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書評:プラトン『饗宴』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

饗宴
饗宴
プラトン 久保 勉


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古典教養の王者、プラトンの代表作の一つです。
(引用文は中央公論社「世界の名著 プラトン1」を使用しています)

内容は、恋の神エロスについてのソクラテスらの対話です。いつの時代にも通じる恋愛論なので、読むのが面白いです。ただ、ギリシアでは男同士の恋愛が美しいとされていたため、この対話でも、肉体よりも知性や精神を尊ぶ同性愛が、異性愛よりも上位におかれています。

まず、ソクラテス以外のエロス賞賛の言辞の中から、ポストコロニアル以後の現代でも通用しうる名言を抜き出してみます。もちろん引用文の前後には、現代からすれば差別的な思想、他者排除的な美学が散見されます。これらの問題点については、後代の哲学者や思想家がさんざん批判を加えましたので、この場では、現代においても意義ある思索のみを書き留めることにします。

「彼らは、恋の目当てとする相手の肉体の花が凋むやいなや、それまでの数々の言葉や約束ごとを踏みにじって『飛びさって行く』。それに反して、相手の人柄にーーもちろん、それが立派なときのことであるが、それに恋をする者は、永続的なものと融合するわけであるから、一生を通じて変わらないのである」

「つぎに、金銭や政治力に動かされて相手の手中におちいることも恥ずべきこととされている。よし、ひどいめにあって心しなえ、毅然たる態度を保ちえなかった結果であっても、金銭や政治的成功の面で相手から特別に目をかけられつつも、あえてそれを無視しなかった結果であっても、罪は同じこと。どのみち、かかるものから高貴な愛情が生じたためしがないのは言うまでもなく、だいいち、それらは、どれ一つとして、堅固永続的なものでないではないか」

「この神はまた、正義の徳に加えて、慎みの徳も、このうえなく豊かにそなえている。慎みとは、もともと世間の認めるところによれば、快楽や欲望にうち克つことであるが、エロスには、いかなる快楽もその力においてまさるものはないからである。エロスよりも弱いものはエロスに支配され、逆に、エロスのほうはそれを支配するであろう。されば、エロスは快楽や欲望を支配するがゆえに特別慎み深いということになるであろう。」

過去の私は女性の肉体的な美しさ、はかなく崩れ去るものを欲望してきましたし、パトロンやヒモの対象を探していましたし、慎みなく、欲に流されるまま快楽を求めてもいました。エロスの神に囚われていた時は、恋する対象しか見えていませんでした。その姿は何とあさましかったことでしょう。恋の対象に精神的な徳を認めず、冷たくされればひどく落ちこみ、ただひたすら快の提供を求めていた過去の私は、ただの俗物です。

ソクラテスは、話の順番が自分のもとにくるまでは、他人の意見を斜めにかまえて聞いています。饗宴の最後に始まるソクラテスの語りは、最初のうち、人を馬鹿にしたへ理屈の連続です。ソフィスト(詭弁使い)をあんなに批判したソクラテス自身も、ただのソフィストではないかと思えてくるほどの偏屈ぶりです。しかし、しばらくすると、最初は愚者の妄言に聞こえたソクラテスの語りが、誰よりもエロスについて深い洞察を示し始めるのです。

ソクラテス以外の者はみな、エロスを恋愛の神とみなしていましたが、ソクラテスは、何かを愛する行為全てがエロスの働きだと言います。この発想の展開、拡大、転換こそソクラテスの醍醐味です。ソクラテスは人の定めた枠組で思考していないのです。エロスは当然愛知、すなわち哲学の働きも含みます。

ソクラテスにとって哲学とは、自分の無知を知ることです。ソフィストのように、自分の知性をひけらかすことは、無知の極致なのです。

「まず、神々にあっては、神はすでに知者ですから、知を愛することはなく、知者になろうと熱望することもありません、また神以外の者でも、すでに知者であれば、知を愛することはありません。しかし他面、無知蒙昧な者もまた、知を愛することはなく、知者になろうと切望することもないのです。この、自分は理想的な者でも思慮ある者でもないのに、間然とするところのない人間だと自分の目に映ることこそ、無知の厄介なゆえんではあるのですけれど、ともかく、自分に欠けたところがあるなどとは考えない者が、欠けていると思っていない当のものを欲求するわけがないではありませんか』 

これはソクラテスが回想して語る女性哲人ディオティマの言葉です。無知の知という言葉を高校の授業で簡単に習いましたが、『饗宴』のこの箇所を読んで、ようやくその意義をつかんだ気がしました。

無知の知を現代人の生活様式に当てはめて考察してみましょう。現代人の部屋にはほとんど書棚がないし、本がありません。書棚があっても、景観上醜いからといって、布で隠したりします。文学全集を豪勢に並べろとは言いませんが、せめて人生で感銘を受けた本くらい恥ずかしげなく飾っておいて欲しいものです。まあ本を読んでいることを人に知られるのが恥ずかしいという、現代日本の若者に見られる恥ずかしい慣習は、出版社の商業主義から生じているのかもしれません。本の題名や帯があれだけ派手で、露骨で、読者の購買欲求をかきたてるものであるから、書棚に並べたら、極彩色で、けばけばしすぎることになるのでしょう。本棚を布で覆いたくなる気持ちもわかります。現在出版されている本の大半は、部屋に並べても調度家具になりえないでしょう。

とにかく、そうした知の枯渇状況、堕落は、自分がいかに無知であるかを知らない状況を蔓延させます。本を読み知識を得ようという、欲求、必要性が、もはや現代人にはないのでしょうか!などと教条主義的に訴えてもしょうがないので、少なくとも自分自身の無知を痛感している私たちは、「饗宴」を読み続けましょう。

エロスは、究極的には、幸福願望であるといいます。そしてまた、幸福を目指す営みは、全て恋なのだともいいます。

「恋とは、あの善きものと幸福への欲望なのです。(…)けれども、金儲け、体育愛好、愛知と、数も多い別の道にしたがって、それ(恋)へ向かう人たちは、《恋をしている》とも《恋する人》とも呼ばれないのです。そして恋のうちの、ある一種類の道をすすみ、それにうちこむ人だけが、全体の名前である《恋》《恋している》《恋している人》という名前を与えられるのです」

ディオティマの話は最終的に、恋の道の究極最高の秘儀伝承にいたります。

「ひっきょう肉体であるかぎり、いずれの肉体の美もほかの肉体の美と同類であること、したがってまた、容姿の美を追求する必要のあるとき、肉体の美はすべて同一であり唯一のものであることを考えないとしたら、それはたいへん愚かな考えである旨を理解しなければならないのです。この反省がなされたうえは、すべての美しい肉体を恋する者となって、一個の肉体に焦がれる恋の、あのはげしさを蔑み軽んじて、その束縛の力を弛めなければなりません。
 しかし、それに次いで、魂のうちの美は肉体の美よりも尊しと見なさなければなりません。かくして、人あって魂の立派な者なら、よしその肉体が花と輝く魅力に乏しくとも、これに満足し、この者を恋し、心にかけて、その若者たちを善導するような言論を産み出し、また、自分のそとに探し求めるようにもならなければなりません。」

「一人の子供の美しさ、一人の大人の美しさ、一つの営みの美しさというように、ある一つのものにある美しさを大事なものとし、それに隷属して、愚にもつかぬことをとやかく言う、つまらぬ人間になりさがらぬように」

ある一人の女性に恋い焦がれている時は、その人ばかりに目が行くでしょう。その人が自分を恋の対象として望んでいないと分かった時は、激しい失望を経験することになります。道端や駅のホームには、失恋した彼女よりも美しい女性が歩いていますが、そんなものは目に入らず、悲嘆のみに覆われた心は泥沼にはまっていきます。この視野狭窄の悪夢に陥らないためには、肉体の美に基づいて、一人のことを恋さなければよいのでしょう。街を歩けばいたるところに美しい女性はいるのだから、美の徳性は万人にあることを認める慎ましさ、判断力が必要なのでしょう。

精神を愛せとディオティマは言います。精神の美しさを愛すのであれば、その人一人でなければどうしてもだめだという、肉体を愛した頃のくるおしさを経験することはないでしょう。精神への愛は静かな献身を求めることでしょう。自分のことを醜いと軽蔑してきた人は、精神的に気高くあろうと考えましょう。たとえ肉体が他の人より醜くても、よしと考えることにしましょう。自分自身肉に誘惑されず、美しい精神の持ち主を愛する気持ちでいれば、自分自身の醜さで悩むこともなくなるでしょう。相手にもまた、滅びやすい外見上の美しさでなく、変わることない精神の美しさを愛して欲しいのですから。

肉体より精神や知性を上位におく思考法は、現代思想において徹底的に批判されましたが、それでも、ソクラテスの秘儀は、いまだに大きな意義を持っています。

精神の美しさとはどういうものでしょうか。

「それは、まず、永遠に存在するものであり、生成消滅も増大減少もしないものです。つぎに、ある面では美しく別の面では醜いというものでもなければ、ある時には美しく他の時には醜いとか、ある関係では美しく他の関係では醜いとか、さらには、ある人々にとっては美しく他の人々には醜いというように、あるところでは美しく他のところでは醜いといったようなものでもないのです」

ずっと行きたいと夢想していた場所についた途端、現実の光景に幻滅するように、恋した女性が遠い存在の時には非常に美しいのに、いざ二人きりになった途端、粗野なありさまに気づいて幻滅する場合があります。そういった幻滅とは無縁の、永遠に変化しない美があるのでしょうか。もちろん精神的美しさも、心がぶれれば、はかなく散っていくでしょうが、歳を重ねるほどに成長していくこともありうるのです。

肉体的個別の美を独占したいという病的な嫉妬うずまく熱から発した恋の道は、最終的に学問の喜びにたどり着きます。

「これこそが、自分の力ですすむにしろ、他人に導かれるにしろ、恋の道の正しいすすみ方なのですから。つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つねにかの美を目標としつつ、上昇してゆくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです」

イデア論は否定されつくしましたが、ソクラテスの俗物を軽蔑する生き方は、賞賛されてもいいでしょう。ここでいう俗物蔑視とは、世間一般に受け入れられている価値など何の価値もないと批判する、自主独立精神のことです。

ソクラテスのエロス談義が終了した後、饗宴の場にソクラテスの友人、アルキビアデスが乱入してきて、ソクラテスの魅力を語り始めます。

「いいかね、この人には、だれそれが美しいなんて、ぜんぜん問題にならないのだよ。また、金持ちであるとか、世間からもてはやされているような栄誉をもっているなどということも同じくね。かえって、心のうちでは、だれ一人思ってもみないひどい軽蔑をしているのだ。そして、それらの持ち物を一顧の価値もないものと見なし、また、われわれをなきにも等しいつまらぬ者と考えているのだ。ぼくはあえてこう言う。かくて彼は一生を通じ、人々に向かっては空とぼけ、ふざけているのだ。
 しかし、この人がまじめになり、その扉が開かれるとき、その内部の群像を見た者があるかどうか、ぼくは知らない」

学者であるにも関わらず、俗にそまっている人が多々いますが、やはりソクラテスから派生した学問の伝統に属す者ならば、学問以外の全てを否定し、すっとぼけ、悪ふざけすることも許されるでしょう。全ての知的営為は、アイロニーに溢れる罵詈雑言から始まり、極めて美しい論理の結晶として終わるのでしょう。

最後に、ソクラテスの特徴を的確に描写した箇所を引用します。ソクラテスのようにありたいものです。

「ソクラテスの話というのは、これをひとつ聞いてみようという気になったばあい、最初聞いたときには笑止千万なものに思われるだろう。なにしろ、滑稽な語句を外側にまとっているのだから。人を愚弄するサテュロスの毛皮といったものをね。この人の話すことときたら、荷驢馬や、どこかも鍛冶屋、靴屋、鞣皮屋といった調子で、いつも同じ言葉で同じことを言っているように思われるのだ。だから、勝手を知らぬ愚か者は、例外なく彼の話をあざ笑うことになろう。
 ところが、たまたまその扉が両方に開かれるのに出くわして、そのなかに入ってみると、まず、世の言論のうち彼のものだけが知性を内に抱いていることに気づくだろう。ついで、それがこのうえなく神々しい言論であり、徳の神像を最も多くその体内にもち、理想的な人間たらんとする者の探求にふさわしい対象が大部分、いや、全体にわたってあることに気づくだろう」


(上記文章は、2005年1月に別サイトで発表した書評を書き改めたものです)

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