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書評:オルテガ『大衆の反逆』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年1月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

大衆の反逆
大衆の反逆 オルテガ

中央公論新社 2002-02


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引用文は、中央公論社世界の名著『マンハイム オルテガ』よりオルテガ『大衆の反逆』寺田和夫訳を使用しました。

原著の出版は1930年。激動のスペイン。ヨーロッパ文明の没落。アメリカ消費社会の台頭。
『大衆とは、みずからを、特別な理由によってーーよいとも悪いともーー評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。』(p390)
 私は、人とは違うように生きたいと願った。しかし、多くの隣人たちは、普通に生きる幸せを求めていると口にし、私は周囲から疎外されているような感情を覚えた。だが、これは私の甘えだった。大衆に埋没しないため、変態ぶったり、奇人ぶったりすることは間違いだったのだ。私には厳しさと勇気がなかった。
『ところで、人間についての、もっとも根本的な分類は、次のように二種の人間に分けることとである。一つは、自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負いこむ人であり、他は、自分になんら特別な要求をしない人である。後者にとって、生きるとは、いかなる瞬間も、あるがままの存在を続けることであって、自身を完成しようという努力をしない。いわば波に漂う浮草である。』(p391)
 自分に対し厳しい要求をつきつけ、困難と義務を背負いこむこと、これこそ文学に向かう私の姿である、もう甘えや自己憐憫は許さない。「あるがままのあなたでいいんだよ」なとど、スピリチュアルなカウンセラーは言うだろうが、それこそ大衆的欲望の心理であるとオルテガは看破するだろう。私はもう金輪際あるがままの存在を賞賛しないようにしよう。
 オルテガは19世紀の自由思想に基づく社会改革の進展により、20世紀の人間は、安定した生活、自己保存の保障を得ており、徹底的に甘やかされた状態にあると言う。かつての人間をとりまいていた外部からの制限、拒否、反対物が極度に減少したため、彼らは欲望を際限なく増大させる。
『過去においては、平均人にとって、生きるとは、周囲に困難、危険、欠乏、運命の制限、隷属を見いだすことを意味したのに、新しい世界は、実際上無限の可能性をもち、安全で、だれにも隷属しないですむ環境のように見える。』(p428)
『伝統的な印象が、「生きるとは、制限されていると感ずることであり、それゆえに、われわれを制限するものを考慮に入れねばならぬということだ」といったとすれば、もっとも新しい声は、「生きるとは、なんらの制限にぶつからないことだ。だから、平気で自分自身に甘えることだ。実際上、不可能なもの、危険なものはなにもない。それに、原則として人間のあいだに優劣関係はないのだ」と叫ぶ。」(p429)
人間の平等、権威からの自由を歌う自由民主主義のもとにいる私たちにとって、オルテガの言葉は大時代的・保守反動に聞こえるが、しばし判断を保留して、オルテガの言葉に耳を傾けて欲しい。たとえオルテガの言葉が右翼的に聞こえるとしても、当時はいくらか革新的だったのである。ファシズムと消費社会に対する批判声明として、オルテガの言葉に耳を傾けよう。
 オルテガは、かつての平均人が、階級を超え出て別の地位を目指す時、そこには幸運や超人的な努力があったと指摘する。
『もしも、自己の境遇を改善することができたり、社会的に出世したならば、運命がかれにとりわけ幸いしたのだとして、その幸運を偶然に帰した。そうでなければ、異常な努力のたまものだと考えたが、そのためにどれほど犠牲を払ったか、自分でもよくわかっていたのである。どちらの場合も、生と世界の正常なあり方にとって、一つの例外であった。例外という以上、なにか超特別な原因に基づいていたのである。』(pp429-430)
 それに比べて、現代の大衆は、自己から別の何ものかになろうとしないし、なる必要性を感じていないとオルテガは言う。彼らはすでにして自由だからだ。
『しかし、新しい大衆は生の完全な自由を、なんら特別な原因によるのではなく、確立された、生得の状態だと見ている。外からかれらをいざなって、制限のあることを認めさせるもの、したがっていつでも他の権威、とくに上位の権威を考慮に入れるようにさせるものは一つもない。(…)いま分析している人間は、自分以外のいかなる権威にもみずから訴える、という習慣をもっていない。ありのままで満足しているのだ。べつにうぬぼれているわけでもなく、天真爛漫に、この世でもっとも当然のこととして、自分のうちにあるもの、つまり、意見、欲望、好み、趣味などを肯定し、よいとみなす傾向をもっているのだろう。どうしてそうでないわけがあろうか。』(p430)
 1930年に書かれた文章なのだから、しばしオルテガの言葉に耳を傾けてほしい。オルテガの言う、自己の外にある権威とは、野蛮な暴力的政体ではなく、自分自身を修養し高めることを要請するハイデガー的「存在の呼びかけ」、尊敬する存在を外に見出し、自己を高めようと努力する決意を促すものだと解釈したい。
 フェミニスト、グローバリゼーション反対者、戦争に抗議する者は、大衆的人間ではない。そうではなく、今のままで十分楽しいし、自分の意見や趣味を愛し、自分と社会に自信を持っているもの、すなわちフロベール的俗物が、大衆なのである。
 大衆的人間は、今ある科学技術による文明が、歴史的に、科学の探求によって創られた人工物だとは思わず、自然の所与として受けとる。
『かれらが麻酔薬や自動車、そのほかいくつかのものに興味をもっていることはたしかである。しかし、このことは、むしろ文明にたいする根本的な無関心を裏書きしている。というのは、それらのものは、たんなる文明の産物であるにすぎず、かれらがこれに夢中になればなるほど、いっそうなまなましく、それを生んだ諸原理にたいする無感覚を浮き彫りにするからである。』(p446)
こうした大衆的人間は、《慢心した坊ちゃん》としてまとめられる。
『(1)大衆的人間は、生は容易であり、ありあまるほど豊かであり、悲劇的な制限はないというふうに、心底から、生まれたときから感じており、したがって、各平均人は、自分のなかに支配と勝利の実感をいだいている。
(2)そのことから、あるがままの自分に確信をもち、自分の道徳的・知的資質はすぐれており、完全であると考えるようになる。この自己満足から、外部の権威にたいして自己を閉鎖ししてしまい、耳をかさず、自分の意見に疑いをもたず、他人を考慮に入れないようになる。たえずかれの内部にある支配感情に刺激されて、支配力を行使したがる。そこで、自分とその同類だけが世界に存在しているかのように行動することになるだろう。
 したがって、(3)慎重も熟慮も手続きも保留もなく、いわば《直接行動》の制度によって、すべてのことに介入し、自分の凡庸の意見を押しつけようとするだろう。』(pp460-461)
 大衆的人間は、科学技術を享受するが、便利な製品そのものを作り上げている純粋科学そのものには興味を示さない。かといって、科学者が優れているわけではなく、現代の専門分化した科学者は、極めて大衆的な、狭い知識しかもたない無知の人間だとオルテガは言う。知的に非凡でない人間でも、現代では科学者になりうるのだ。凡庸な人間が科学者になれる原因は科学研究方法の機械化にあると言う。
『科学の無数の研究目的のためには、これを小さな分野に分けて、その一つに閉じこもり、他の分野のことは知らないでいてよかろう。方法の確実さと正確さのおかげで、このような知恵の一時期、実際的な解体がなされる。これらの方法の一つを、一つの機械のように使って仕事をすればよいのであって、実り多い結果を得るためには、その方法の意味や原理についての厳密な観念をもつ必要など少しもない。』(pp472-473)
 他の分野、生の全体の領野についての知もなければ、方法や原理についての厳密な観念をも持っていないで、機械的に公式を駆使する微小な専門家。これが現代の科学者であり、自分の世界をとりまくものごとの成り立ち、歴史を知らず、どうして世界がこのように存在しているのか解明する理論的知の欲望をもたないという点で、彼らもまた大衆的人間なのである。
『頭脳明晰な人間とは、幻覚的な《思想》から自由となり、生を直視し、生に含まれるものはすべて疑問視されることを理解し、自分が迷っていると自覚している人である。これはーーつまり、生きるとは自分が迷っていることを自覚することはーー純然たる真理であるから、この真理を受け入れる人は、すでに自分自身とめぐりあい、本当の姿を発見しはじめ、すでに大地に足をつけているのだ。(…)問題は自分を救うことだから、かれらは、あの悲劇的な、断固とした、絶対的に真剣なまなざしをもち、そのまなざしによって、生の混沌を秩序だてるだろう。これだけが真の思想であり、つまりおぼれる者のもつ思想である。(…)自分が迷っているのだと本当に自覚しない人は、否応なく自己を見うしなうのである。』(pp514-515)
ここでもまた我々はソクラテス的無知の知に突き当たる。
 結局この本は、貴族主義の本だ。たとえ科学者をも断罪しようとも、オルテガは一部の知的エリートを擁護し、大衆を断罪している。
 オルテガに対して、ルソーはひたすら大衆の味方であった。アンシャン=レジームを批判し、諸個人の自由を求めるルソーは、自然に生きる農民をこそ賞賛する。ただし、人工の文明を自然の所与と受け取る大衆的人間を断罪するオルテガも、腐敗した社会に対して自然状態を理想的に描くルソーも、自然と未開を特権的に描いている点で、ポスト構造主義以降は否定されねばならない。かといって、彼らの古典書物を全く読まないというのは単なる全否定である。オルテガもルソーも、無知の知を促した。オルテガは大衆と専門家に、ルソーは社会制度に依存する特権階級に。そして、無知の知は、ポスト構造主義、ポストコロニアリズム以後も、ソクラテスが説いてから2,500年近く残り続ける批判の技法なのである。
 本に書かれていること全てを真正直に受け取るのは、無批判でよろしくない。そんな読書を続けている人間は、場あたり的な人生しか過ごせないだろう。何故なら、ある書物で納得したことを、別の書物で批判されたら、彼は意見を簡単に変えてしまうからである。そうではなく、自分の思想を持ちつつ、さまざまな書物を読み、その書物の中で受け入れられるものは受け入れ、自分の思想からみて偏見だと思われるものは排除する、批判的読書を読者にすすめたい。その方法で読まなければ、オルテガやルソーやアリストテレスやカントやハイデガーなど古典は読めない。古典書をそのまま全部受け入れてしまっては、あなたは女性や大衆やヨーロッパ以外の地域に住む人々を憎悪するしかないだろう。

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