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(以下の書評は2001年9月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)
主体の後に誰が来るのか? ジャン=リュック・ナンシー編 関連作品 声と現象 マルチチュード 下〜〈帝国〉時代の戦争と民主主義 マルチチュード 上〜〈帝国〉時代の戦争と民主主義 触覚、ージャン=リュック・ナンシーに触れる バートルビー 偶然性について by G-Tools |
ジャン=リュック・ナンシー『主体の後に誰がくるのか?』『コルプス(共同=体)』
「主体の後に誰がくるのか?」という本は、ナンシーの発した表題の問いに対するフランスの思想家達の回答を収めたものである。最初に提起という形でナンシーが質問の意図と自分なりの答えを書いているので以下に要約する。
『「主体」はフランスのポストモダン思想において徹底的に批判された。その批判が一段落した現在、道徳や理性の復権を掲げる人間主義的な思想が勃興している。しかし、ヒューマニズムへの回帰は哲学の忘却に属するとナンシーは批判する。なぜ西洋的な主体・人間主義がポストモダンにより批判されたかといえば、フーコーが暴いたように、普遍的な理想とされるべき人間性を掲げることは、正常な(と想定された)人間の範疇に当てはまらない人々を抑圧し、疎外し、弾劾する事態を生むからであった。人間の類的な同胞性を人種差別に対置している限り、差別はなくならないからであった。だが、主体の単なる無化は、主体の形而上学の完成形態である(自らを、それ自身の差異の解消として、ないしは、自己のイロニーとして認める自己−現前である)。だからといって主体の無化というこのニヒリズムに対して「主体への回帰」を試みるのは誤りである。我々は主体の場所に主体の代わりに到来するものを示さなければならない。すなわち、「主体の後に誰が来るのか?」を。
ここで哲学的主体の主要な定義を振り返る。哲学的主体とはヘーゲルのそれ「自己のうちに己の矛盾をとどめておくことのできるもの」である。矛盾が自己固有のものであること、そして主体性は自己の外に在ること(外在性や疎遠さ、他者)を目的論的かつ絶対的に再−我有化する。そのためには、全ての弁証法の始まりにおいて、主体が絶対的に存在しなくてはならない。「われ、在り」実在=実存とは、主体があらゆる述定に先立って存在する限りで、主体の本質である。
しかし、実存は本質(決定されたもの、分解不能な究極的要素)ではない。いま、ここに現実的に、経験的に実存することであるような「実存者」なのだ。つまり、人間の本質=主体とは、今までの哲学が考えてきたように絶対的に固定した本質ではなく、その場その時に彼が対面するものとの関係においてしか本質をもちえないような流動的なものなのである。よって、自己の一貫性というアイデンティティーの神話は音を立てて崩れ去る。決定的に重要になるのは、自己ではなく、自己を形作ることになる「他者」であるとナンシーは考える。自己があったと思っていた場所には、本当は何の固定物もない。何ものもない「そこの」所では、何らかの「一」が到来する。一は実体的統一ではない。自己への到来の中で一かつ唯一でありうるが、「それ」自体においては多数で反復されるものである。現前とは、自己に無際限に到来し、到着するのをやめないもの、決して自分自身の主体ではない「主体」だ。この新しい考え方に対し、旧来の形而上学は自己に到来するまったき他者を常に自己の内部に弁証法的に取り込み、支配しようとしてきた。これは自己が全てに先立って存在するという誤解のためである。自己は他者との空間の中で作られるものなのに』
ナンシー著の『コルプス(共同=体)』という本で、このネットワーク的主体観が共同体として深められている。旧来の形而上学は他者の現前を拒んで自己完結、自己充足しようとしてきた。自己の現前に次ぐ現前=再現前で自己を固形化しようと企てたのである。それに対しナンシーは、自己=脱自存在は一つの塊であるが、分節化され外に向かって開かれた、閉じることのない身体だと考える。その部分の要約を以下に記す。
『そのつど、特異な、自己にとって異質な一到来の自由に従って私は在る。自由とは実存者の性質でも、その働きでもない。それは実存する現前への自由の到来なのである。現前はそのつど共同においてある。現前への到来は複数なのである。
共同体といっても、その共同体に本質はない、共同存在はない。いかなる主体もないからだ。かといって、未分化の、母なる海の中のような混沌ではない。個々に分節化された存在のネットワークの、交通としての共同体。複数の到来は単数の、決して主体に回収されない特異な一の到来である。主体なき共同体において、複数的なるものと単数的なるものが、お互いに解放と分有(分割=共有)を繰り返す』
これがナンシーの提唱する新しい主体=脱自存在の概念である。
『身体は絶えず外部に刻印されながら開かれて在るのだ。それは絶えず皮膚の限界上で拡散、収縮し延長される。私の身体は私にとって常に異質なもの、所有権を奪われたものとしてある。いかなる本質も持たないことが脱自性の本質である。内在性もない。超越的主観もない。外部も内部も機能も合目的性もない。あるのは〈他者としての〉身体だけ。隔たりだけ。身体は、空間と行為の中で、恋人たちのように、同様にして脱自存在する身体と互いに触れ合い、自分たちの空洞化を無限に更新し、相互に隔てあい、互いに送り返し合う。
では、なぜ私達はお互いに触れようとするのか? 法則としての性、「触れよ」「口づけせよ」との至上命令は、種の衝動でも、リビドーでも説明−計算不可能なものだ。なぜなら、この至上命令が狙いを定めるのはいかなる対象でもなく、自己でも子供でもない、それは単に自己に触れるということの歓喜/苦痛である(自己へ回帰することなく自己になること)。自己においてあなたを触ること、これこそ身体が常により遠くへと強制する思考である』
マジカルジャーゴン炸裂という感があるが、この共同体は同一性へと回収しないから全体主義の土壌とはならないのだろう。しかし、テロリズム的かもしれない。自己放棄の後に、どこに歓喜を見出すか。触りごこちの良さを求めたいのなら、破壊行為には向かわない。触感性の文学へと続く。他人に触れることの気持ちよさ。他人の皮膚の中に身を浸すことの解放感。皮膚しかないのだ身体には。
共同-体(コルプス) Jean-Luc Nancy 大西雅一郎訳 1996-02 by G-Tools |
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