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書評:トルストイ『イワン・イリイチの死』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年10月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

河出書房トルストイ全集9「後期作品集 上」所収。原著は1886年3月22日完成。イワン・イリイチが死ぬまでの過程を容赦なく克明につづった小説。個人の死を描写したとして、実存主義哲学の先駆けとされる。ナボコフはドストエフスキーの技法の幼稚さをさんざん罵倒しつつ、トルストイの芸術家としての手腕を絶賛している。ナボコフはトルストイが晩年宗教哲学に傾倒して文学から離れたことを嘆いているが、それでもこの後期を代表する短編「イワン・イリイチの死」は高く評価している。トルストイ後期の他の短編は、どれも宗教的教条臭に満ちているが、この作品は、彼の宗教哲学に共感できない人でも、十分トルストイそのもののすごさを体感できる内容となっている。
 イワン・イリイチは四十五歳で、裁判所の一判事として死ぬ。小説の冒頭は、彼の同僚たちがイワン・イリイチの死を知って、彼の家を訊ねる場面となっている。他人ごとであるイリイチの死によって、官位が一つあいたことを同僚たちは喜ぶ。何の悲しみもない、エゴまみれの葬儀場面の後で、イワン・イリイチの生活史が綴られる。
「法律学校時代すでに彼は、その後の全生涯にあったと同じ彼ーー有能な上に快活で、人がよく、人づきあいもよかったが、自分の義務と考えたことは、厳格に実行するという男であった。ところで、彼が自分の義務と考えたことはすべて、高い地位におかれた人々によって、そう考えられていることであった。彼は少年時代にも、その後成人してからも、人にとり入るような男ではなかったが、しかし彼には、ずっと若い時分から、蠅が光にひかれるように、社会で最高の地位を占めた人のほうへひかれる傾向があり、しぜん、彼らの生活態度、彼らの人生観を身につけて、彼らと親しい関係を結ぶようになるのであった。(…)法律学校時代に彼は、以前にはたいへんけがらわしいことに思われて、それを行なうときには自分自身にたいしてすら嫌悪をおぼえたほどの行為を実行したが、その後、この行為が身分の高い人々によっても行われ、べつにわるいこととも思われていないのを見て、それをいいことと思ったわけではないけれども、いつかすっかり忘れてしまって、それを思いだしてもなやむようなことはなかった。」(p115)
 イワン・イリイチは有能な上に快活で、義務を厳格に実行する、端から見ると立派な人間である。彼が義務と考えることは、社会の最高位の地位に置かれた人々が義務と考えることと等しい。彼は媚びをうることはないが、社会で最高の地位にある人に憧れ続ける。ここまではまっとうな、悪く言えばありきたりの人物描写だが、トルストイの妙技が加わるのは後半部分である。イワン・イリイチは、やましい行為に手を出しても、自分が憧れている、身分の高い人々も同じ行為をしており、彼らがそれを別に悪いことと思っていないことを知ると、自分の感じていた罪の意識さえ忘れるのだった。トルストイは暗黙裏に、社会で身分が高い人もやましいことを当然のように行なっているのだから、彼らを闇雲に崇拝するのはよくないし、みんながやっているからといって、自分の罪を正当化するのはいけないことだと言う、かたくななまでの正義の論理を語っている。
 イワン・イリイチは貴族の出で、器量よく、財産もある、きれいな女と結婚する。しかしそのうち妻は、何の理由もなく嫉妬したり、彼にご機嫌とりを要求したり、不愉快さを露骨に見せたりする。
「彼は、妻のきげんをつとめて無視することにし、従前どおり、かるく愉快な生活をつづけていたーー自宅や友だちを招いてカルタをやったり、ひとりでクラブや友人のもとへ出かけたりしてみた。しかし、妻はあるとき、たいへんな精力を見せて乱暴な言葉で彼を罵倒しはじめ、彼が彼女の要求を実現しないと、そのたびに、いかにも執拗に罵倒をつづけ、明らかに彼が屈服するまで、つまり彼女と同じように、いつも家に閉じこもって、うつうつと楽しまないようになるまで、決してやめまいと堅く決心したかのように見えたので、イワン・イリイチはおぞけをふるった。」(p119)
いかにもトルストイ的な夫婦生活の崩壊場面である。彼は小説作品の中で何度もこのような情景を描いている。
「こうして、妻がいらだちやすく、要求的になればなるほど、イワン・イリイチもますます自分の生活の重心を、勤務のほうへ移すようになった。彼は前よりいっそう勤務を愛するようになり、いっそう名誉心が強くなった。」(p119)
妻は夫に対して自分と同じように家の中に閉じこもって、暗い生活を送るよう強制しているとイワン・イリイチは感じる。するとイリイチは皮肉にもますます家庭の外に生活の重心を移そうとする。外で働く夫と家庭にい続ける妻のかい離。
 無論仕事先でイリイチは立派な人間としてふるまっているので、仕事仲間や依頼人と人間的な交流を持とうとしない。人間と上品ぶってつきあうのがイリイチの生き方である。こうした人間関係をイリイチは家庭にも当てはめようとする。
「やがてまもなく、結婚後一年とたたないうちに、イワン・イリイチは、夫婦生活というものは、生活にある便宜は与えるけれども、じつはひじょうに複雑な、重苦しい仕事である。したがって、自分の義務をはたすため、つまり社会から是認されるような、作法にかなった生活を送るためには、勤務に対するのと同じような、一定の態度を作り出す必要がある、こうさとった。
「そこでイワン・イリイチは、夫婦生活にたいするこういう態度を自分に作った。彼は、家庭生活からは、ただ家での食事、主婦、寝床、そうした妻の彼にあたえうる便宜と、主としては、世論が決定する外面形式の上品さだけを要求した。その他の点で彼は、陽気な愉快さと上品さを求め、もしそれが見つかると、ひじょうにありがたがった。が、もし抵抗や不平に出くわした場合には、さっそく垣をめぐらした勤務という別世界へ逃避して、そのうちに愉楽を見出すのだった。」(pp119-120)
 生活の便宜性、機能と上品さ、愉快さだけを家庭に要求し、それ以外の不平に出くわせば、すぐまた仕事に逃避する。人間的な深い心の交流などどこにも要求せず、便宜性と上品さと愉快さだけで満たされるイワン・イリイチの生活。
 時が経ち、イワン・イリイチの体を死の病がおそう。イリイチは生き生きとしている周りの人間たち全てに嫉妬し、苛立ち、自分の人生を振り返える。彼が自分の人生の中に生気を見出せたのは、子ども時代だけであった。
「結婚……いかにも思いがけなく、そして幻滅、妻の口臭、肉欲、虚飾! それからこの死んだような勤務、金の苦労、こうして一年、二年、十年、二十年ーーどこまで行っても何もかも同じだ。さきへ行けば行くほど、生気がなくなる。」
「ことによると自分は、生きかたを間違っていたのだろうか? とつぜん、こういう考えが頭にきた。しかし、当然すべきことをしてきたのに、どうして間違うなんてことがあるだろう?」(p151)
「《しかしせめて、なぜこんなことがあるのか、これだけでもわかればいいが。それもだめだ。おれの生きかたが間違っていた、こう言ってしまえば説明もつく。しかし、それももう承認できない》と彼は、自分の生活の合法性、正しさ、作法にかなっていることを思いだしながら、われとわが身に言うのだった。《そんなことは、もうとても承認できない》」(p153)
「《もしほんとうにおれの生活が、意識的生活すべてが間違っていたとしたら、どうだろう?》
 そのとき彼の頭に浮かんだのは、前にはぜんぜん不可能に思われたこと、つまり彼のそれまで送ってきた生活は間違いだったということーーそれがやはりほうとうだったかもしれぬという考えであった。つづいて彼の頭にうかんだのは、社会で最高の地位にある人々がよしとしていることにたいして闘ってみようという、あるかなきかの秘められた心の動向、彼がいつも起こるとすぐ自分から追いのけ追いのけしていた、あるかなきかの秘められた心の動向ーーそれこそ、ほんとうのものであって、それ以外のものはすべてそうでないかもしれぬ、という考えであった。彼の勤務も、彼の生活設計も、彼の家庭も、社交や勤務上の興味もーーすべてが本物でなかったかもしれない。」(pp154-155)
 人生観の大転換である。彼の生活の全てが「生をも死をもおおいかくしていた恐ろしい巨大な欺瞞」(p155)であったことに彼は気づいた。虚飾で彩られた彼の生活には、生気も、死もなかったのだ。
 社会で最高の地位にある人々がよしとしていることで、間違っていることは数限りなくなる。戦争、裁判、売春、死刑、暴力、嫉妬、独占欲、性的支配、南北格差、性と商品の横溢。それら全てを当然のこととして受け入れるのではなく、間違っていると感じることには、みなと同じように賛同せず、闘うこと。これがトルストイの人生である。
 イワン・イリイチはほんとうの人生を送ろうとしても、死が目の前に迫っている。彼は何もすることができないまま死ぬのだろうか。
「《自分は自分にあたえられたすべてをむだにしてしまい、回復の見込みがないという意識をもってこの世から出て行こうとしているとしたら、そのときはどうだろう?》彼は仰向けに寝たまま、すっかり新しく、自分の全生涯を思いかえしはじめた。」(p155)
無駄にすごしてしまった人生の最後、無駄のまま死を迎えようとしているイワン・イリイチに、光が訪れる。
「ちょうどこの瞬間に、イワン・イリイチは穴に落ちこんで、光をみとめたのである、そしてそのとき、彼には、自分の生活はほんとうではなかった、しかしそれはまだ訂正できるーーこういうことが啓示されたのだった。」(p157)
「彼は、昔から慣れっこになっている死の恐怖をさがしてみたが、見つからなかった。死はどこだ? 死とはなんだ? どんな恐怖もなかった、死がなかったからである。死のかわりに光があった。」(pp157-158)
 小説の最後、死の瞬間、イワン・イリイチは、人生を無駄にするという死から抜け出す。
「「おしまいだ」と誰かが彼の上で言った。
 彼はこの言葉を聞きつけて、それを心の中でくり返した。《死はおしまいだ》と彼は自分に言った。《もう死はないのだ》
 彼は空気を吸いこもうとしたが、深い呼吸は中途でとまり、ひとつ身をのばすと、死んでしまった。」(p158)
 トルストイは死の直前にあってさえも虚飾にまみれた人生から抜け出すことができるという希望を提示した。死とは人生を無駄に、享楽的に過ごすことだとすれば、いつでも復活することは可能である。肉体的に滅びさる直前にも復活できるのだから、今すぐに、社会で最高位にいる人々がよしとする悪と闘うことは可能である。

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