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書評:ルター『キリスト者の自由』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年10月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

世界の名著18 ルター
中央公論新社 1969-10

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松田智雄責任編集、「世界の名著 ルター」所収。中央公論社、昭和44年発行。原著は1520年に著された。

ルターはカルヴァンと並ぶ宗教改革の思想家。日本ではウェーバーの影響から、予定説を説いたカルヴァンの方が有名だが、ルターもカルヴァンも、どこの書店に行ってもおいていない。プロテスタントの信仰、西洋史を理解する上で欠かせない二人の著書の入手が困難だということは、耐え難い思想的貧困状況のあらわれである。本当はカルヴァンの著書を読みたかったが、近所の公共図書館で見つからなかったので、ルターを借りた。そんな扱いをされるルターも可哀想なものである。

「キリスト者の自由」は、冒頭でまず自由について語っている。

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」(p52)

この二律背反を前にルターは、パウロの言葉を引用する。第一コリント書9章19節「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、みずから進んで人の奴隷になった」。人は自由であるが、愛する者、あるいは愛する神に奉仕することを選択した結果、絶対的自由を捨てて奉仕の僕となると、私は解釈した。選択する自由は、選択の行使により、奉仕となるのである。

ルターは、人を霊と肉にわけて自由についての考察を進める。霊の面からすれば人は新しい、内なる存在となる。霊的に人はかぎりなく自由である。肉の面からすれば人は、身体に属する、古い、外なる存在となる。この古い人はかぎりなく外の世界に拘束される。人の中にある霊と肉を区別するため、聖書では自由と奉仕について相反したことが言われているのだとルターは述べる。霊的な、内面に関わることのみ、人を自由に、義にするという仮説は、外面的な行為すべてを否定する。肯定的なものも、否定的なものも、外面行為は全否定される。

「身体が束縛されず、活発健康であり、思いどおりに飲み食いし、生活しても、それはたましいに何の益があろうか。反対に身体が、欲するわけではないのに、束縛され病み疲れ、飢え渇き悩んだとしても、たましいにとって何の害となろうか。これらのものは何一つ、たましいにまで及んで、これを自由にしたり捕えたり、あるいはこれを義としたり、または悪くするわけにはゆかないのである。」(p53)

ルターは外面的な善行を積んでも、内に信仰がなければ何の益にもならないという。逆に、信仰があれば、何の行ないもなくとも、富と幸福が満ちあふれるのである。霊的な富と幸福は福音書、聖書を読むことでもたらされるというのがルターの意見である。

人を善とするのに、心の中で育まれる信仰だけで十分とするなら、のんびりと、何もしなくてもいいのかというとそうではない。人の半分は肉を持っているからである。肉あるかぎり、人は身体を清浄に保ち、他者と交わらねばならない。よって人は生きているかぎり、訓練と労働のつとめを負うのである。

半身が霊であり、半身が肉であるというのが、人は自由でかつ奉仕の存在であるという矛盾の理由なのである。

ここで最初に提出された問題は解決されたのだが、ルターは行ないについて補足を述べていく。絶えざる自己訓練が、霊的な義を求める人のつとめとなるのだが、信仰なしで、善行だけで救われようとする人は、立派なことを果たしたら、それで自己訓練をやめてしまう。すなわち、批判される善行とは、人々の賞賛を受けることを目的とし、また賞賛を受けたらその場で放棄される善行なのである。

ルターの言葉を現代風俗に当てはめてみよう。近頃セミリタイアという言葉がはやったが、セミリタイア後に、金儲けを目的としないボランティアなり本の執筆なりをして、善行を積むなら、それは崇高となるだろうが、遊びほろけていては、労働義務の放棄にすぎないだろう。

行ないは人を善にも悪にもしない。絶えざる信仰心があるかどうかが、救いに関わるというのがルターの主張である。

ここまでは、個人的な行ないの問題であったが、ルターはさらに他者に波及する対他的な行ないについて考察をすすめる。

「人間はこの地上では、自分の身体だけで生きているのではなく、ほかの人々の間で生活している。それゆえ、人はほかの人々に対して行ないなしにいることはできない。これらの行ないのどれも、義とされ救われるために必要ではないが、たえずほかの人々と話したり、つきあいをすることは免れない。そこで、彼の考えはあらゆる行ないにおいて自由でなければならず、ただ行ないをもってほかの人々に仕えて役に立つように、ほかの人々に必要なことのほかは何も念頭に置かないように、注意すべきである。」(p72)

こうしたエゴを排した行いによって、他者、自己双方に信仰と愛が深まっていくとルターは述べる。あらゆる行ないは、パウロも書いているように、隣人のためにあるのだ。

「どうかこれよりのち、心を一つにして、たがいに愛をあらわし、たがいに仕え、またおのおの、自分をも自分のことをも顧みず、ほかの人々と彼らに必要なものとを顧みることによって、わたしの心をまったく喜ばせてほしい」(ピリピ二章)

行ないは報いを求めてなされるものではない。真の報いは心の信仰によってのみもたらされるものだ。移ろいやすい人の心を行ないで動かして、報いを求めようとするかぎり、心の安寧は得られない。自分の喜びのためになされるものでない、隣人を助けるためになされる行ないによって、生活に愛が訪れることになる。愛は、信仰を伴っているときのみ、真実の愛になるとルターはいう。

何故隣人を助ける必要があるのか個人的に考えてみた。隣人は誰かにせめ悩まされているとき、私の助けを必要とする。隣人をせめる人には罪がある。私は隣人を悩ませる人の罪を背負うため、隣人を助け、愛するのだと考えれば、愛は嫉妬や独占欲を生まないことだろう。

以上がルター「キリスト者の自由」の解説である。キリスト教の信仰がない人でも読んで積極的な意義が見いだせるよう解説してみた。ルターはキリスト教の信仰がなければ救われないと書いているが、これは当時の教会が腐敗しきっていたからで、宗教対立が紛争の原因となっていることが明白な現在は、信仰という言葉を、キリスト教の信仰にかぎらないものと考えたい。ルターが言及しているような、善なるものの尊さを信じる心があれば、世界は救われると私は考えたい。

しかし、そもそもキリスト教は敵を許す宗教だから、キリスト教徒が戦争をするのはおかしい。ルターも戦争をおこして人を殺すプロテスタントの農民を暴徒と呼んで批判する文章を書き残している。

また、ルターは聖職者にのみ信仰が宿っているわけではないことを書き続けたが、かといって商業を全面擁護しているわけでもない。ルターは、商業は対他的な社会生活を営む上で必要なことで、商業そのものが悪ではないと「商業と高利」に書いている。隣人からだましとったり、とりすぎたりするのはいけないが、働いた分公正に賃金をもらうことは必要だと書いている。どれくらいの報酬が自分の仕事に値するか見積もるには、自分の労働の時間と長さを、何か別の仕事をしている他者と比べるとよいそうだ。自分と同じほど仕事をしている他者がどれだけ稼いでいるかを見て、稼ぎを見積もればいいわけだから、たくさん働けば多くの報酬を得るべきとなる。

この、カトリックと違い、プロテスタントにみられる労働価値評価説が資本主義の原動力となった。私は大学の卒論を書き終わったとき、こんなに全力を注いで書いたのに報酬がもらえないのは理不尽だ、社会人になって正解だったと思った。しかし、実際に働き始めると、仕事の苦労に対して報酬が足りない気がした。力を抜いても報酬は毎月同じだった。それは時間に対して報酬が支払われているせいで、人生の多くの貴重な時間を金儲けのために使っていると今にして感じられる。卒論を書き上げたときのような集中力で自分独自の仕事に人生を捧げれば、有意義な人生と報酬を得られる気がした。もちろんその仕事は成功と評価を得たからといって終わらないのである。善への意志、確信に基づいてなされ続ける仕事だから。

命あるかぎり、人は自由に隣人を助け、隣人を傷つけた他者の罪を償う仕事を続けることができる。これは実に幸せな恵みだ。隣人を助ける仕事こそ、人生の恵みである。


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