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書評:トルストイ『戦争と平和』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年11月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています。)

戦争と平和
戦争と平和(1)
トルストイ 藤沼 貴


戦争と平和(2)
戦争と平和(3)
戦争と平和(4) 改版
ドストエフスキー『罪と罰』上
ゴーゴリ『外套・鼻』
by G-Tools


引用は、中央公論社「新集 世界の文学17・18・19 トルストイ 戦争と平和I ・II・ III」原卓也訳、1968年刊を使用。原著第一部第一篇発表は1865年二月、全篇の完結は1869年。私と「戦争と平和」の格闘の歴史をまず語ろう。一度目の挑戦は、古本屋で買った世界文学全集版の巨大で分厚い「戦争と平和」。読み通せないのを本の大きさのせいにして、戦争場面になった時点で読書を放棄した。二度目の挑戦は、新潮文庫版の「戦争と平和」。これも戦争場面になった途端小説の様相がかわり急につまらなくなったように感じたので読書を放棄した。数ヶ月後、また最初から読み始めたが、これは戦争場面に行く前に読書を放棄した。トルストイの名前をブログに掲げているのに、「戦争と平和」も読んでいないのはまずいだろうと思って四度目の挑戦をしようとしたら、すでに古本屋に世界文学全集版も文庫本も売り払ってしまっていたので、中央公論社の手に取りやすい世界文学全集にて、「戦争と平和」を読み通すことにした。やはり戦争場面はつまらない。適度に速読という名の読み飛ばしを使いつつ、ついに全巻を読了したら、読み通しておいてよかったと思えた。

全体の要約は他の人の仕事に任せて、心に残った箇所と、トルストイのこの時点での小説観を語った箇所を抜粋していく。

まずはトルストイの戦争観を吐露した文章から。

「何百万の人間が互いに相手に対して、それこそ世界じゅうのあらゆる裁判所の記録がまる何世紀かかっても蒐集しきれないような、数知れぬほどの悪事や、欺瞞、裏切り、贋札の製造と発行、略奪、放火、殺人などを行ない、しかもこの当時それをやってのけた人々はべつに犯罪とみなしていなかったのである。」(二巻p245)

「戦争と平和」は戦争の途方もない犯罪性が描写されている。同時にこれは周辺諸国を巻き込んだロシアとフランスの長期に渡る戦争を描いたものである。ナポレオンも小説の登場人物として出てくるし、ロシア皇帝アレクサンドルも出てくる。かといってこれは歴史上の英雄や皇帝を主人公にして歴史物語を語る文章ではない。小説の主人公はロシアに暮らす、貴族階級に偏るが、無数の人々であり、特に誰が中心というわけでもない。群像劇が描かれるわけだが、トルストイはこの小説の書法を、新しい歴史学の書法として表明したいようである。

「いくつもの現象のさまざまな原因の総和は、人間の知恵にははかり知れぬものである。しかし、原因をつきとめたいという欲求は、人間の心にそなわっている。そのため人間の知恵は、どれ一つとっても原因に思われるような、数限りない複雑な現象の諸条件をきわめることなく、最初に目についた、いちばんわかりやすい似かよったものにとびついて、これが原因だと言うのである。観察の対象が人々の行動にほかならぬ歴史的な事件では、もっとも原始的な、似かよったものに思われるのは、神の意志であり、それにつづいて、いちばん目につきやすいのは歴史的な位置に立つ人々、つまり歴史上の英雄たちの意志である。だが、個々の歴史的な事件の本質、つまり事件に参加した人々の全集団の行動を探求しさえすれば、歴史上の英雄の意志が集団の行動を支配していないばかりか、逆にたえず支配されてさえいることが納得できるだろう」(三巻pp205-206)

この説を実証するように、ナポレオンやアレクサンドルの決断が、彼個人の、天才的な意志に基づく決断ではなく、事件に参加した人々の集団的影響に支配されていることが小説で描かれる。

「人類の問題への神の関与を認めないため、われわれは権力を事件の原因と見なすことができないのである。経験という観点からいえば、権力とは、一人の人間の意志の表現と、他の人々によるその意志の実行との間に存する従属関係にすぎない。(…)時のなかで行動し、互いに関連を持っている人々の意志の表現である命令について語る場合、われわれは、命令と事件の関連を解明するために、(一)起こっていること全体の条件、すなわち、事件と命令する人物双方の、時のなかでの行動の持続性、(二)命令する人間と、その命令を実行する人々とが身をおく、必然的な関係の条件、とを復活させねばならない。」(p465)

「命令と事件の関係を時の流れのなかで検討すれば、いかなる場合にも命令が事件の原因になりうることなどなく、両者の間にはある一定の従属関係の存することに、気づくはずである。その従属関係がどんなものであるかを理解するには、神によってではなく人間によって発せられるあらゆる命令の、これまで見落とされていたもう一つの条件、すなわち、命令する人間自身も事件に参加しているという条件を復活させる必要がある。命令する者とされる者とのこの関係こそ、まさに権力と呼ばれるものにほかならない。」(p467)

トルストイが小説として描くロシアとフランスの戦争史は、英雄の決断力、活躍を描いた神話劇でなく、時の流れの中で連続して継起する事件に、事件を引き起こしたかに見える英雄自身も含めた無数の行為者たちが翻弄される様子である。次々起こる事件の中で人々の人生、人間関係、生活条件、権力がどう変化していくか、この描写が歴史学、小説となる。

「この結論に達した以上、われわれは、(一)権力とはいったい何か? (二)どのような力が諸民族の運動をひき起こすのか? という例の二つの、歴史の本質的な問題に対して、率直に断定的に答えることができるというわけだ。(一)権力とは、ある特定の人物と他の人々との関係である。この関係で、その人物は現に行われている全体の行動に対する意見や、予想や、弁明を述べる度合いが多くなればなるほど、行動への参加はますます少なくなってゆく。(二)諸民族の行動をひき起こすのは、歴史家が考えていたように、権力でも、知的活動でもなければ、その両者の結合でさえなく、その事件に参加する人々、しかも常に、事件に直接いちばん多く参加すれば、引き受ける責任は一番少なくてすむし、その反対の場合もあるような具合に結合された人々すべての行為なのである。精神的な面では、事件の原因と考えられているのは権力であり、肉体的な面ではその権力に服従する人々であると思われている。しかし肉体的な活動をともなわぬ精神的活動なぞ考えられぬ以上、事件の原因はそのどちらにも存在せず、両者の結合のなかにのみ存在するわけだ。あるいは、別の言葉で言うなら、われわれの検討している概念に、原因の概念は適用しえないのである」(p471)

事件を考えるのに、原因が見つからないとすれば、何を見つければよいのか。原因という概念は、個人の行動、意志の自由を前提としている。確かに歴史上の個人は自由に考え行動し、歴史を変更するほどの影響力を及ぼし得るが、個人の意志、権力を歴史変化の原因とみなして歴史を記述するかぎり、歴史学は科学になりえないというのがトルストイの意見である。権力は関係にすぎず、個人は歴史と権力の網の目の中にあって、自由が制約されている。個人の自由は認めるが、そこに歴史変化の原因を認めず、個人を動かしていく法則を明らかにしていくこと。原因探求から法則探求に切り替えることで、歴史学は科学になるというのがトルストイの意見である。無数の登場人物の行動連関を追う「戦争と平和」の試みは、歴史学なのである。

「この行動の舞台がわれわれの眼前にひろく展開されればされるほど、行動の法則はますます明らかになってゆく。その法則をとらえ、定義するのが、歴史の課題になっているのである。(…)自然科学もこれと同じことをやっている。原因の問題を放棄して、法則を探求しているのだ。歴史も同じその道に立っている。だから、もし歴史が対象とするのが、人々の生活のエピソードなどではなく、諸民族や人間の行動の研究であるとしたら、原因の観念をわきへしりぞけて、どれもが対等で互いに分かちがたく結びついている、無限に小さな自由の要素に共通する法則を探求せねばならない。」(pp486-487)

この小説は物語や小説でなく、歴史学なのだ、という宣言を小説の中でやっているのだから、トルストイは十九世紀も半ばにものすごい異物をこしらえてしまった。有名人中心の社会記述から、庶民中心の、権力関係考察中心の社会科学へ、という二十世紀の流れをトルストイは歴史小説としてやってしまった。ただ、トルストイはこれ以降「戦争と平和」で宣言された流れからは外れた小説や宗教哲学を発表していく。

小説の中身、登場人物を見ていこう。敬虔なマリアの友人に宛てた手紙からの抜粋。友人が贈ってくれた当時流行りの神秘主義の本について、敬虔なキリスト教徒の立場からの批判。

「この本には数々の立派なものの間に、人間のかよわい知力では理解しえぬ箇所もあると、あなたがおっしゃるくらいでしたら、それによってなんの利益も得られるはずのなさそうな、理解できぬ読書に時間をとられることなど、むだのように思われます。一部の人のいだいているような、神秘主義の本ばかり読みふけって、自分の思想を混乱させようとする情熱が、わたくしにはどうしても理解できませんんお。そうした本は、人間の頭に疑いを起こさせ、想像を刺激し、キリスト教の簡明さとまるきり反対の誇張的性格を与えるだけですもの。それよりむしろ、使途行伝と福音書を読もうではありませんか。こういった本のなかで神秘的とされているものを、きわめようと試みたりするのは、やめようではありませんか。なぜって、われわれ人間と永遠との間に、見透すことのできぬ厚い帷をおろしている、この肉体の衣を身にまとっているかぎり、わたくしたち、哀れな罪人なぞに、神意の恐ろしい神聖な秘密が、どうしてわかるはずがあるでしょうか? それより、われわれの救世主がこの地上における指針として残してくださった、偉大な掟の研究だけにとどめておこうではありませんか。せいぜいその掟に従うよう努めて、われわれが知性に放縦を許さぬようにすればするほど、ご自身以外から発したいっさいの知識を拒否なさる神の御心に、よりかなうようになるのだということや、また、神がわれわれから秘め隠しておきたいと思われるものを、追求したりせぬようにすればするほど、より早く神がみずからの叡知によってその啓示をさずけてくださるのだとうことを、確信できるように努力しようではありませんか。」(一巻p120)

「マリヤはこの世に生きれば生きるほど、人生を味わい観察すればするほど、この地上に快楽と幸福を求めている人たちの近視眼に対する驚きをますます深めるばかりだった。彼はそんなありえない、まぼろしのような、罪深い幸福を手に入れるために苦労し、悩み、争い、互いに悪を行ない合っているのだ。(…)『人に害を加えず、自分を追い払う人のためにも、庇ってくれる人のためにも祈りながら、何物にも未練を残さず、粗末なシャツ一つで、仮の名前に素性をかくし、転々と巡礼してまわるーーそのために、家族も、故郷も、俗世の幸福を思う煩わしさも棄て去ってしまうのだ。この真理や生活より高尚な真理と生活などあるはずがない!』」(二巻pp94-95)

マリヤの心は実に宗教的に純粋で美しい。続いて、マリヤの兄アンドレイ。彼は知的すぎて冷酷な人間だが、戦争で負傷し死のふちをさまよい、妻を亡くして改心する。数年後婚約したナターシャとのいざこざが続いた後、アンドレイが発見した愛についての独白から抜粋。

「親しい人間を愛するのは、人間的な愛でできることだ。しかし、敵を愛することだけは、神の愛によらなければならない。(…)人間的な愛で愛していると、愛から憎しみに移りかねない。だが、神の愛は変わることがないのだ。どんなものも、死さえも、この愛をこわすことはできぬ。これは魂の本質なのだ。(…)そして彼はナターシャを心に思い描いた。が、以前のように、自分にとって喜ばしい魅力をそなえた存在としてではなく、はじめて彼女の魂を思い描いてみたのだった。彼女の感情を、苦悩を、羞恥を、後悔を、彼は理解した。今になってはじめて、自分の拒絶の冷酷さがわかり、破談の冷酷さに気づいた」(三巻p126)

続いて、トルストイの分身とも言えるピエール。ピエールは社交界から離れた時、フリーメイソンの一員と話す。

「最高の叡知というものは、理性だけにもとづいているのでもなければ、あるいは物理、歴史、化学などといった、知的認識を分化している俗世の学問などにもとづいているのでもないんです。最高の叡知とは、たった一つしかないのですよ。最高の叡知のもっている科学はただ一つ、あらゆるものの科学です。この科学を自分のなかに受け入れるためには、自分の内部の人間を清め、更生させなければなりません、だから、知る前に信じ、自己完成しなければならないのです。この目的を達成するために、われわれの心のなかには、良心とよばれる神の光が与えられているのですからね」
「ええ、そうですね」ピエールは相槌を打った。
「心の目で自己の内部の人間を見つめて、おまえは自己に満足しているかと、自分自身にたずねてごらんなさい。知性だけを頼りに生きて、おまえは何を得たか? おまえはいったい何物か、とね。あなたは若いし、裕福だし、聡明で、教養もおありだ、伯爵。しかし、自分に与えられたそれらすべての恩恵から、あなたはいったい何をやりましたか? あなたは自分や自分の生活に満足していますか?」
「いいえ、わたしは自分の生活を憎んでいます」顔をしかめて、ピエールはつぶやいた。
「憎んでいるんだったら、それを変えて、清めなさい。清めるにつれて、叡知というものがわかってきます。自分の生活を見つめてごらんなさい、伯爵。あなたはどうやって生活をすごしてきました? 何もかも社会からももらい受けながら、何一つ返そうとせず、荒くれたばか騒ぎや、頽廃のうちにすごしてきたでしょうに。あなたは莫大な富を得られた。それをどう使いました? 同胞のために何をしてやりました? 何万というあなたの農奴のことを考えてみましたか、肉体的、精神的に助けてやったことがありますか? ないでしょう。あなたは、放埒な生活を送るために、彼らの労働を利用しただけなんだ。そういうことを、あなたはやってきたじゃありませんか。あなたは、同胞に利益をもたらしうるような勤め場所を選んだことでもありますか? ないでしょうに。あなたはぶらぶらと生活を送ってきただけだ。それから、あなたは結婚した。つまり、若い女性を導く責任を負われたわけです。そしてあなたは何をしました? あなたは、奥さんを助けて真理の道を見つけさせてやろうとせず、虚偽と不幸のどん底につき落としたじゃありませんか」(一巻pp448-450)

フリーメイソンに入会後、戦争に従事したピエールは捕虜となり、プラトンという名の聖人のような男に出会う。プラトンの様子について抜粋。

「彼の話し方のいちばん大きな特色は、自然さと、むだのなさだった。どうやら、自分の言ったことや、これから言うことを一度として考えたりせぬらしく、それだけに語調の早さと正確さには、一種独特の反駁しえぬ説得力があった。(…)ちょうど子供が起きるなり玩具にとびつくように、一瞬の遅延もなく何か仕事にとりかかった。何をやらせても、とりわけ上手でないにしても、へたではなかった。煮炊きや縫物、鉋かけ、長靴まで縫った。いつも仕事をしており、大好きなおしゃべりや歌は夜だけときめていた。彼のうたいぶりは、聞き手のいることを承知している歌手の歌い方とは異なり、小鳥のうたうのに似ていた。どうやら、伸びをしたり散歩したりすることが時には必要であるように、声を出す必要があるためにうたうらしかった」(三巻p189)

プラトンとの接触によって、ピエールは気づきを得る。

「バラックでの捕虜生活の間に、ピエールは、人間とは幸福のために創られたのであり、幸福とは人間みずからの内に、つまり、ごく自然な人間的欲求の充足の内に存するのであって、いっさいの不幸は欠乏からではなく、過剰から生ずるのだということを、知性によってではなく、自己の全存在によって、生命によって知った。だが、今、行軍の最後のこの三週間で、彼はさらに新しい、喜ばしい事実を知ったーーこの世には何一つ恐ろしいものなど存在しないことを知ったのである。人間が幸福であり、完全に自由でありうるような状態がこの世に存在しないのと同様、人間が完全に不幸であり不自由であるような状態もやはり存在せぬことを、彼は知った。苦しみには限界があり、自由にも限界があって、この限界がきわめて近いことを彼は知った」(三巻p296)
「捕虜生活のなかで彼は、プラトン・カラターエフのうちにある神が、フリー・メイソンの認めている宇宙の建設者のうちにある神よりも、ずっと偉大で、無限で、はかり知れないことを知った。目をこらして遠くを見ていたのに、求めるものを足もとに見いだした人間のような気持を、彼は味わった。これまでの一生、周囲の人々の頭ごしにどこか向こうのほうを見つめてきたものだが、必要なのは目をこらすことではなく、足もとを見さえすればよかったのである。以前は、どんなもののなかにも、偉大な、はかり知れぬ、無限の存在を見いだすことができなかった。ただ、どこかにあるはずだと感じて、探し求めていただけだった。理解しうる身近なもののなかには、もっぱら、限定された、ちっぽけな、俗世的な、無意味なものだけを見ていた。知性の望遠鏡をそなえつけて、遠方ばかり眺めていたのだが、そこでは、この俗世的なちっぽけなものが靄にとざされたかなたに没し、漠然としか見えぬというだけの理由で、偉大な無限なものに思われたのだ。ヨーロッパの生活や、政治、フリー・メイソン、哲学、博愛などが、彼の目にはそう映じた。だが、その当時でも、自己の弱点とみなしていたような瞬間には、知性がその遠いかなたにまで入りこんでいき、彼はそこにやはり同じちっぽけな、俗世的な、無意味なものを見ていたのである。今や彼はあらゆるもののうちに、偉大な、永遠に無限なものを見ることを学び知った」(三巻p351)

そう、ヨーロッパの古典文学などに偉大なものを求めるのはほどほどにして、同時代の身近にはかりしれないものを感じよう。

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