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(以下の書評は2005年10月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)
世界の名著 14 アウグスティヌス アウグスティヌス 山田 晶 中央公論新社 1968-01 |
中央公論社「世界の名著14 アウグスティヌス」山田晶責任編集。昭和43年初版発行。アウグスティヌス著「告白」を収めている。以前古本屋で買ったのだが、ほとんど読まないまま古本屋に売り返していた。何故これを図書館で借りたかというと、時間論が気になったからである。
もとはといえば、トルストイの結婚についての考察のつながりで、アウグスティヌスの結婚観に行き当たった。結婚が唯一性欲を善にすると考えたアウグスティヌスは、過度の禁欲を避け、結婚を秘跡として神聖なものと尊ぶ教会神学の基礎を作った。
ここ最近トーマス・マン「魔の山」を読んでいたのだが、「魔の山」には時間についての考察がたくさん出てくる。そこでまた、時間論を書いているアウグスティヌスのことを思い出した。ナボコフは思想的なマンを評価していなかったが、彼も時間についての秀逸な議論を小説内に残している。そのナボコフが、代表作「ロリータ」を執筆前、アウグスティヌスを読んでいたことを知って、ついにアウグスティヌスを借りる決意を得た。
目的は時間論を読むことだが、前文の訳者解説を読んで、大きな感銘を受けたので、今回は訳者解説を中心に取り上げる。「世界の名著」の訳者解説には、戦争を体験した一世代前の学者が、西洋古典をいかに理解したかの歴史的記述に溢れており、今となってはどれも貴重な歴史資料である。
「教父アウグスティヌスと『告白』」という解説文で、翻訳者の山田晶は、アウグスティヌスの略歴と当時の思想的背景を述べる。アウグスティヌスは若い時分マニ教に入信した。マニ教は、キリスト教の精神は認めているが、旧約聖書はまやかしものとして否定している。アウグスティヌスは、旧約聖書の天地創造などの神話は、不合理で、荒唐無稽なことだと感じ、奇跡の物語を信じている教会の信者を嘲笑し、合理的な世界理解を与えてくれると思われたマニ教に入信したのだった。しかし彼は、キリスト教会の司教たちが奇跡の物語を象徴として解釈していることに気づく。神学者たちは聖書を熱心に読んで、物語を記す文字の奥に隠されている深い意味を解釈していたのだった。彼は聖書の認識を一変し、旧約を含めたキリスト教に回心する。
三、四世紀のキリスト教では、聖書がヘブライ語からラテン語に訳されており、アレクサンドリアではギリシア語訳の聖書も書かれていた。ヘブライ産の聖書の解釈に、ギリシア哲学が導入されてきた時代だった。もちろんユダヤのラビたちも、熱心に旧約聖書を読み、解釈することで、高度な知識を蓄えていたが、ローマ帝国の教父たちは、ストア派、新プラトン主義的解釈をどんどん聖書に施し、豊かな神学を築き上げていった。イエスはパリサイ派など学者を否定して、信仰を説いたはずだが、再びキリスト教は学者たちによって高度な体系に組み替えられてしまう。これは歴史の皮肉だが、奇跡を象徴として受け入れたアウグスティヌスの回心には、個人的に共鳴するところがあった。
私は、聖書の倫理的教えには共鳴していたが、トルストイのように、福音書に書かれている、人が生き返るとか、パンが増えるとかの数々の奇跡は信じられなかったのである。あんなものを信じる人間は無知だと馬鹿にしていたのだが、アウグスティヌスも私と同じ気分を体験していたことがわかって、昔も今と変わらぬことにほっとした。さらに、大昔にすでにその狡知に基づく嘲笑の解決方法があったことを知り、自分の無知を恥じた。教父のように、奇跡を事実でなく象徴として解釈しつつ、高度に知的な哲学的考察を進めることで、キリスト教全体を許容できると知った私は、己の無知を改め、倫理的に生きていこうと決意した。
その倫理的決意をさらにすすめてくれたのが、当時の教会についてのアウグスティヌスの接し方である。
「彼は、ミラノで、一傍観者として教会の人々を見ていた。彼は信者のなかに欠点や腐敗があることを、底の底から知りつくしている。それにもかかわらず彼は、この教会をははれて、きよらかな人々だけの教会を建てようとはしない。この教会のうちにとどまろうとする。」(p37)
奇跡を信じない人がいたように、当時の教会も今と変わらず腐敗していたことが何だか嬉しい。人間の営みは変わらず、アウグスティヌスと私たちは同じ苦悩を経験している。トルストイはロシア正教会の腐敗に苛立ち、教会を徹底的に批判したが、アウグスティヌスは教会のうちにとどまった。私はトルストイ同様、教会に通う人々が戦争を肯定していることや、キリスト教徒が十字軍やアメリカ大陸征服などの大量殺戮を成し遂げてきたことが、大きな腐敗だと感じていた。自分の生活を棚上げにして、クリスチャンの堕落した生活信条を嘲笑していた。アウグスティヌスはこの教会の腐敗という問題をどう解決したか見てみよう。
「キリストはあやまちを悔い改める者にたいして徹底的に寛容であれと、教えたではないか。神の裁きの前においては、ただ一人の義人もなく、われわれはひとしく罪人であると教えたではないか。裁きは神にまかせ、愛と寛容とを身にまとえと教えたではないか。キリストのもとに一つの群れとなれと教えたではないか。(…)教会はきよい人々だけの集まりだけではない。それは善い麦とともに毒麦をもまじえている。しかし、だれそれは毒麦ですとか、自分は毒麦ではありませんとか、断言できる者は一人もいない。教会はそのうちに毒麦をまじえるから、それだけ不潔になり、聖性が減るわけではない。かえって互いに欠点をしのび、愛しあうことによって、聖性は増す。教会はそのうちに腐敗をふくむにもかかわらず聖なのではなくて、腐敗をふくむがゆえに聖なのである。腐敗そのものが聖なのではなくて、腐敗をうちにふくみながら、それにたえている教会全体のすがたが聖なのだ。教会を聖ならしめている者、それは、義人のためでなく罪人のために生命をすてたイエス・キリストである。」(pp36-37)
アウグスティヌスの心を代弁するかのような訳者の解説文からの引用だが、実に納得のいく言葉であった。キリスト教会では当たり前の考えなのかもしれないが、学術的、思想的動機からアウグスティヌスを手にする読者が多いだろう「世界の名著」に、このような考えを披露してくれた翻訳者の情熱、意志は学者として大変素晴らしいものだと思う。
教会をこのように肯定したアウグスティヌスの思想は、中世スコラ神学の大きな礎となったし、現代哲学にまで影響を与えている。訳者は俗世を捨てて、教会に隠とんしたアウグスティヌスのことを現代人は批判できないと論じる。当時の教会は現代に比べて大きな社会的影響力を持っていたし、学問の中心地でもあった。アウグスティヌスは知識世界の中心地で、時代を揺るがす論争をし続けたのである。現代において倫理を語ろうとすれば、最もアウグスティヌス的な活動の場はどこで与えられるかというと、教会でなく、大学でもなく、このインターネット上であるように感じられる。
以上が「世界の名著」解説文の書評である。「告白」本文については、十一巻の時間論だけを抜粋しよう。
十一巻の時間論は、ギリシア哲学的に精密極まりない論考となっている。キリスト教を肯定しても、ギリシア的な哲学議論を展開できるのが、教父の時代の特徴である。長く精密な時間論の最後にアウグスティヌスは、時間は精神の延長ではなく、分散だという。精神は他の人が言うように未来と過去に向けて延長しているのではなく、記憶の方向と期待の方向に分散しているのだというのが彼の考察結果である。時間軸上に分散している自己が、神のために、ただ現在一つに集中することが彼の望みであり、神の望みでもあった。
「私は過去のことを忘れ、来たりまた去りゆく未来のことに注意を分散させずに、まのあたり見るものにひたすら精神を集中し、分散ではなく緊張によって追求し、天上に召してくださる神の賞与をわがものとする日までつづけます。その日、私は賛美の声を聞き、来ることも去ることもないあなたのよろこびをながめることでしょう。」
「しかしいま、私の年々は、ためいきのうちに過ぎてゆきます。主よ、ただあなただけが私のなぐさめ、わが父、永遠です。それに反してこの私は、順序も知らない時間のうちに散らばっています。あなたの愛の火にきよめられ、とかされ、あなたのうちなるはらわたともいうべき私の思いは、さまざまの騒々しいことがらによって、ずたずたにひきさかれているのです。」(p434)
全ての人生は、労働はこのように集中しようという意志のもとに計画された時、すばらしい成果を人々にもたらすだろう。
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