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書評:アリストテレス『ニコマコス倫理学』

この記事の最終更新日:2008年3月31日

(以下の書評は2005年2月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

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アリストテレス著、高田三郎訳『ニコマコス倫理学』(1971年、岩波文庫、上下巻)。

 原著は紀元前の作。岩波文庫下巻の扉に「アリストテレス(前384ー322)の著作を息子のニコマコスらが編集した本書は、二十三世紀に近い歳月をしのいで遺った古典中の古典である。」とある。上巻の扉には「古代ギリシアにおいて初めて倫理学を確立した名著。万人が人生の究極の目的として求めるものは「幸福」即ち「よく生きること」であると規定し、このあいまいな概念を精緻な分析で開明する。これは当時の都市国家市民を対象に述べられたものであるが、ルネサンス以後、西洋の思想、学問、人間形成に重大な影響を及ぼした」とある。要するに古典中の古典であり、教養人たろうとするなら必読の書。
 現代において倫理学は問われなくなったし、学問を修めた人が、アリストテレスを読むことも少なくなった。現代日本において、医者、官僚、政治家、大学教授など、学問を修めたはずの、社会的責任を負う功徳あるべき人たちが、不祥事、ケアレス・ミス、スキャンダルを繰り返している。ハイクラスの道徳的堕落の一因に、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』など、古典・倫理の書が読まれなくなったことをあげたくもなる。
 アリストテレスらの古典書が読まれなくなったからといって、悪政がはびこると考えることは思考の短絡なのだが、読後そう思いたくなるほど、この書に述べられていることは高尚かつ厳格で、マスメディアが垂れ流す言葉とはかけ離れた理想的世界が書物の中に保存されている。
「ひとびとの実際の生活から察するに、世上一般の最も低俗なひとびとの解する善とか幸福とかはーーそれは理由のないわけではないがーー快楽(ヘードネー)にほかならないように思われる。彼らの好む生活が享楽的なそれだといえる所以である。」(p22)
幸福は快楽によるとする一般通念に対してアリストテレスは、幸福や善とはアレテーに即する魂の活動(エネルゲイア)であるとする。アレテーは徳、あるいは卓越性と訳される。アリストテレスにとっては幸福になること、善く生きること、すなわち卓越した活動をし続けることが、生きることの究極目的となる。
『われわれは最高善が政治の目的とするところであるとなしたのであるが、政治とは市民たちを一定の性質の人間に、すなわち善き人間、うるわしきを行うべき人間につくるということに最大の心遣いをなすものなのだからである。』(p41)
 この社会改良思考は優生学、共産主義につながりうるが、拒否反応を示すことなく、しばし2,300前になされたアリストテレスの思考を見ていこう。第二次世界大戦後、優生学、ナチス、共産主義、植民地支配、人種差別などの反省から、西洋が紡いできた古典的教養が、そのまま善きものとは妥当しなくなったが、かといってヒステリックに全否定することもない。まずは冷静かつ批判的に古典を読む遺産相続の作業が必要である。
 アリストテレスにとってアレテー、徳とは過不足なきこと、中庸である。豪華についての解説が面白い。豪華は、浪費とけちの中庸の一つである。
『豪華なひとはかかる出費をうるわしさのためになす。このことは、実に、あらゆる徳において共通なことがらなのである。のみならず、快を感じつつ、また惜しげもなくーー。なぜなら、精密な打算はこまかいひとのすることだからである。彼はむしろ、いかにして最もうるわしく最もふさわしく費やすかを考慮するのであって、いかほど要るかとか、いかにすれば最も少なくてすむかを考慮しはしないであろう。』(p140)
 計算高い倹約・清貧を目指すより、金銭についてうるわしい態度を示す豪華たろう。
 名誉と不名誉の中庸である吟持ある人についての解説。
『また足どりも吟持あるひとは静かであり、声も深く、はなしぶりも落ちついていると考えられる。なぜかというに、少数のことがらにしか熱心でないひとは性急でなく、また何ごとをも大きいとは思っていないひとは興奮しない。高声とか慌しい足どりとかはこうした事由に基づいている。』(p150)
 現代人のいかに慌しいことか。いろいろな広告に欲望を刺激され、せわしない現代人に対して、徳ある人はそもそも恥じ入る行為をしないし、虚飾、自己卑下、道化、野暮な行為をしない。彼には機知と慎みがある。
 数ある徳の中でも、正義は完全な徳である。人に正しきことを行なわせる正義の徳は、自己だけでなく、他にも波及するからである。
『対他的であるということーーのゆえに、あらゆる徳のうちで、正義のみは「他者のものなる善」だとも考えられている。(…)もっともあしきひとは自己に対しても親しきひとびとに対してもその非徳をはたらかせるところのひとであるのに対して、最もよきひととは、その徳を自己に対してはたらせかる(原文ママ、岩波文庫でも誤植はあるのか)人ではなく、他に対してはたらかせるところの人なのである。まことに、これは困難な仕事であるが。』(p174)
 プラトンにとってもアリストテレスにとっても、正義は対他的徳であり、法を定め、社会を成り立たせるものである。現代では正しさの基準が多種多様で、己の正義を信じる人は批判されやすいが、自分の徳を高めつつ、自分だけでなく、他の人にも徳をはたらかせるうるわしき人こそ、古代から求められていた理想的為政者である。
 
 論の途中で、アリストテレスは学問について定義をくだす。
『「学」とは、それゆえ、「論証ができるという状態」なのであり、そこには、およそ『分析論』においてわれわれの規定しているような若干の条件がすべてつけ加わってくる。すなわち、ひとが何らかの仕方で確信に達していて、もろもろの基本命題(アルケー)が彼に知られてある場合に、彼ははじめて「学的に認識」しているといえるのである。まことにもろもろの基本命題がその結論以上に彼の知るところとなっているのでないかぎり、彼は単に偶有的な仕方で「学」を有しているにすぎないのである。
 「学」(エピステーメー)については以上のように規定しておく。』(p221)
 語ることについて知らないことがない状態、知らない人から問われたら論証できる状態が、学知である。学問(エピステーメー)は能力であり、学問を能力として働かせている時、人は普段の曖昧さとは別の認識をなしていると言える。小説家や学者は、エピステーメーの状態で文章を書くだろう。
 
 以下下巻。
 アリストテレスは、快楽は決して悪ではなく、中庸であれば、快適、幸福のもとだと言う。
 愛についての哲学的、学問的な紀元前の叙述がある。二人が互いに善き人であり、お互いの善き類似性を愛しあっていれば、愛は永続しうる。
『恋するひとと恋されるひととでは、同じことがらに快楽を感じていないのが常であって、前者は後者を眺めることに、後者は恋するほうのひとに面倒をみてもらうことに快楽を感じている。そして、若盛りが終りを告げるとともに彼らの愛もまた、わるくすると終りを告げるのである。(愛するほうのひとにとっては愛人を眺めることが快適でなくなり、愛される人のひとにとっては面倒を見てもらえなくなるから。)ただし、もし彼らが類似したひととなり(エートス)を持っていて、ねい懇を機縁にお互いの「ひととなり」を愛好するにいたった場合には、愛を持続してゆくひとびとも決して少なくはないのである。恋愛関係において快をではなくして有用を交換するところのひとびとにいたっては、愛の程度もいっそう低く、いっそう持続もしがたい。有用のゆえに友たるひとびとは、功益の消失と同時にその愛を解消するものなのであるからーー。彼らはお互いを愛する友だったのではなく、便益を愛する友だったのである。」(pp75-76)
 快や有用も全否定の対象ではなく、中庸ならば善き生活のもとなのだが、それでも最も幸福なのは、物質化しないお互いのエートス、ひととなりを愛し合う人たちである。相手の美しさは滅びうるし、富も滅びうる。形にならないひととなりは永続しうる。
 ひととなりも変わりうるが、美や富よりも永続しやすい。善き人は、互いに互いのひととなりの鏡像を見出し、愛しあう。「お互いの人間自身のゆえに友でありうるのは、明らかに、善き人々のみにかぎられる。」(p76)
 善き人々の愛は一時的なものでなく、他の徳と同じように永続する。それはおのずと永続するのではない。一度選択したものを永続させること、永続すべきものを選ぶ慎重さこそ、善き人の善き所以である。
「また、誹謗によって害われることのないのも善きひとびとのあいだにおける愛のみである。けだし、自己による久しい吟味を経たひとに関しては、他人の言説は、何びとの言説であるにせよ信じがたいからである。かような信頼も、また相手が決して不正を行なわないだろうという予想も、その他およそ真の愛において要請されるところのもろもろの条件が、善きひとびとにおいてはことごとく具備しているのである。」(p76)
 善き人は自愛するのだが、世人は自愛を別様に解釈している。
「さて、この語を排斥的な意味に用いるひとびとが自愛的と呼んでいるのは、「財貨や名誉や肉体的快楽における過多を自己に配するごときひとびと」にほかならない。事実、世人はこれらのものを欲し、これらのものを最善なものとして真剣に追求しているのであって、これらが奪いあいの的となるゆえんもここにある。ところで、「これらに対してむさぼりがちなひとびと」の満足せしめているところのものは欲情であり、総じてもろもろの情念(パトス)であり、魂の無ロゴス的な部分にほかならない。(…)世人が自愛と呼び慣らわしているのはこのようなものを自己に配するひとびとにほかならないことは、多言を要せずして明らかであろう。実際、もしひとが、正しいことがらとか、節制に属することがらとか、その他およそ徳に即したもろもろのことがらを、他のいかなるひとよりも以上に行なうことを常に努めていても、そうしてうるわしさをば総じて常に自分で占有しているとしても、何びともこれを自愛的だとはいわないであろうし、またこれを非難する人もいないであろう。
 だが、むしろ、かかるひとこそ自愛的なひとだと考えられなくてはならないのである、なぜかというに、彼は最もうるわしきもの・最高の意味における善きものを自己に配し、自己のうちなる最も優位的なものを満足せしめ、あらゆることがらについてこのものの示すところに服従する。(…)自己のうちなる最も優位的なものを愛しこれを満足せしめるところのひとこそ、また最も自愛的なひとたるのでなくてはならない。」(pp132-133)
 悪しき人は情念の赴くまま、功益を求め、自己にも隣人たちにも害をなすので、自愛的であってはならないが、善き人は知性が見出したことわりに即して、自己にとって最善たるうるわしさを求め、自己にも隣人たちにも益をなすので、自愛すべきである。
 アリストテレスの説く理想的な生は、人が生きるべき倫理学として結実する。倫理学が人生訓や宗教的説教と異なる所以は、俗説の精密な学問的分析による。普通なら曖昧なまま、当然のこととして一つに混同されている概念を、明晰に分解する学問の知によって、人が従うべきことわり、倫理が見出される。厳密な倫理は宗教や人生訓とは異なる。
 高潔な人格という言葉を聞かなくなって久しいが、アリストテレスや古代の哲人が求めていたのは、まさしくそれであり、富や美ではないのだ。それらは付随物にすぎず、目的そのものではない。人生の究極目的、生きること全体は、高潔な人格の育成にある。

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