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書評:プラトン『パイドン』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年1月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

パイドン
パイドンー魂の不死について
プラトン 岩田 靖夫
岩波文庫

関連作品
饗宴
パイドロス
ゴルギアス
メノン
ソクラテスの弁明・クリトン
by G-Tools


引用は、中央公論社世界の名著『プラトン1』より『パイドン』池田美恵訳を使用しました。

 ソクラテスは死こそ哲学の目的だと言う。
 この『パイドン』を私は自己愛性人格障害の治療として読んだ。自己愛性人格障害の夫は、自分の命が何より大事で、健康に病的なまでに気をつかい、妻の作ってくれた不健康な料理に文句を言う。自分がかわいいのだが、自分を愛せない。周りの者が愛してくれているのに、それでは不満足で、自分が愛する存在からのみ莫大で献身的な愛を求める。自分が愛する一人の存在に病的なまでに注意を向け、生活の全てを支配しようとし、愛する存在が少しでも自分の想いに反する行動をとれば、とても冷たくされたと思う。かといって彼女に暴力はふるわずに、無視など、陰湿な復讐をする。
自己愛性人格障害の夫については下記サイト
「モラルハラスメント被害者同盟」を参照のこと。
http://www.geocities.jp/moraharadoumei/
 これはプルースト的嫉妬によく似ている。自己愛性人格障害の者は、他人が自分をどう思っているかに病的なまでに関心を向けるから、家の外では愛想がいいが、中では別人のように冷たくなる。愛する者を手に入れてしまったら、そこで終わり。何故なら、彼は根本的には自分のことを愛せず、外に愛を求めているから。
 買った本を読まずに積み、さらに無謀にも借金しながら本を買い、図書館からも本を借りる私の不合理な在り方をなおしたいと思った。
 死を受け入れるソクラテスは、自己愛からほど遠い存在である。ひたすら知を愛し、人の機嫌取り、驕り、勝利に走らず、善く生きることを考えよというソクラテスは、自己愛性人格障害の治療薬となりうる。一般人は、哲学者が死にふさわしいことを知らないとソクラテスは言う。
『彼らは、真の哲学者がいかなる意味で死人も同然なのか、いかなる意味で死ぬのが適当なのか、また、いかなる死が彼らにはふさわしいのか、ということを、まったく知らないからだ。』(pp502-503)
 哲学者が死人も同然とは人を馬鹿にしたような論理だが、いつものソクラテスのように、ここから高邁な理想が語られていく。
『その他(註:性欲の他)、もろもろの肉体についての関心は? いま言ったような人がそういうことを重く見るだろうか。たとえば、他人より立派な衣服とか靴を買うことや、その他、一般に肉体を飾ることを重く見るだろうか。それとも、最小限の必要以上にそんなものに心をわずらわせることを軽蔑するだろうか』(p503)
 小さい時、親からの愛を十分受け入れられなかった者は、早いうちに強い性欲をおぼえ、マスターベーションを繰り返すことで、愛の代償を行うという。愛されるため、外見に注意を払いもする。それに対して哲学者は、魂にのみ注意を向ける。
『世間の人々にとってはね、いまあげたようなことがらになんらの楽しみをも見いださず、それにあずかることもない人間など、生きるに値しないということになるのだ。彼らにとっては、肉体的快楽にぜんぜん興味をもたないような人間など、死んだも同然なのだ』(p504)
最近、「死んでいるみたいに元気ないけど大丈夫ですか」とよく言われるが、私は肉欲に注意していないし、みんなの話題に関心がないから、元気がなく、死んでいるように見えるだけなのだ。
 哲学者は、『聴覚、視覚、苦痛、快楽といった肉体的なものにわずらわされることなく、肉対を離れて、できるだけ魂だけになって、肉対との協力も接触もできるだけこばみ、ものの真実を追究する」(p504)のだ。何故なら、正しさとか、美とか、善とか、徳といったものは、視覚などの肉体感覚ではとらえられないからだ。
『自分が研究している個々の対象そのものを最もよく最も厳密に考察する訓練をした者こそが、それぞれのものの認識に最も近づくことになるのではないか。(…)できるだけ思惟だけを用いてそれぞれの対象に近づき、視覚を思惟の助けに用いたり、そのほかなんらかの感覚をひっぱりこんで思惟といっしょに用いたりせずに、純粋な思惟そのものを用い、それぞれの真実性を純粋にそれ自体として追求しようとつとめ、目や耳やいわゆる肉体全体については、これらとともにあれば魂はかきみだされ真実と知恵とを得ることができないとして、それからできるだけ離れる者』(p505)
 これは肉体を蔑視し精神を上位におく形而上学的言説の典型だが、自己愛性人格障害の治療としては的確な肉欲の昇華である。『肉体は、恋情、欲望、恐怖など、あらゆる種類の空想や数々のたわごとなどでわれわれの心を満たすので、諺にも言われるように、われわれは肉体があるために何ごとにつけ瞬時も考えることができぬというのは、まさにほんとうなのだ。』(p506)
こうして、死をおそれることが、哲学的に否定される。
『もし死にのぞんで嘆く者を見たら、それは、その男が知を愛する者ではなくて肉体を愛する者だったことの、じゅうぶんな証拠となるのではないか。そして、その男は、おそらく、金銭を愛する者であり、名誉を愛する者でもあろう。』(p508)
 こうした自己愛的人間に対して、哲学者は、勇気と節制と知恵を徳として持つ。
 自己愛的人間は、自分の体が愛しくてしょうがないのだが、対象に愛が向かわない。対象には、自分の体を愛してくれるよう病的に求めるし、彼は対象の外見しか愛さず、精神を愛さない、プルーストがアルベルチーヌという、知的には彼にそぐわない花咲く乙女を愛したように。
 哲学者は自分の体でなく、自分の魂、現代的に言うなら思惟を愛する。そして、彼らが恋をすれば、相手の肉体や外見ではなく、思惟のすばらしさに恋することだろう。
 中盤に、ソクラテスの真理、言論(ロゴス)についての注目すべき語りがある。私はこれで真理に対する学校的、現代思想的通俗の批判的考え、および自分の行き当たりばったりの人生を変えられた。まずは人間嫌いが起こる仕組みから。
『ところで、言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方でおこるのだ。
 さて、人間嫌いはどうしておこるかと言えば、まず、無造作にだれかを頭から信頼し、その人をまったく真実で、健全で、信頼できる人間だと思いこみ、その後まもなく、その人が悪い、信用できない人であることを発見する。同様の経験をほかの人のばあいにもする。そして、こういう経験をたびたびくりかえし、とくに自分に最も近しい、最も親友であると信じていた人たちからこういう目にあわされると、しまいには、たびたびの苦い経験のため、すべての人を嫌い、だれ一人として真実な人間はいないと思うようになる。(…)それは恥ずべきことではないか。また、そういう人は、明らかに、人間性について知ることなしに人間に臨もうとしたのではないか。彼がその知識をもって人間に対していたら、事実どおりに、つまり、善人にせよ、悪人にせよ、極端なものはどちらもごく少なくて、その中間がいちばん多いのだと考えたであろう』(p543)
 私はソクラテスが語った経験を何度か味わい、人間嫌いに半ば陥っていた。人間に対しての深い洞察の欠如から、こうした誤解が生まれるとソクラテスは言う。確かに、自己愛性人格障害の者は、相手に神のごとき、絶対的な愛の献身を要求してしまう。自分はできもしないのに、何故相手にはそれを求めるのか。それは、彼は自分を受け入れていないからである。
 自分はもっと人を愛せるのに、人を愛することができないという彼の自己否定の裏には、普通の人は自分と違い、神のごとき慈愛に満ちているだろうという理想的妄想がある。故に、少しでも愛が裏切られたら、彼は絶望の淵に叩き込まれる。ほとんどの人間が、彼と同じように誰かを毎分毎秒永遠に愛し続けることができないという現実を受け入れ、自分は決して欠落者ではないのだという認識を得た時、彼は心の安寧を得て、神経質なまでの愛の渇望とその必然的破滅から抜け出せることだろう。
 話を『パイドン』に戻す。人間嫌いと比較して、言論嫌いについてソクラテスは語る。
『似ているのは、つぎの点なのだ。つまり、言論について何の顧慮もなしに、ある言論を真であると信じ、その後まもなく、それを間違っていると思うようになる。じっさいは、間違っていることも、いないこともあるのだが。そして、こういうことが、ほかの言論についても、しばしばくりかえされる。とくに論争のための議論に時をすごした人たちは、君も知るように、しまいには自分たちが最も賢明であり、自分たちだけがつぎのようなことを知っていると考えるにいたる。つまり、事物にしろ言論にしろ、健全で確実なものは何一つなく、すべてのものはまさにエウリポスの潮にもてあそばれるようにあちこちと押し流されて、瞬時たりとも止まらぬということを』(p541)
『存在と時間』を熱中して読んでいたのに、ネット上で要約を読んでしまい、そんなものかと浅はかに理解した途端、興味がうせたり、アリストテレスの『政治学』を読んだおかげで、クリステヴァの議論がひどく反ポリス的に思えてしまえたりと、私は何かの言論の正しさを信じては、その否定的言辞に出会うとすぐに信じたものを捨ててしまい、別の言論に走るという馬鹿げた行為を長年繰り返してきた。
『真実で確実で理解可能な言論がじっさいあるのに、いまのように、同じ言論でありながら、ときには真実に思われ、ときには偽りとされる、そんな言論にぶつかったために、自分自身や自分の未熟さは責めないで、しまいには苦しまぎれに、すすんで自分から言論へと責任を転嫁し、それ以後は一生、言論を憎み、悪口を言って、事物の真実や知識から遠ざかって暮らすとしたら、これは悲しむべきことではないだろうか』(p541)
 私は言論を愛する行為自体をやめたことなどないが、個々の思想を猛烈に愛したり捨てたりを繰り返してきた。『存在と時間』を読み続けずに、楽をしたいという誘惑に負けて、簡略化された要約など読んでしまったから、興味を失ったのだ。自分が言論に真摯に接する忍耐力をもたないという未熟さを棚にあげて、言論自体を非難、全否定するのはやめにしたい。自己愛性人格障害の者も、愛してくれないとすぐ人を批判する、己の愛に対する考え方の未熟さを認めずに。
『だから、そうならないように、最初に注意しようではないか。そして、言論というものにはなんらの健全さもないという考えが、心のなかに入りこまないようにしよう。それよりはむしろ、みずからを省みて、われわれ自身がまだ健全になっていないのだとして、健全なものになるように勇気をふるい、努力すべきではないか。君やほかの諸君はこれからの全生涯のために、ぼくは死そのもののためにね。』(p544)
自己愛性人格障害の者は、他者を非難するばかりで、自分で反省しない。自分を省みる場合は、何故自分はこんなにも愛に恵まれないのかと、感傷にひたるだけだ。そんな間違った自己愛はもう辞めて、自分の愛し方は健全ではないのだと反省し、努力する行為を続けよう、これ以上あやまちを繰り返さないために、生涯の幸せのために。
 結局は、愛を人に求めるのではなく、自分で作り出し、信じ続けるしかないのだ。これは真理についても当てはまってしまう。
『ぼくが自分の言うことを真実だと思わせようと努力しているのは、ここにいる人たちに対してではなくーーついでにそうなってくれるのなら別だけれどもーーできるだけそうだと思わせようと努力しているのは、このぼく自身に対してである(…)もし、ぼくの言うことが、たまたま真実だとしたら、ぼくがそれを信じるのは結構なわけだし、またもし、人間は死んでしまえば無になってしまうものなら、ともかくも死ぬまでのこの時間だけは、ぼくが魂の不死を信じていれば、悲しんでこの場の諸君に不愉快な思いをさせることがそれだけ少なくてすむわけだし』(p545)
自分の言うことを真実だと、自分自身に思わせようと努力することで、真理が成り立つ。これは教科書的に考えれば奇妙な真理概念である。かといって、これは真理がないという相対主義、ニヒリズムにはいきつかない。真理はないのだが、努力することで、あると信じることはできるのである。これと真理などないというニヒリズムには、非常な温度差がある。
 この温度差を理解しがたないなら、真理を愛と言い換えてみよう。愛などないのだが、努力することで、あると信じることができる。これと愛などないというニヒリズムには非常な温度差があることは、誰もが了解できるだろう。
 ソクラテスが人生の最後にあかした真理のぜい弱さ。哲学者は死ぬことをおそれないという真理は、この場にいるものが、悲しんで不愉快に感じないためにうちたてる、信じようと努力しなければならない真理なのである。
 もちろん、この場以外で語られたロゴス全てに、こうしたぜい弱な真理概念が当てはまるわけではないだろうが、少なくともソクラテスが、真理を永遠普遍の真実在とはとらえておらず、変わらないであり続けると信じるべきものととらえていたことは真実である。
『しかし君たちは、ぼくの忠告にしたがってくれるなら、ソクラテスのことは気にかけないで、もっとずっと『真実』のほうを気にかけてくれたまえ。そして、ぼくの言うことが真実だと思ったら同意してもらいたいし、そうでなかったらあらゆる議論を駆使して反対してくれたまえ。』(p542)
 真実とは、全てに無条件に当てはまる確固たる存在物ではなく、同意で成り立つものにすぎない。ただ、そうだからといって、真理などないとニヒリストになるのではなく、我々は絶えず『真実』とは何かを気にかけ、誤りないよう、議論すべきなのだろう。
「人間が万物の尺度」だと言い切って、思考停止に陥るのではなく、真実は何かを絶えず気にかけること、同意を得ようと努力すること、ただし、自己満足のために同意するのではなく、真理を見極めるための反対意見をおおいに歓迎すること。このソクラテス最期の真理概念は、現代においても生き続ける真理であろう。 
 
 自己愛性人格障害に、ソクラテスの真理概念を当てはめてみよう。愛とは双方の同意によって成り立つものである。故に、相手が自分の愛に応えてくれないからといって、途端に冷たくするのは、愛の最終破壊行為につながる。
 愛していた人と愛の関係を終わらせるため、関係を破壊するのだと言っても、関係を破壊せずとも終わらせる方法があるだろう。だいたい破壊しようとすると、自分自身も、相手も、周囲も傷つく。そんなことなど望んでいないのに、無意識に、やってしまい辛いと言っても、何としても意識で抵抗して、この破壊行動に終焉を与えようと努力するべきだろう、何故なら、無意識を放し飼いにするかぎり、また別の人とも同じ傷つけあう関係を再現してしまうだろうから。
 破壊衝動の力を無にするには、愛についての考え方を理想的なものから現実的なものに改めればよい、理想が高すぎ、かつその理想を皆が実践すると思っているから、幻滅が起こるのだ。
 愛などないのだ。愛を体現している人などどこにもいない。あなたが真実の愛を知らないのと同じように、他の多くの人も、あなたを愛してくれる人さえも、愛についてほとんど確かなことを知らないのだ。真実の、永遠の愛などどこにもないのだけれども、永遠に存在すると信じて、その存在を恋人たちの間で確かめ続けるしかない。あなたが永遠の愛が存在すると信じていたのはよかった。ただ、どこかにあると思っていたのは間違いだった。どこにもないことを受け入れよう。受け入れるのだけれども、さもあるかのように、努力すること。こうすることで、あなたが夢見ていた愛が真理となる。
 どこにもないことを受け入れつつ、それでもあると信じて、永遠にあるかのように育み続ける作業。悲しい傷を二度と負わないために永遠に続く作業。ソクラテスの説く真理はこのように悲愴である。

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