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「ヒューマニズム」について
マルティン・ハイデガー 、渡邊次郎訳、筑摩書房、1997
ハイデガーは主著『存在と時間』を1927年に出版した後、「存在論的転回」と呼ばれる大きな思想転回を迎えます。1947年、ジャン・ボーフレが発した「どのようにしてヒューマニズムという語に、ある意味を与え返すべきなのか」という問いに対して、書簡体形式で答える形で『「ヒューマニズム」について』は発表されました。そこには、人間よりも存在を重視する後期ハイデガーの思想が凝縮された形で表明されています。これは『存在と時間』発表後、長い沈黙をおいての思想表明であり、『存在と時間』に対する様々な疑問、反論に答える内容にもなっています。
一般的にヒューマニズムは、人間を動物から区別します。区別のもととなるのは、人間だけが持つ理性です。「人間は理性的動物である」というヒューマニズムの定義に対して、ハイデガーは、それでは人間の本質が何も示されていないと反対します。
ハイデガーは、「存在へと身を開き、そこへと出で立つありかた」を、人間、すなわち現存在の本質として規定します。「人間とは何であるか」という問いでは、人間の本質は言い当てられず、ただ存在との関わりによって、人間の本質が理解されるのだというのが、ハイデガーの意見です。
では、この存在とはどういうものでしょうか。存在とは、存在者を存在者にあらしめているもの、存在者を光の中に現出させてくるものです。人間が現存したり、現存しなくなったりの決定を行なうのは、人間ではなく、存在の運命だとハイデガーは言います。かといって存在は神ではないし、世界の根拠でもありません。存在は、あらゆる存在者よりも、より広く遥かでありつつ、それでいて人間には、どんな存在者よりも近いものと考えられます。
形而上学が掲げるヒューマニズムやサルトルの実存主義に対して、ハイデガーは人間よりも存在が重要だと言います。これは決して人間性を否定する考えではなく、存在するからこそヒューマニズムという主義主張も出てくるのだからだからこそ、先にある存在の方を思索するのが重要になるのです。
近代的人間は存在という故郷を喪失しています。存在の真理に近づくこと、思索を続けることが、存在の真理の番人であり、牧者である人間の役目だとハイデガーは言います。
ハイデガーは、存在の思索を非人間的、非合理だとする批判に反駁します。ヒューマニズムに反対する語り方がなされるからといって、非人間性の擁護、野蛮な残忍性の肯定をしているのではなく、ヒューマニズムよりも論理的なものは何だろうかと思索しているだけだと言います。また、非合理、非論理的に見えるハイデガーの語りは、通常の論理や文法では隠れてしまう存在をつきとめるための、より厳密な語りだと言います。ハイデガーの語りは倫理学のようにも解釈できるのですが、倫理より何より、存在について思索するのがハイデガーの狙いです。
哲学という何らかの専門に固定された学でなく、存在について考えること。この営みは思索と呼ばれます。プラトン以前のパルメニデスやヘラクレイトスの文章、あるいはヘルダーリンの詩に、ハイデガーは人類史上数少ない存在の思索を見出します。存在は神ではないのですが、神をも含む、より広く大きなものです。これは哲学ではないと言われても、ハイデガー自身哲学であることを拒否しているのだから、妥当です。
ハイデガーはナチスとの共犯関係、思想の非合理性をハーバーマスらに批判されてもいますが、形而上学の歴史全体を問題視したその姿勢は、サルトル、ラカン、フーコー、デリダらフランス現代思想家に大きな影響を与えています。何につけてもハイデガーが現代哲学史、現代史に残した業績は絶大です。
20世紀最高の詩人の一人、パウル・ツェランはハイデガーの思索およびナチスの惨劇と対峙することで詩を紡ぎ出しましたし、レヴィナスは存在の哲学を発展させ、一者の全体性に回収されない無限、絶対的に異なる他者を歓待する哲学を提示しました。ハイデガーを一度通過することは、21世紀においても必要でしょう。
関連作品
存在と時間 マルティン ハイデガー 、筑摩書房、1994
ハイデガー「哲学への寄与」解読 鹿島 徹 相楽 勉 佐藤 優子、平凡社、2006
全体性と無限 (上) レヴィナス、熊野純彦、岩波書店、2006
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