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書評:サリンジャー、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

この記事の最終更新日:2006年7月9日
キャッチャー・イン・ザ・ライ
キャッチャー・イン・ザ・ライJ.D.サリンジャー 村上 春樹
白水社 2003-04-11

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フラニーとゾーイー

サリンジャーは『フラニーとゾーイー』が一番いいと思っていました。『フラニーとゾーイー』では、フラニーの悩みについて問答が繰り広げられた後、「太っちょのおばさま」という最終的な解決が与えられます。これがこの小説の最大の魅力なのですが、村上春樹は、最終的な解答が得られる『フラニーとゾーイー』よりも、サリンジャー自身悩みながら書いている『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の方が、小説として面白いし、多くの読者を得ていると指摘しています(柴田元幸との対談より)。村上春樹のこのサリンジャー評を読んで、春樹はサリンジャーに言及することによって、自分自身の小説哲学を露呈していると感じました。春樹の小説は、長編でも短編でも、最終的な答えは得られません。どの作品も、完全なエンドでは終わらず、謎と余韻を残したまま、中途半端に、これからも続くかのように物語が終わります。マルクス主義とか、宗教とか、フェミニズムとか、世界に対して最終解釈を与えることを春樹は避けているというか、嫌悪していると思います。村上春樹は常に「大衆」の、消費者の立場で語っており、社会の日常を一定の範囲で肯定しています。故に春樹は、政治的、哲学的な面を持ちながらも、左翼にも右翼にもならず、神秘的要素を持ちながらも、宗教には走らず、ただひたすら夏目漱石のように、国民的作家として小説と翻訳を書き継いできました。世界を解釈する最終的な答えを求めることは有害であるし、何の意味もないという確信は、問いつつ生きる過程を描くこと、小説を書く作業に結実します。村上春樹はフィッツジェラルド、アーヴィング、カーヴァーといった小説家の翻訳で自分を助けてきましたが、世界中の読者に愛されるサリンジャーを訳すことによって、『海辺のカフカ』の誕生を促したのでしょう。

さて、翻訳者である春樹についての言及が長くなりましたが、このあたりで作品そのものに触れることにしましょう。私は一度、別の翻訳で、大学時代この小説を読みました。その時は感じなかった様々なことを、今回の、2回目の、春樹による翻訳を読むことで、感じ取りました。私が社会人になったせいか、「バガヴァッド・ギーター」など自己修養の哲学書を読み続けた後だったからか、主人公のホールデンの言動がとても幼く、反抗的なように感じました。しかし私が感じたこの新しい印象は、春樹のダイレクトな現代語訳によるものかもしれません。サリンジャーの文章は、当時のニューヨークの若者言葉そのままで、翻訳でこの小説の文体を写すことは難しいと言われていましたが、春樹の翻訳は、見事にホールデンが持っている反抗精神を表現したと思います。社会や常識が匂わせる馬鹿馬鹿しさ、インチキをホールデンはとことん批判します。道徳通念、かっこつけ、わざとらしさ、賞賛を浴びたい気持ち、誰もが持っているだろうインチキ加減をホールデンは容赦しません。

この小説の主題とは何か。大人が醸し出すインチキに対する少年的な無垢さ、イノセンスだと、簡単に指摘されますが、小説の後半に登場するミスタ・アントリーニの言葉の中に、サリンジャーの小説観がこっそりと書かれていると感じました。

英語教師であるアントリーニは、真っ当な大人になる道を踏み外しそうなホールデンに、滔々と説教を述べます。

「なかんずく君は発見することになるだろう。人間のなす様々な行為を目にして混乱し、怯え、あるいは吐き気をもよおしたのは、君一人ではないんだということをね。そういう思いを味わったのは、なにも君だけじゃないんだ。その事実を知ることによって、君は興奮し、心をかきたてられるはずだ。とても、とても多くの人々が、今君が経験しているのとちょうど同じように、道義的にまた精神的に思い悩んできた。ありがたいことに、彼らのうちのあるものはそういう悩みについての記録をしっかりと残しているんだ。君はそういう人々から学ぶことができるーーもし君が望めばということだけどね。同じように、もし君に提供すべき何かができたなら、誰かがいつの日か君からその何かを学ぶことになるだろう。それは美しくも互恵的な仕組みなんだよ。それは教育みたいなことにとどまらない。それは歴史であり、詩なんだ」(p314)

ホールデンはこの話に何の肯定的な反応も示しませんし、この話は物語の流れの中に完全に溶けこんでいます。わざとらしさを嫌うサリンジャーは、小説のいたるところに、さりげなく、このような重要キーを配置しています。表立って語らず、象徴的に、間接的に伝えたいことを表現すること。このようなまわりくどさの達人が、サリンジャーであり、村上春樹でありましょう。





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