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人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ A.H. マズロー 小口 忠彦 産業能率大学出版部 1987-03 by G-Tools |
マズローは欲求段階説、自己実現の概念などを提唱したアメリカの心理学者です。経営学、トランスパーソナル心理学などに影響を与えました。
フロイトの精神分析など、それまでの心理学は病的な人間、精神を病んでいる人間の研究から心理学という学問をうちたてています。一方で動物実験から心理学をうちたてている流派もありますが、マズローは健康で社会的にも成功している人間の研究から、心理学をうちたてようとしました。これが人間性の心理学といわれる由縁です。
自己実現的人間の研究における、被験者選定の基準が興味深いです。選定には消極的基準と積極的基準の2つがあります。消極的には、神経症、精神病質、心因性の身体的病気を持っていない人が選ばれています。積極的には、才能、能力、可能性を十分に用い、また開発している人、自分自身を完成し、自分のできるかぎりの最善を尽くしているように見える人が選ばれています。
「この基準の意味としては、現在あるいは過去における安全、所属、愛、承認、自尊などを求める基本的な情緒的欲求と、また、知識や理解を求める認知的欲求が満たされているか、あるいはまれではあるが、このような欲求が克服されているか、そのいずれかということである。すなわち、被験者全部が安全であり、安心していられる、受け入れられている、愛し愛されており、尊敬し尊敬されていると感じていること、および彼らなりの哲学、宗教、価値観を完成しているということなのである。(ノ)自己実現というのは、基本的欲求の満足に、少なくとも最小限の才能、能力、または豊かさを加えたものだといえるかもしれない。」(p225)
このような人を見つけるのは容易ではないといまだ自己実現していない私は思ってしまうのですが、げんに「歴史上の人物でかなり確実な者」として選ばれたのは「晩年のリンカーンとトマス・ジェファソン」の2名だけです。「アインシュタイン、エリノア・ルーズベルト、ジェイン・アダムズ、ウィリアム・ジェームズ、スピノザ」の6名は、「有名人および歴史的人物で非常に可能性のある者」という扱いだし、「ホイットマン、ヘンリー・ソロー、ベートーヴェン、F・D・ルーズベルト、フロイト」の7名は「歴史上の人物で、欠けるところはあるが、研究に使用可能な者」という扱いです。いかに自己実現のハードルが高いかがわかります。
自己実現者の特徴としてあげられていた中で面白かったのは「哲学的で悪意のないユーモアのセンス」という箇所です。マズローはリンカーンの冗談を分析します。
「リンカーンは、おそらく一度もほかの誰かを傷つけるような冗談は言わなかったのであるが、彼の冗談はたいてい何か言うべきことを含んでいて、ただ笑わせるということ以上の役割をもっていたようである。それはしばしば、たとえ話や教訓的童話のように趣味のよい教育のようなものであった。」(pp249-250)
自己実現者は、利己と利他、仕事と遊びといった二分性、対立が解消し、相互に合体した統一体になるといいます。
「われわれの被験者は非常に精神的であり、同時に異教的であり感覚的である。義務が同時に鵜喜びであり、仕事が遊びであり、義務を果たすことや高潔であることが、同時に喜びを求めることであり幸福であることである時には、義務は喜びと対照されえないし、仕事と遊びも対照されえなあい。もし、最もよく社会に同一化している人々が、また最も個性的な人々であるならば、対極性を認め続けることには何の効用も見いだせないであろう。もし、最も成熟している者が、同時にまた最も子どもっぽければ、どうなるだろうか。もし、最も倫理的で道徳的な人々が同時に最も強壮で最も動物的であるならば、はたしてどうなるだろうか。」(p262)
この箇所にはマズローの文体の面白さがにじみ出ています。どの革新者もそうですが、規正の学問をはみ出す思考が威勢よく展開されています。
ドラッカーは、ある特定の型の人が、時代ごとに理想的人間として定義され、その理想に従いすれば個人的幸福や富が必ずもたらされるだろうと一般的にみなされている類型を明らかにしました。ドラッカーによれば、中世においては宗教的人間が、ルネッサンス期においては知性的人間が、現代では経済的人間が理想とみなされてきたと言います。マズローは、精神医学上健康な人、または心理的健康な人、実質的には自然本来の人が今後理想とされるだろうといいます。科学によって制御された社会なのに、何故か心の病と殺伐とした人間関係と食品アレルギーが横行している現在、まさに健康的人間が求められるでしょう。
自己実現的人間は潜在可能性を発揮させ、目的をもって毎日生活を送っている人のように思えますが、マズローは遊びや快楽など、一見無目的に思える経験の大切さを説きます。ピューリタン的価値観が支配しているアメリカ社会では、心理学においても合目的性、因果法則、実用主義、機能主義、非妥協主義がもてはやされています。マズローは自己実現者に見られる内面の充実、感性、快楽、陽気な快活さ、ぶらぶら遊び暮らすこと、怠けることの意義を説き、一見無目的に見える経験は、それを経験することそれ自体が目的なのだといいます。こういうときのマズローは東洋的です。
完全に健康で充実している人を研究する行為は、優生思想を思わせ、ナチスの暴威さえ思い起こさせます。マズローはフロイト、ユングに継ぐ心理学の権威と言われますが、ラカンの存在を忘れてはいけません。20世紀思想は、社会的に健全で成功している人々を研究した一方で、社会から阻害されたマイノリティの人々を研究することで、新しい価値観を紡ぎ出してきました。ラカンは心に病を抱えた人と健康な人に境界なく、どんな人間も病んでいることを明らかにしました。ラカンの思考は正常=清浄と異常=けがれを区別し、弱者を排除しようとする社会機構の問題点を喝破しており、脱構築、ポストコロニアリズムの思考にまでいたっています。
マズローの思想、ラカンの思想両方に意義があることは確かです。自己実現者においては対立が解消するのですから。
現代思想冒険者たちSelect 鏡像段階 ラカン 福原 泰平 講談社 2005-04-13 by G-Tools |
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