった、ーー彼が貧乏ゆえに、田舎から都会へ奉公にだされた時、彼をあわれに思って、その貧乏を救ってくれるような人に出くわすか、せめて都会へ出てからでも、工場で十二時間の労働をおわってから、年上の仲間に誘われて居酒屋へ足ぶみしはじめたときにーー「ワーニャよ、そんなところへ行ってはいけない。よくないことだ」と、一言いってくれる人さえあればよかったのだ。すれば、若者はそんなところへ寄りつかなかっただろうし、しぜん横道へもそれずに、わるいこともしなかったにちがいないのである。
 ところが、彼がその年季奉公中、都会で小さな野獣のような生活を送り、しらみがたからないように頭の毛を短く刈りこまれて、ほかの職人たちの使い走りなどをしていたそのあいだ、彼にあわれみをかけてくれるような人は、ただの一人もなかったのである。それどころか、彼が都会に生活するようになってから、年上の職人や同輩から聞かされることはみな、人をだましたり、酒を飲んだり、あくたいをついたり、けんかをしたり、道楽をしたりする者がえらいということであった。
」(p119)

少々長い引用となったが、この文章がこの小説の醍醐味であるから引用した。小説家でもなく社会評論家でもないような、その中間のような問題の描き方。「復活」全編にはこの調子が漂っている。

ネフリュードフはマースロワに結婚したい旨を告げるが、彼女はまともにとりあってくれない。彼はまた、祖先から受け継いだ領地を全て百姓に与えようとするのだが、この試みもまた百姓たちに手放しで喜ばれることなく、反感を買う。虚偽を全てなくそうとする純潔のネフリュードフは、みなに奇怪な行動をとる変人と映ってしまう。このあたりの齟齬の描写が、実にうまい。社会評論ではできない、小説だけができる滑稽な現実の描写である。一方ネフリュードフは、社会に渦巻く虚偽、欲望、支配の構造にどんどん気づいていく。

ネフリュードフはあるマリエットという貴婦人に話したいことがあると言われ、会ったのだが、彼女は何も言い出さないで、冗談やおしゃべりを繰り返す。

ネフリュードフは、彼女にはべつに話があったわけでもなんでもなく、ただ彼に、その肩やほくろをあらわにした夕化粧の美しさを見せたいためにほかならなかったことをさとった。と、愉快であると同時に、いやな気がした。
 以前はこうしたすべてのものの上にあった美のヴェールが、今のネフリュードフには、とり去られてしまったというほどではなかったけれども、ついその下にあるものがさきに見えてしまうのだった。彼はマリエットを見ながら、その美しさに見とれはしたものの、しかし彼は、彼女という女は、幾百と知れぬ人々の涙と生命を犠牲にして、自分の経歴を築きあげた夫と同棲しているうそつきであること、彼女にはそんなことは、ぜんぜんどうでもいいので、きのう彼女が話したこともみな口さきだけのでたらめで、ただ彼に自分を愛させようというーーそれがなんのためであるかは、彼も知らなかったし、彼女自身も知らなかったーー手管にすぎないことをしっていた。そしてこれが彼には、好ましくもあれば、いとわしくもあったのである。
」(p294)

ここを読み、自分が美しい人を好きだったことを非常に恥じた。美人に性欲を感じるからこそ、おそらく嫉妬がつのるのであって、その人の精神性を愛して、外見に囚われなければ、醜い嫉妬心で心をかき乱されることもなくなるだろうと思えた。

ネフリュードフは、マースロワの赦免を得ようと熱心に裁判関係者と話すうち、刑事裁判の欺瞞性をまざまざと感じた。犯罪者と呼ばれる囚徒の組織は、だいたい五種類の人間に分類されるという。第一は、あやまれる裁判の犠牲であるぜんぜん無辜の人である。

第二の部類は、憤怒とか、嫉妬、泥酔、その他これに類した特殊の状況のもとに行われた行為にたいして、判決を受けた人々でーーそれらの行為は、彼らをさばいて刑に処した側の人々でも、同じ条件のもとにおかれたら、おそらく、きっとやったにちがいないことなのである。」(p302)

第三の部類の人々は、彼ら自身では普通のこと、むしろいいことと思っているのに、彼らと没交渉な立法者の側では犯罪者と見なされる人。酒の密売者、密輸入者、大地主の森で草を刈った者など。

第四の部類は、社会一般の水準より精神的に高いところに立っているというだけの理由で、罪人のなかに入れられている人々から、できていた。異宗派もそれなら、自分たちの独立のために叛乱をおこしたポーランド人、チェルケス人らもそれであり、政治犯人ーー社会主義者とか、権力に反抗したかどで罰せられた同盟罷業参加者なども、それである。こうした人々ーー自分の独立を固守したり、権力に反抗して処罰されたりした人々の比率は、ネフリュードフのみるところによると、非常に大きなものであった。
 最後に、第五の部類を形づくる人々は、彼らが社会にたいするよりも、社会のほうがはるかに多く彼らにたいして罪があるというような連中であった。これは、たえざる圧迫や誘惑のために鈍化され、社会の外へ追い出されたような人々で、例のむしろを盗んだ少年とか、その他ネフリュードフが監獄の内外で目撃した幾百という、その生活条件が、普通に犯罪と名づけられる行為を、どうでもしなければならぬようにできあがっている人々なのである。
」(pp.302-303)

ネフリュードフの意見に従うと、犯罪者と立法者が定めた囚人は、全然犯罪者でないことになる。彼にとっては自分も含めた全てが罪深い存在なのだ。この考えに従うと、性犯罪者を公表したり、隔離したりして、ますます彼らを差別・監視しようとするやり方は、彼らをさらに孤独に、社会の外に追い出そうとする愚劣な、罪深い行為となる。

こうしたいわゆる堕落した、犯罪型の、変態タイプも、ネフリュードフの意見によると、例の、彼らが社会にたいするよりも、社会が彼らにたいしてより多く罪があると言えるような人々にほかならなかったのであるが、しかし社会は彼らにたいして、現在彼ら自身に直接罪があるというのではなく、前の時代ーー彼らの両親や祖先にたいして、すでに罪があるのだった。」(p303)

犯罪者と定義された者たちを、罰し、監禁することはやめて、別の更正制度を探ること。これは二千年の昔から叫ばれている主張である。

ネフリュードフの努力も空しく、マースロワはシベリア送りの列に加わる。炎天下の中歩く列で死者が多数出るが、犯罪者を殺した役人の罪は問われない。ネフリュードフはより環境の良好な、政治犯の集団にマースロワを移動するよう計る。マースロワはそこで、シモンソンという名の政治犯と出会う。シモンソンはマースロワと結婚したい意志をネフリュードフに告げる。マースロワはネフリュードフの結婚の申し出を以前から何度も邪険にしていたし、シモンソンに好意を寄せていた。

ネフリュードフは、シモンソンの結婚の申し出をマースロワに伝える。ついに、彼女の赦免状が出た後、今後どうするか意志を尋ねると、マースロワは、シモンソンについてい行くという。

《さあいよいよ、どちらか一つだーーシモンソンを愛しているために、おれのささげようとしている犠牲を、ぜんぜん望まないのか、それとも、やっぱりおれを愛しているので、おれの幸福のために、心にもない拒絶をして、シモンソンに運命を結びつけ、永久に自分の船を焼いてしまうつもりか》ネフリュードフはこう思うと、変に気恥ずかしくなった。」(p420)

ネフリュードフの恋、いや恋というより、自分のせいで人生が滅茶苦茶になってしまった女性を罪から救い、責任をとって結婚しようという慈善の意志は、マースロワにもう十分だと否定される。ネフリュードフは過去の償いから結婚しようと言うのだが、シモンソンは、現在のマースロワが好きだという理由のみで、結婚しようと思い立ったのだった。きれいに言えばそういうことなのだが、要するに、ネフリュードフの恋は、恋敵が現れて終わったのだった。そこで彼は、マースロワが自分の幸福を思って、心にもない拒絶をしていると自己正当化したいのだった。

「あなたはなにも、こんなとこにいて、苦労なさることはありませんわ。あなたのご苦労はもうたくさんですわ」と彼女は言って、にっこりした。
「わたしたちには」と彼女は「わたしたちには」と言って、ネフリュードフのほうをちらと見た。「なんにもいるものはありません。あなたは、これまでにも、わたしのためにどれだけしてくださったかしれませんわ。もしあなたでなかったら……」彼女は何か言おうとしたが、その声はふるえだした。
」(p421)

彼女が「さようなら」と言わないで、「こめんください」と言ったときのふしぎな斜視のまなざしと、いたましい微笑とで、ネフリュードフには、彼女の決心の原因についての二つの予想のうち、第二のものの真実であったこと、ーーつまり、彼女は彼を愛していたので、自分をいつまでも彼に結びつけて彼の一生をほろぼすより、シモンソンといっしょに身をひいて、彼を解放しようと考え、今は望みどおりそれを実行したのを喜んでいるのだったが、同時に、彼との別れを悲しんでいるのだということが、よくわかった。」(pp.420-421)

トルストイは、マースロワがネフリュードフへの愛から身をひいたと、はっきり明確に、決定的に書いているが、一読した時私は、ネフリュードフが自分の失恋の悔しさを帳消しにするため、そう想いこみたいだけだろうと思った。しかし、今再度読んでみると、それは私の単なるひがみに基づく誤読にすぎず、作者であるトルストイが書いているように、二人の間にある愛は消えていないと思えた。結婚とか恋愛とかそういう社会的束縛を超えた愛が、ネフリュードフとマースロワの間に存在しているように感じられた。

小説の最後で、ネフリュードフはイギリス人が残した福音書を読み、真理を悟る。

こうして、彼にはいまや、多くの人々が苦しんでいる恐ろしい邪悪から救われるただ一つの疑いない道は、人々がつねに神のまえに自分を罪人とみとめ、したがって、他人を罰したり矯正したりする力は自分には絶対にないものと悟ることだけにある。こういうことが明瞭になった。なお、彼にはいま自分が監獄や拘留所で目撃した恐ろしいすべての邪悪も、こうした邪悪を行っている人々のおちついた自信も、みな、ひとえに人々が不可能なことーー自分が悪人でありながら、悪を矯正しようというようなことをしたがっていることから生ずるのだということが、明らかになった。罪ある人間が罪ある人間を矯正しようとして、それを機械的な方法で達しようと考えているのである。しかし、こうしたすべてのことから生ずる結果は、ただ窮乏して欲に目のない人々が、この懲罰や矯正の職業に従事して、わが身を極度まで堕落させると同時に、自分が苦しめている人々をも、たえず堕落させているということである。いまや彼には、彼が目撃したこうした恐怖がどこから生ずるか、また、それを根絶するにはどうしたらよいかということが、明白になった。(…)じつにそれは、人はだれも、自分自身罪がないというものはないのだから、したがって、人を罰したり矯正したりできるものではないのだから、つねにすべての人を許す、幾度でもかぎりなく許すという、この一事のなかにあるのである。」(pp.428-429)

では、悪漢どもをどうするか、まさかそのまま、処罰もしないでほうってもおけまい? こういうきまり文句の反駁も、今ではもはや、彼を困らせはしなかった。この駁論も、もし懲罰が犯罪を減少し、犯罪者を矯正することが証明され、ある人々に他の人々を矯正する力のないことが明らかである以上、諸君のなしうる唯一の合理的な方法は、益がないばかりでなく、害があり、そのうえに不道徳であり、残酷でさえあることを、やめてしまうことである。諸君は、幾世紀ものあいだ、諸君の犯罪人とみとめるところの人々を処罰してきた。それで、罪人は根絶されたか? いやいや、根絶どころか、その数はむしろ、刑罰によってさらに堕落させられた罪人と、判事とか、検事とか、予審判事とか、獄吏とかいう、人を裁いたり罰したりする罪人どものために、かえって多くなる一方である。ーーネフリュードフはいまや、社会や秩序がとにかく存在しているのは、他人を裁いたり罰したりする、こうした法律公許の罪人どもがあるからではなくして、こうした堕落があるにもかかわらず、人々がとにかく互いにあわれみあい愛しあっているからにほかならないことを、みてとったのである。」(p429)

 ネフリュードフはこの後も、この思想の裏書きを福音書の言葉から探し出す。第一に、人と争ってはならぬこと。第二に、姦淫や美しさの享楽を避け、いったん結びついたら、決して裏切らぬこと。第三に、決して誓いをたてないこと。第四に、侮辱を許し、温和にしのび、求められたらなんでもすること。第五に、敵を愛し、助け、奉仕すること。

《われわれ自身がわれわれの生活の主人であるとか、生活はわれわれの快楽のためにわれわれにあたえられているものだとかいうような、不合理な信念に生きていることが、ちょうどそれだ。(…)もしわれわれがこの世へ送られてきたものとすれば、それは何者かの意志によって、何事かのためにつかわされたものにちがいないではないか。しかるにわれわれは、ただ自分の快楽のために生活するのだときめこんでいる。》」(p430)

自分の快楽のためでなく、人類のための奉仕活動に加わること。この考えは、第二次世界大戦の後では、一部危険なようにも感じられる。日本は神である天皇のために一致団結して戦ったし、ナチスも一致団結して戦った。個人の自由より、おおいなる存在のために働くことを奨励することは間違いだろうか。

よく考えると、連合国側も戦争時は一致団結して戦っている。さらに、トルストイは絶対的非暴力をとなえ、あらゆる戦争や暴力を伴う革命に反対していた。自分を捨てて、偉大な使命のために戦うと、相手は人間でも人間とは思えなくなるから、大虐殺が行われる。

決して人と争わないこと、敵を助けること、敵の幸せのためでなく、自分の幸せのためでもなく、ただ単に助けること。不戦を心の戒律とすれば、トルストイの残した小説は、戦争が続く現代でも十分通用できそうだ。

最終部分に突然福音書の引用がきて、小説が終わる展開がよく批判されている。真理の気づきで終わるのでなく、気づいた後のネフリュードフの活躍があった方が、小説の構造的に完成度が高くなるのだが、げんにトルストイは「復活」の続きを書こうとしていた。ドストエフスキーが最後の大作「カラマーゾフの兄弟」の続きを書けずに死んだように、トルストイも「復活」の続きを書けずに死んでしまった。19世紀ロシアに世界的影響力を持つ二人の大作家が出現していることが、さらに彼らがともに小説という分野で活躍していることは奇跡だが、われわれは、「復活」と「カラマーゾフの兄弟」の続きを書き、読むことを人生の使命としよう。

小説で印象に残るのは、やや斜視のマースロワの美しさである。彼女は美しいが故に、出会う男に必ず求愛され、ちょっかいを出される。美しい人が好きだった自分が本当に嫌になった。

男といい仲になってマースロワは病院を首になるというエピソードがある。実は男がちょっかいを出したのを、マースロワが嫌がって突き飛ばしただけのことが、いい仲になったと噂になったのだった。この噂をネフリュードフは信じ、自分がこんなに愛しているのにマースロワは何故そんなことを、と非難の面持ちで面会する。マースロワはネフリュードフが噂を信じて怒っていることに気づくのだが、弁解しない。ああ、嫉妬なんて本当に醜いものだ!

マースロワとネフリュードフが結ばれない結末でよかったと、読了後は思えてしまう。きっとネフリュードフは次の仕事に向かうだろう。そう、いつでも終わった時点から過去を眺めれば、人生はこのような成り行きでよかったと思えてしまう。


おすすめ本

お厚いのがお好き?
お厚いのがお好き?
世界の名著を面白く、わかりやすく紹介したテレビ番組の書籍版です。

必読書150
必読書150

柄谷行人らによる人文教養書150冊の解説書です。

千年紀のベスト100作品を選ぶ
千年紀のベスト100作品を選ぶ

千年間に創られた芸術作品の中からベスト100を任意で選び、解説した本です。

教養のためのブックガイド
教養のブックガイド

東大教授陣による教養書ガイドです。

ニコスマス倫理学
ニコスマス倫理学
古典の中の古典。必読の名著です。

失われた時を求めて 第一篇 スワン家の方へ(1)
失われた時を求めて
20世紀文学の最高傑作の一つです。


↑このページの先頭に戻る
(c) Sidehill