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書評:フーコー『知の考古学』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2001年9月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)


知の考古学 知の考古学(新装版)
M・フーコー 中村雄一郎
河出書房新社 2006-02-21

by G-Tools


フランス現代思想の中心人物の一人、フーコーの主著の一つです。彼の他の作品に比べると、純理論的な語りが中心となっています。非常に難解なため、大学時代に私が作成したレジュメを以下に掲載しておきます。あくまで理解の参考としてください。
 
A, 『序論』

○かつての歴史分析は、線的な継起、連続性、起源の探索、主体の意識、全体化、合理性、目的論を取り扱っていた。対して、最近の歴史分析は、非連続性、切断、閾、限界、系、変換、レヴェルなどを扱う。かつての歴史分析は、あらゆる現象を唯一の中心にまとめる<包括的歴史>を粗描したが、最近の歴史分析は、一つにまとまりえない多様な現象の分散の空間である<一般史>を粗描する。

※フーコーの企て… フーコーは、歴史学の中の一要素にすぎなかった<考古学>という語に意味作用を与え、そのうちで言説の出現の規則、その累合と連鎖の諸形態、その変換の諸規則、それを断ちきる非連続性などを分析することを企てた。また、言説の人間学的隷属を断ち、その隷属の形成がなされる仕方を示すことを企てた。ただし、この著作は構造に関する議論は扱っていない。構造が批判してきた問題(発生、歴史、生成など)も扱うが、この著作は人間存在、意識、起源、主体などの諸問題(構造の議論はこれらを捨象する)が現われ、交錯し、絡み合う領野の分析に重点をおく。

 

B, 基本概念について簡略な説明

○ 言表…文や命題、言語行為ではない。また、主体から派生せず、物質的でもない独自の存在様態である。それは一つの構造ではない。本来記号に属する存在の一機能、すなわち一連の記号について具体的な統一性(文、命題、言語行為などの)がそこに現存するのを可能にする機能である。

○ 言説…記号の継起が言表である限りにおいて、その総体によって構成される。言説形成=編制の同一のシステムに属する言表の総体である。科学のように固定した堅固な統一体ではない。絶えず分散している総体である。

○ 言説の形成=編制…諸言表が首尾一貫した永続性や対象の同一性によるのでなく、様々に分散しながらもある規則にのっとって一つの言表の総体を作るとき、この規則性を<言説の形成=編制>と言う。

○ 実践…日本語の日常語としてある目的意識による能動的・主体的実践とは異なる(ex,実践英会話)。人々が意識せずとも日常において行ってしまっている語り方、身振り、、生活パタン、状況への応対の仕方などを指す。

○ 言説=実践…実際において語られてあること。言説は一部の専門家集団によって閉じられ特権化されている言述の世界、学問の世界にだけ関係しているのでなく、それぞれの時代の実際生活に関与している(ex家庭における狂気についての言説)。また、現前していない始源のテクストなどはない。全ての言説は語られて、ある。

○実定性…言表の一総体(=言説)の輪郭。合理的な統一・真理でなく、分散された言表の一応の統一性。

○ 知…ある言説=実践によって規則的な仕方で形成=編制された総体。ある科学の構成に不可欠な要素の総体。一つの科学を構成することもあれば構成しないこともある。科学の成立可能性の領野であり、真実の総和ではない。

○ 集蔵体…一つの時代の言表の編制と変容の一般的システム。言表が集まって一つとなり集蔵体をなしているのではない。言表の生産のシステム、出現可能性の規則が集蔵体である。言表と集蔵体どちらが先にあるのかということでもない。

○ エピステーメー…一つの時代の世界観、共通認識、基盤となる精神の構造ではない。ある与えられた時代において諸々の認識論的形象、科学、形式化されたシステムを生産する様々な言説=実践を統一している諸連関の総体。分解、ずれ、解体の可動的な諸連関の総体。

○ 主体…従来の歴史観では、人間主体とは社会の規制から自由であり、目的に向かい自己を実現していくものだった。そのような主体の意識的実践が寄り集まって歴史が変容していくとされていた。しかし、フーコーにおいては、主体は言説によって自分の位置、実践を規定されており、かつてもっていた能動的特権性は剥奪されている。さらに、主体の意識とは別個の場所にある言説の形成=編制の規則が様々な差異を含みながら歴史を形作っているとされた。



C, 全体の簡明な理解のために…『結論』の読解

フーコーと、フーコーによって想定されたステレオタイプとしての構造主義者との対話によって、この本全体の主旨および、(I)従来の歴史学、(II)構造主義、(III)フーコーの言説=実践論、以上3者の微妙な違いが明確化される。(I)と(II)と(III)が具体的にどう違うのかは曖昧にしか書かれていないので、以下において整理する。3つの理論はそれぞれ異なった仕方で3つの領域(目的意識による主体的な実践の領域、 構造の領域、実践の領域)に関わっている。

(I)従来の歴史学…従来の歴史学は、日常において営まれる実践の領域を怠惰、意味のないものと考え、人間主体が惰性態である実践の領域から意識的・主体的な実践の領域に移ることによって歴史が発展し進歩してきたと考える。  

(II)構造主義…構造主義は(I)のような進歩史観は誤謬だとし、主体的実践の領域は考察の対象としない。かわりに、レヴィ=ストロースのように人間精神に普遍的な精神の構造によって社会は規定されていると考える。Aも実践の領域は考察の対象としない。人間の実生活は全て捨象してしまい、無意識、構造といった実体のない構成概念を使って現象を説明しようとする。

(III)フーコーの言説=実践論…フーコーは(II)構造主義から、(I)の進歩史観を否定する考え方、およびシステムの中に偏在する要素を要素そのものでなく、他の要素との関係で捉える考え方を受け継いだ。しかし、フーコーの考察の対象は今までの学問において無視されてきた日常的な実践の領域であり、(I)のように無意識や構造モデルといった実際にはない概念を使って現象を説明する方法は拒否している。さらに構造主義の問題点として二点あげられる。第一に、構造主義者は理性的な主体の働きを否定し、構造の働きを重視しているかのようだが、分析する自分の位置は相変わらず実践から超越した、真理を定める特権的な主体の位置である。第二に、構造主義者は意識的主体による歴史の発展は否定したが、社会は構造によって作られていくと考えることは、歴史の発展という考え方から脱却しきれていないと考えられる。

○フーコーは実際に語られてある言説の編制のシステムを分析する方法を「知の考古学」として理論化した。システムといっても、実践を捨象した構造主義の二項対立による変換のシステムのように美しいものではなく、言説の錯綜したばらばらな動きのシステムである。歴史は分散し散乱したものの堆積として記述される。理性は発展するものではなく、知のあり方の違いとして、各時代の差異として理解される。主体から特権性は奪われ、彼の意識外の言説により主体は規定されている。

◎最後に、仮想の構造主義者からフーコーは「あなたは特権的な主体はない、言説によって主体の位置は決定されていると言っているが、分析するあなたの位置は特権的ではないのか。また、人間に自由はないというのか」と批判される。その批判に対してフーコーは、(1)自分も言説=実践の領域にいるし、何ら真理をうちたてようとしたわけではない。この分析は幾つかある考古学の可能性のうちの一つにすぎない(2)言説は個々人の思考を機械的に完全に統制しているわけではないし、個々人の内部に埋め込まれているのでもない。言説とは、主体の自発的な動き=実践が行われるための、その実践がどのように新たな言表をうみ出すかの、そして言表がどう変容されるかの諸条件を構成するものである、と反論している(このあたりは相当苦しい弁解と思われる)。  

 

D, 本論のレジュメ

『言説の規則性』

(この章は、諸事情によりカットします。実際この章は最初から順に読んでいっても、ある程度の知識がないとほとんど理解不能です。最初から難しい概念を何の説明もなしに難しい言葉で書き連ねてあるので、理解にてまどるが、読み進むうちにだんだん本の内容が分かっていくというのが、この書物の特徴です。

『言表と集蔵体』

1 言表を定義づける…○言説という語の意味の多様化(言表の一般的領域、諸言表の個別化しうる群、規整された実践など)。 ○文や命題は論理的観点や言語学的規則によるものである。言語行為とは物質的行為や主体の意図によるものではない。 ○言表の独自な存在様態とは、対象の一領域と関係づけること、全ての可能な主体に対して規定された一つの位置を決めること、他の言語運用のうちに位置づけられること、反復可能な物質性が与えられること、を可能にする様態である。

2 言表の機能…(I)記号が言表であるためには、それが「他の物」そのものにかかわる特殊な一つの関係をもつことである。言表とそれが言表するものとの間の関係は、一つの「間説性」に結びついている。(諸個人、諸対象、事物の状態、言表それ自身によって働きはじめる諸連関などの、場所、条件、現出領野、差異化の審級、を形作るもの。)これは言表と差異化の空間との間の、諸関係の分析による。 (II)言表の主体とは、その作者ではなく、確定された、空の一つの場所である。(それは諸個人によって充たされる。)これは可変的なものである。 B言表は常に他の諸言表を想定する。言表は自己の周囲に共存の領野、系や継起の諸結果、諸機能や役割の配分、などを持つ。 (III)言表は、<反復可能な物質性>を持つ。(制度の秩序に関わり、書き換えや転写の可能性を規定する。)

3 言表の記述 …○言表とは統一体ではなく、機能である。言表は文や命題といった統一体に「意味」を与える代わりに、それらを対象の領野と関係づけ、それらを主体に授ける代わりに、それらに対して主体の可能的な位置をひらく。つまり、言表は記号の総体に固有な存在態様を特徴づける。ゆえに、言表を記述するとは、一連の総体に特殊的存在を与えるという機能が行使された諸条件を明確化することである。 ○言表は隠されてはいない。抑圧されてはいない。反対に、隠れた意味作用、抑圧などのひそかな現存が機能する仕方、復元される仕方は言表の態様によって規定されているのである。また、だからといって言表は可視的なわけではない。言表は特徴の明確な運搬者として知覚に現われてはこない。なぜなら、言表は存在そのものを可能にするものであるし、常に他の事物の出現の場所となっているからだ。  

4 稀薄性、外在性、累合 …(I) (×全体性の探求)稀薄性…言説は過剰ではない。一つのテキストから無限に増殖していくものではない。言表は稀薄なものである。空白、不在、限界、切断などの配分である。かといってこれらの排除を抑圧や圧迫に結びつけてはならない。隠されたテキストはない。全ては語られてある。
(II)(×超越論的基礎)外在性…言表は内面に翻って豊かな意味を探れるものではない。言表に内在はなく、表面しかない。言表の束から始源の統一に立ち戻ることもできない。非連続に、分散してあるものが言表である。
(III) (×起源の探索)累合…言表は様々な物質的技術や図書館などの制度に応じて、保存され積み重なって残存している。積み重なりながら言表間の連関は様々に変換されていく。起源には戻れえない。絶えず変容されながら、ばらばらに分断されながら言表は総体を形作る。

(I)(II)(III)の分析を行うなら、言表の総体を形作る実定性を確立できる。実定性は合理的で一つの基礎から成り立つ総体ではなく、かように分散している言説の統一体である。

○集蔵体(アルシーヴ)…言表の異質的な区域が互いに区別され、相互に重なり合いえない実践が、特殊的な諸規則にしたがって展開する、複雑な一かたまりのシステム。すべてのテキストの総和ではない。言表の可能性や不可能性の、実践の諸規則の、変換可能なシステム。一つの社会、文化、文明の集蔵体は記述し尽くせないし、現代の集蔵体の記述は不可能(自分も規定されているから)。集蔵体の記述は必然的に過去に向かい、我々自身の診断としての価値をもつ。集蔵体は、我々の理性が言説の差異であり、我々の歴史が時間の差異であることを教えてくれる。

『考古学的記述』

○考古学は諸観念の歴史のように、言説中に隠された思考、表象、イメージ、主題などは探らない。連続性を見出そうとしない。科学の堅固さを確かめようとしない。統一性の原理を探ろうとしない。未来の言説を準備する曖昧かつ大雑把な手がかりを見つけようとしない。時間を通して反復してくる創始的なもの、同一な言説を想定しない。 ○考古学が求めるのはただ、諸言表の規則性をうちたてることである。言説の首尾一貫性を求めようともしない。考古学的分析にとって矛盾は克服すべき仮象でもなければ、解き放つべき秘密の原理でもない。矛盾は記述すべき対象である。考古学は確定された言説=実践の中で、矛盾するものの対立が構成される点を見定める。 ○考古学は変化(相継ぐ数多くの永続性の持続、次々と姿を消す固定した様々なイメージの働き)は記述しない。変換(継起的な出来事の連鎖に対して与えられる分節化の原理・規則)を記述する。

◎知について

○今までの歴史学は意識―知識―科学という枢軸を巡ってきた(I)考える創造者たる主体の意識から、(II)学問として明確に定義できる合理的な固体としての知識が生まれ(III)各知識が寄り集まって堅固な科学という領域が確実に確立される。科学の示す領域にあわないものは非合理なものとして排除される。

●対して、考古学は言説=実践―知―科学という枢軸をめぐる(I)主体の意識によらない言説の編制の規則の中から(II)科学を構成するかもしれない知という、人々がある言説にそって語りうる総体、主体のまなざしを規定する空間、言表の配列の領野が成り立つ。すなわち知とは知識のような固体の総体ではなく、ある言説=実践と他の言説=実践の分節点である(III)知からもしかたしたら科学が構成されるかもしれない)。

◎考古学は科学ではなく、知の領域を記述しようとつとめる。様々な実定性の領域が出現可能となったのは、諸科学、それらの歴史、それらの奇異な統一性、それらの分散および切断などを問うことによってである。言説編制の働きを捉えうるのは、科学的言説の間隙によってである。(ここから『結論』に戻る)

 

E,論点

「知の考古学」では、徹底して主体から言説・歴史が形成されるという考えが退けられている。主体は言説によって位置が規定されるものであり、言説を創り出す能力は剥奪されている。言説はそれ自身の編制のシステムによって形成されるものなのだ。しかし、言説の編制は人間社会から離れたどこか別の場所で行われるものではなく、言説=実践の中でのみ編制のシステムは可動しているとされる。その実践を行っているのはまぎれもなく主体だが、それでも人間のもつ創造作用は宙吊りにされたままだ。

このように主体の位置づけについては「知の考古学」はいささか曖昧だと言えるだろう(ただし、社会制度、組織、権力、規範などの非言説の領域と言説との関連の分析が示唆されており、これ以降の著作では、言説編制のあり方のみで問題をたてるのではなく、新たに3つの問題領域、すなわち(I)知と権力の絡み合いからどのように真理が構成されてくるのかという問題(II)今まで西洋思想史で見過ごされていた身体をめぐる問題(III)全体的・個別的な規範・道徳から自己はどのように逃れられるかという問題へと、フーコーの関心は移行していく) 。


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