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書評:トルストイ『懺悔』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年10月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

 河出書房トルストイ全集14「宗教論 上」所収。中村融訳。原著は1879年完成。

この作品を書く以前の「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を書いたトルストイを前期トルストイと言い、この作品以後の「復活」、「クロイツェル・ソナタ」、「人生論」などを書いたトルストイを後期トルストイと言う。前期からすでにトルストイの文章の中には、宗教倫理的、自己訓練的内容が多見されたが、「懺悔」以降のトルストイは、福音書に忠実な、原始キリスト教的宗教倫理を前面に押し出した文章を書いていくことになる。

 彼は前期においても後期においても、宗教信者に時折みられる錬金術の研究的神秘主義には反対している。彼にとって宗教とは最高善の行動倫理規範を示すものである。よって彼は心霊現象や奇跡を信ずることもなく、極めて理性的であり、そのあたりは近代的理性に対して非合理性を重んじる象徴派、ポスト・モダニズム、マジック・リアリズムとは決定的に異なる。彼は福音書の教えに忠実な倫理的な生き方を何より尊ぶ故に、政治や戦争や、権力欲や性欲と結びつく宗教組織を徹底的に批判する。
「懺悔」冒頭は、トルストイがキリスト教の信仰から離反していった様子が語られる。
「信仰からの私の離反は、わが国の教養社会の人々の中に生じ、また現に生じつつあるのと同じ過程で私のなかにも生じたのである。それは多くの場合、つぎのようにして生じるものらしい。すなわち、人々は誰もが生活するように生活し、およそ教理などとは似つかわしくないどころか、多くはそれにもとるような主義の上に生きている。(…)この教理なるものは実生活とは遠くかけ離れた、無関係などこかで告白されているのである。そして、もしこれと接触するとしても、それは生活とは結びつかぬ外面的な現象として接触するにすぎない。」
「人の生活ぶりや業績によって、彼が信仰をもっているか否かを知ることが絶対にできないのは、当時も今も変わりはない。(…)現在と同じく当時も、正教を公然とみとめてこれを信奉するのは、多くは愚鈍、非情で自分を非常にたいしたものと考えているような人々の間に見かけられることだった。しかも、叡知、誠実、率直、温厚、徳性といったものは、多くの場合、不信心者と自認する人々のうちに見かけられた。」
「(…)たいして学問もなく、官途についていないわれわれなかまの者は、昔はいっそうそうだったが、今でも、自分がキリスト教徒の中に暮らしていることや、自分をキリスト教に帰依しているものと考えていることなどただの一度も思い出さずとも、なお数十年生き永らえることができるのである。」(pp346-347)
 これは百年以上前の状況について書かれたものだが、現代において書かれたものと誤解しながら読んでも意味は十分通じる。これを読んでいて、日本人は神を信じないと一般的には理解されているが、キリスト教諸国でもそれはたいしてかわらないのではないかと思えた。神を信じているかという質問を、「神の存在を信じているか」という質問だと捉えると、日本人はイエスと答えないが、アメリカ人は9割以上イエスと答えるという回答結果には納得できる。しかし、神を信じているかという質問を、「宗教的、倫理的な生活を送っているかどうか」という質問と捉えると、日本でもアメリカでも、世界中どこでも、数百年前から何ら変わっていないありさまだと思える。
 中世ヨーロッパですでに、本来のキリスト教的なものを信仰していたのは知識人階級のみで、農民のほとんどは土着の民俗神をも信仰していたという歴史学の研究成果がある。ルネッサンス以降知識人の多くはキリスト教会を嘲笑する。それはトルストイが生きた19世紀のロシアでも同じで、若き日のトルストイは、教理の言葉を多くの信徒が実践していないことを知って、キリスト教から離反していく。
 トルストイにとっての信仰とは、完成への信仰であった。
「私は知的に自己を完成させようと努めーーできるかぎり、また生活が直面させてくれたすべてのことを学んだ。また私は自分の意志を完成させようと努めーー自分に規律をこしらえて、それを守ろうと努めた。また、あらゆる鍛練によって体力と敏捷さを錬磨したり、あらゆる困苦によって我慢と辛抱とに自分を馴らそうとしたりして肉体的にも自己を完成させようと努めた。そして、それらのことをすべて私は完成と見なしていたのである。最初は、もちろん道徳的完成にあったが、やがてそれは一般的な完成に、つまり自分自身と神とに対してよくありたいという希望よりは、他人に対してよくありたいという願望に代わってしまった。そしてさらに他人にたいしてよくありたいという願望はたちまちにして他人よりも有力に、つまり他人よりも名誉も、地位も、富もある者になりたいという願望に代わってしまったのである。」(p348)
 これは前期、後期を通して変わらぬ、彼の「善を目指す向上心」という中核思想について語った重要箇所である。トルストイと違って私は、自分自身と神に対してよくありたいという願望など抱いたことがなかった。私鵞抱いていたのは、たえず他人に対してよくありたい、もしくは、自分自身がきもちよくなりたいという願望であり、うつろいやすい他人の心と快楽に翻弄されて、私は心の安定を得ることがなかった。
 善への憧憬を世俗の欲求にすりかえたトルストイは、放埒な作家活動を送る。作家仲間は人類生活の発展を信じており、自分たち思想家が発展に大きな影響を与えると考えていた。しかしトルストイは、作家的信仰の真実性を疑い始める。彼は、自分も含めた作家たちのほとんどは不道徳な人々であると考えた。トルストイは作家信仰の虚偽を悟った後にも、作家信仰に参加する人々によって与えられた自身の芸術家、詩人、教師という地位は否認しなかった。
 作家仲間とのつきあいは疑いを感じながらも続いていく。
「この人たちと近づきになったことから、私は新たな悪徳を身につけてしまったーー病的なまでにふくれあがってゆく傲慢さと、自分は万人を教えるべき(何を教えるかは自分でも知らないが)天職にあるのだという狂人じみた信念とが、それだった。」(p349)
 作家信仰からの離反の表明こそ、「懺悔」がトルストイの思想的転換を示す作品だと言われる由縁である。人類福祉の発展のためにと、語り、書き、印刷する作家たちの本当の目的は、金と名声をできるだけ多く得たいということだとトルストイは喝破する。
 
 トルストイは人類は進歩発展しているという作家仲間を含めた多くの教養人が抱いている文明観、科学観は幻想だと言う。
「私はこれが必要でないこと、これが悪だということ、したがって何が善であり、必要であるかを判定する者は世人の言行でも、進歩でもなくして、自分とその心だということを私は知っているーーこう私は悟ったのである。」(p354)
 トルストイは文学上の教化活動から手をひいて、農民学校の仕事に没頭する。作家や思想家は何を教えるか対象を知らないままに、教化だ発展だと声高に言っているし、みんな別々のことを教えている。進歩概念の虚偽性に気づいた彼は、それでも人類の進歩に貢献したいという想いは捨てきれず、農村の師弟が本当に必要とすることだけ教えていけばいいと考えて、農民学校を営む。その一方で、彼は家庭生活の幸福に身を浸す。
「幸福な家庭生活の新たな環境は、人生の普遍的意義の探究などということからはもう完全に私をひき離してしまった。この当時の私の全生活はことごとく家庭、妻、子供、したがってまた生活費をふやすための配慮などのうちに集中された。向上を目ざす気持はすでにこれより前に一般的な完成、つまり進歩への意欲に変わっていたが、それが今や、自分と家族がなるべくいい生活をしたいという願いに一変してしまった。」(p354)
 図式的に整理すると、少年トルストイの心を占めていた善への向上心は、作家となってからは、人類の進歩発展の確信とその発展への貢献という傲慢な虚偽にとって代わり、家庭を築いてからは、自分と家族がなるべくいい生活をしたいという願いに変わっていったのである。
 トルストイは、万人の生活にとって意義あることを探そうと試みるが、人生は無意味だというのが真理ではないかと苦悩を膨らませる。生きることが無意味ならば、答えは死しかない。死という真理以外は虚偽だと彼は考えるようになる。
 トルストイは家族への愛と、自ら芸術と称していた著作活動への愛が、人生の無意味さという真理から自分を遠ざけていたと感じる。何故生きる必要があるのか、愛する家族に真理を示そうとしても、真理は死となってしまう。生の反映だった芸術は、トルストイに生きる歓びを与えてくれていたが、真理が死となった今、芸術は虚偽、真理から自分を遠ざける誘惑としか思われなくなっていた。
 生の無意味という真理があるのに、人は何のために生きているのか、生きなければならないのか。トルストイのこの疑問に対して、経験科学は一応の答えを用意はするが、その答えは「ではそれは何のために?」という終わりない疑問を産み出し続ける。科学は執拗に疑問を出しては、その答えを知りたがるが、生活の意味に関する問題の回答はその途上にないことをトルストイは理解する。
 ソクラテス、ショーペンハウエル、ソロモン、仏陀といった哲学者たちは、生きることは空なり、無なり、生の歓びは最大の悪なりと言う。生への絶望から救われるためトルストイは知識にあたってみたが、自分の絶望は迷妄ではなく、人類の至賢たちの回答と等しいという事実にぶち当たってしまった。
 トルストイは知識から離れて、自分を取り巻く人々の生活の中に、問題の回答を見出そうとした。人々は、無知であるか、ソロモンのように享楽主義に逃げこむか、自殺するか、弱気になるかの四種類にわけられるという。弱気とは、生の悪や無意味を知りながらも、その状態を伸ばし続ける人々のことであり、トルストイ自身もその部類に属していた。
 トルストイは、周囲の観察から、ある人々が人生の意義を感じながら生きていることに気づく。それは信仰に基づいて生きる人々である。トルストイは、合理的な知識は、生は無意味なりという認識を与えるだけだが、信仰は、生の意義や生きる可能性を与えてくれるという。
「私が悟りえたところでは、信仰とは単に眼に見えぬ物を示現することでもなく、啓示でもなく(これは信仰の特徴の一つを表現したものにすぎない)、神に対する人間の態度でもなく(まず信仰を定義し、次に神を定義しなければならない。神を通して信仰を定義してはならない)、またよく思われているように、人間に対して言われたことに同意することでもなくてーー信仰とはそれを得れば人間がみずからを滅ぼすことなく生きて行けるような人間生活の意義の知識なのである。信仰は生の力である。人は生きているかぎり、なにかを信じている。もし人間が自分は何かのために生きなければならぬということを信じなければ、彼は生きてはゆけないだろう。」(p378)
 トルストイはまず自己の周囲にいる学識ある信徒や、神学者、老修道僧と対話するが、彼らとの交際はトルストイを絶望させる。
「私を反駁せしめたのは、これらの人々の生活が私のそれと同じであり、ただ相違と言えば、彼らの生活はその教義のなかに説いていた主義そのものにふさわしくなかった、ということである。彼らはみずからを欺き、私と同じく、生きられるかぎり生き、手が掴みうるかぎりなんでも掴みとろうとする以外に生の意義を有していないことが私にははっきり感じられた。私にそれが分かったのは、もしも、貧困、病苦、死の恐怖など物の数でもないとするような生の意義を把握していたとすれば、彼らとてそのようなものは恐れないはずだからである。彼ら、つまり、われわれなかまうちのこれらの信者たちは私と同じく富裕と余剰のなかに暮らし、それを増大もしくは温存しようと努め、貧困、病苦、死を恐れ、私や私のような信仰をもたぬすべての人々と同様に情欲を満足させつつ生き、世の不信心者たち以下と言わぬまでも、同様によからぬ生き方をしてきているのである。」(pp380-381)
 トルストイのこの批判は辛辣すぎるようにも思われるが、確かに私も聖書に書いてある倫理的内容にいたく感動した後、現実に生きているキリスト教徒の生態を観察するにつれて、絶望を増した記憶があり、そんなことは普通書きたくても書けない体験であるから、トルストイがきちんと書いていてくれてよかったと思えた。信仰に生きているはずの人々が戦争することなど、私自身どうしても信じられない。
「そこで私は悟ったのだが、これらの人々の信仰はーー私が探し求めていた信仰でもなく、また真の信仰でもなく、人生における享楽的な慰安の一種にすぎないのである。かような信仰は死の床で悔悟するソロモンにとって慰めとまではいかなくとも多少の気晴らしとしては向いているかもしれないが、他人の勤労を利用してみずからを慰めるどころか、みずから生活を創造すべき使命をもつ人類の大多数には向くものではない、私はそう理解したのである。」(p381)
 これまた強烈極まりない皮肉をまじえた批判だが、概してトルストイは体を動かして労働しない知識人、貴族階級に批判的である。トルストイが真の信仰の実践を見出したのは、ロシアの民衆信徒たちの中であった。
 
「全生活が怠惰と欲情と生の不満とのなかにすぎてゆくわれわれのなかまで私が見かけたこととは反対に、私はこれらの人々の全生活が重労働のうちにすぎてゆきながらも、彼らが生活に満足しているのを見てとったのである。また、われわれなかまの人々が貧苦や病苦に対する運命に反抗したり、憤慨したりしていたのとは反対に、これらの人々は、疾病や悲運をなんらの誤解、反抗もないどころか、これらはすべてーー善であるという冷静確固たる信念をもって受け入れてきたのである。また、われわれは利口であればあるほど生の意義を理解することがいよいよ少なくなり、自分らが苦しんだり、死んだりすることに一種意地の悪い嘲笑をみとめているのとは反対に、これらの人々は生き、苦しみ、死に近づいてゆくが、苦しみを受ける時も平静で、最も多くの場合は喜びさえいだいている。(…)彼らはいずれもその風習、知能、教育、境遇からいえば、千差万別であるのに、誰もが同じように私の無知とはまったく反対に生や死の意義を知り、落ちついて勤労し、困苦や艱難にも耐え、そこに空しさどころか善をみとめつつ生き、死んでゆくのだった。」(p382)
 トルストイは、生は悪だという結論は、一般から見れば例外的に享楽的な生活を送っていた自分にのみ当てはまるもので、人生一般には当てはまらないことを悟った。トルストイはまた、真理の知識は実生活からのみ発見できると確信し、寄生虫的でない真の生活をしなければならないと悟った。
 トルストイは、神とは何かを考える。それがなければ生活がありえないもの、神を知ることと生きることは同じことだ、神は生だと彼は見出し、自殺願望から抜け出す。
 
「人生における人間の任務はーーおのれの霊魂を救うことである。おのれの霊魂を救うには神意にそって生きなければならず、神意にそって生きるには、人生の一切の歓楽を絶ち、勤労し、謙虚になり、忍耐し、慈悲深くならなければならぬ。」(p389)
 トルストイは教会に通うが、教会でも欺瞞と虚偽を多数見出し、教義の中にある真理と虚偽を明確に分け、真理を伝えていかねばならぬと考える。その仕事が後に「要約福音書」として完成する。
 知識人、貴族、富裕層を勤労大衆の上にあぐらをかく寄生虫と弾劾するトルストイは、徹底した批判の人、妥協を許さぬ哲人である。彼は人生の意義を科学や哲学でなく信仰に見出した。生きる必然を信じること、生への信仰がなければ死ぬしかないという極限での思考である。

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