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(以下の書評は2005年に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)
道徳形而上学原論 | |
Immanuel Kant 篠田英雄訳 岩波文庫 1976-01 Amazonで詳しく見るby G-Tools |
原著出版は1785年、フランス革命の4年前である。カントにとって、行為が善きことか悪しきことかは、行為の結果ではなく動因から判定される。虚栄心、利己心から生じない、常識的には奨励される博愛行為でも、もしそれが「親切をなすことで他人の喜ぶ顔が見たい、自らも満足したい」という動機から生じていれば、道徳的価値を持たない。
自然的愛着、個人でばらばらの傾向から生じる行為は道徳的価値を有さない。道徳的行為は、傾向によらず、義務に基づいてなされなければならないのだ。楽しくなくとも、自ら不幸でも、義務として行なう行為にこそ、道徳的価値がある。
『前記の博愛家の心情が、自分自身の悲傷のために曇らされ、もはや他人の運命に同情する気持をすっかり失ってしまった。彼は依然として、苦しみに悩む人達に親切を尽くす力をもってはいるものの、しかし他人の苦しみはもう彼の心を動かさない、彼は自分自身の苦労にかかずらうだけで精いっぱいだからである。ところで彼が、かくべつ傾向性に刺戟されたわけでもないのに、自分でこういう甚だしい無感動状態から抜け出で、およそ傾向性にかかわりなく、ひたすら義務にもとづいて行動するならば、そのときこそ彼の行為は、正真正銘の道徳的価値をもつことになるのである。』(p33)
好み、傾向からではなく、計算高さからでもなく、他と一切関係なき法則から行われる行為のみが道徳的行為となる。道徳的行為を行うのが好きだから、楽しいから行っても、それは道徳的行為とならないし、道徳的行為を成した結果社会が幸福になっても、それは道徳的行為ではない。行為の道徳的価値は、行為の結果からも、原因からも判断されず、行為が上記の法則を表象しているかどうかにかかっている。
『ところで実践的善とは、理性の表象を介して意志を規定するもの、従ってまた主観的原因によってではなく、客観的にーーと言うのは、およそ理性的存在者でありさえすればいかなる存在者にも必ず妥当するような根拠にもとづいて、ーー意志を規定するものである。実践的善は、快適とは異なる、快適はまったく主観的な原因にもとづき、感覚を介してのみ意志に影響を及ぼすものである。しかしかかる主観的原因は、人ごとに異なる感覚だけに妥当するのであるから、すべての人に例外なく妥当する理性の原理のようなものではない。』(pp66-67)
全ての人に例外なく妥当する客観的法則など、ポスト構造主義以後ありえないことが証明されたが、それでも、個人の幸福や快適さを求めず、万人に妥当するだろう行いをなすよう勧めるカントの厳格な道徳哲学は、現代でも読むに値する。カント自身、実践理性は自然に存在しないが、客観的法則があった方がいいのだから、さも自然にあるかのように、道徳法則を創り、従う方がよいとする。
人間を手段としてではなく、目的として扱うこと。この言葉はわかりにくいが、以下の言葉によって解説される。
『第二に、他人に対する必然的な、或いは責任ある義務について言えば、他人に偽りの約束をしようともくろんでいる人は、他人を単に手段として利用しようとしているだけであること、そして他人はその場合に決して目的そのものでないということを、直ちに知るであろう。私が、このような偽りの約束を私の目的に利用しようとする当の相手は、私のこういう仕打ちに同意する筈がないし、従ってまた自分からかかる行為[偽りの約束をするという]の目的となるようなことはできるわけがないからである。他人の原理[人間性の]とのこのような矛盾撞着は、他人の自由や所有権に加えられる侵害を例に引けば、もっと明白になる。人間の権利を侵害する人が、他人の人格を単に手段としてのみ利用しようとたくらみ、これらの人を理性的存在者として、いついかなる時にも目的と見なさるべきであるということーー換言すれば、彼のする行為とまったく同じ行為の目的を、この人達もまたもち得ねばならないような存在者と見なすべきであるということを、考慮に入れていないことは明白だからである。』(pp104-105)
カントの厳格な言葉に何もつけくわえまい。
市場に対する芸術、哲学の優位を説く文章はたたあるが、カントの言葉ほど崇高な気分を味あわせてくれるものはない。
『目的の国では、いっさいのものは価格をもつか、さもなければ尊厳をもつか、二つのうちのいずれかである。価格をもつものは、何かほかの等価物で置き換えられ得るが、これに反しあらゆる価格を超えているもの、すなわち価のないもの、従ってまた等価物を絶対に許さないものは尊厳を具有する。
傾向と欲望とは人間に通有であるが、これらに関係するところのものは市場価格をもつ、また欲望を前提しないで、或る種の趣味に適うもの、ーー換言すれば、我々の心情の諸力によるまったく無目的な遊びにおいて生じる適意は、感情価をもつ。しかし或るものが目的自体であり得るための唯一の条件をなすものは、単なる相対的価値すなわち価格をもつものではなくて、内的価値すなわち尊敬を具えているのである。』(p116)
これはものすごい知の特権化だし、人間の生命は何ものにも変え難い価値を有するというヒューマニズムの宣言でもある。知、芸術、哲学の特権化、ヒューマニズムが引き起こす諸問題が検討されつくした二十一世紀において、この極限的思想は危険でさえあるのだが、消費社会全てを肯定していいはずもなく、ある程度留保つきで、カントの言葉を胸に抱きしめてもよかろう。
傾向、欲望によらないで、厳格な法則に従う人間は非常に息苦しそうだが、自分では他なるものに人生をコントロールされるより、自分で自分の立法者になること、セルフコントロールこそ、カントが道徳法則を推奨する由縁である。
『なるほどこの人格が、道徳的法則に屈従しているというだけなら、彼になんら崇高な点を認めがたいが、しかし彼はほかならぬその道徳的法則に関して同時に立法する者であり、それ故にこそ件の法則に随順しているのであるというところに、崇高を認めることができる。(…)また人間性の尊厳は、我々が普遍的に立法するという、まさにこの能力において成立するのである。尤もその場合に我々は、自分自身に課した当の立法に、同時にみずから服従するという制約に従わねばならないのである。』(p128)
他人や他人が創ったものに支配されるのではなく、自分で自分の立法者となること。この言明は一見主体を肯定した形而上学に思われ、自己とは全く異なる他なるものを支配することなく歓待しようというデリダの言明に対して、人間主体の自由を歌っている点でヨーロッパ中心主義的、保守的に思われる。しかし、カントの言う主体のセルフコントロールは、自分勝手な個人的生の賞揚となっていない。誰にも妥当するだろう法則を己に課すことで、そうするのが素晴らしいと思うから常に道徳法則に従うことで、西洋以外の人間、生命にも迷惑にならないセルフコントロールが確立されるのである。
カントの思考は、ヨーロッパの創った社会システムに支配されるのでなく、旧植民地側が、己で己の立法者になることをも促す。今あるヨーロッパ/アメリカ中心の社会システムが地球全体にとって普遍的に妥当するものでないなら、より善いシステムを目指して、議論する場が要請される。
カントにとって自由とは、他人の迷惑を考えず、自分勝手に何でもできるということではなく、他の原因によらず、ひとりでに、己のみで成り立つことをさす。
『自由とは、或る状態をみずから始める能力のことである、従って自由の原因性は、自然法則によって時間的に規定する別の原因にもはや支配されることがない、そのような意味で、自由は純粋な先験的経験である。』(「純粋理性批判」・五六一の引用の引用)
よって他人がいいと言うからという理由で、道徳法則を義務として己に課すことは自由ではなく、束縛となる。他人がどう言おうと関係なく、道徳法則を義務として常に実践することが素晴らしいから、道徳法則が尊敬できるからそれを義務として実践することは、自由の実践となる。
かようにして、カントの道徳哲学は、現代にも要請されうる。
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