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書評:アダム・スミス『国富論』

この記事の最終更新日:2006年5月9日

国富論〈1〉
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アダム スミス Adam Smith 水田 洋

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アダム・スミス―自由主義とは何か
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環境問題に関する文献を読んでいると、環境問題解決に積極的でないアメリカがよく批判されます。同時に、市場の論理を優先しすぎて、環境問題の解決を放棄する姿勢もよく批判されています。20世紀はCO2をたくさん排出することで文明化・利益創造を加速化させてきました。CO2の排出を削減しようとすれば、必ず何らかの産業が不利益を被ります。

産業活動を不必要に規制してはならないというのが、自由主義経済圏に流布している市場の論理です。環境問題の解決に取り組むための本当に効果的な方法が見出されていないというのが、アメリカが京都議定書に賛同しない理由の一つです。この反対意見の背後にも、効率を重視する市場の論理が見え隠れします。政府や公的機関など誰かが不要にコントロールすると余計混乱する、理念的な市場では、コスト競争により、誰も介入しなくても、「神の見えざる手」の働きによって、自然と公正で的確な取引が成立する。故に効果が不確かな京都議定書には賛同できない。こうしたアメリカ流の考えに環境問題論者は批判を加えるわけです。ここで敵として想定されているのは、アダム・スミスを起源とする近代の古典派経済学です。

陰に展開されているアダム・スミスに対する批判は、ポストモダンおよびオカルト主義者による、過度のデカルト批判を思わせます。私の思想的意見は環境問題論者の方に近いのですが、しかし彼らによる度重なる経済学批判を耳にすると、どうしてもポストモダンが繰り返した過度のデカルト批判と同じような誤謬、論理的間違いが潜んでいるのではないかと思えてしょうがないのです。

デカルトもアダム・スミスも、ニュートンと同じように、近代の社会システムを基礎づけた人です。経済活動におけるニュートンであり、デカルトであるアダム・スミスは、近代批判の文脈では、真っ先に批判の対象となります。こう徹底的に批判されると、本当にアダム・スミスの思想は間違ったものなのかと疑いたくなります。

アダム・スミスの経済学は、現代では大きな誤解を受けているというのが私の印象です。アダム・スミス以前の経済学説、当時の時代情勢を考察すると、アダム・スミスが果たした革新的意義が見えてきます。

アダム・スミス以前にあった重商主義は、貨幣こそ富の発生源だと考えていました。海外貿易によって多額の貨幣を得て、富を増やすことを重商主義者はすすめました。対して重農主義者は、国土や作物など自然物が、富の源泉であると規定しました。国土を開発し、作物をどんどん生産することで、富が増えると彼らは考えられました。

古典派経済学の創始者であるアダム・スミスは、重商主義も重農主義も見捨てているものを、富の発生源として規定しました。重商主義と重農主義についてもう少し見てみましょう。

重商主義者は、貿易、取引によって富が発生すると考えます。取引のもととなる生産物の意義が考察されていません。重商主義者は自然物を富の源泉と考えますが、それを耕したり、手を加える労働者については十分考察されていません。国家権力が絶対で、宗教的権威が支配していた当時のヨーロッパでは、学問教養のない労働者はもの同然の価値しかなく、彼らの活動について学者は熱心に考察しませんでした。Labor=労働は、辛いもの、支配者から強制されるものであり、ギルド制によって職位を保証されていた工作人によるWork=仕事や、宗教家の活動に比べて、遥かに地位の低いものでした。

20世紀の社会思想家ハンナ・アーレントによれば、WorkとLaborの区別は古代ギリシアまで遡るようです。Work=仕事は特殊技能を持つアーティストしかできず、永続的な作品を創造する活動です。対してLaborは、誰にでもできる単純作業で、消費を目的とした劣悪製品を製造する活動です。アダム・スミスはこの古代ギリシアよりおとしめられていたLaborに、富の源泉を見出したのでした。それまでは邪見にされていた労働者、彼らの活動こそ富を生み出す源泉だと喝破したアダム・スミスは、人間中心の近代的経済活動の大本となる学説を創始したのです。

スミスは分業制を支持します。「自分が最も優位性を持つただ一つのものを生産することに特化する人間」=専門人の育成こそ、富を増大させると考えたのです。(人間中心の考えが、過度の自然破壊を引き起こしたのだとよく反近代論者は批判しますが、中世までは公権力外の人間は苦渋の生活を歩んでいたのです。人間を国土同様に支配・統御しようとしてくる公権力に対抗して、自分たちの存在意義を主張すること、権利を認めさせること、この考えにそってフランス革命が起こり、近代ブルジョワ社会が発生しました。第一に人間存在を尊重することによって、動植物、自然環境への尊敬の念も生まれると考えた方が論理的ではないでしょうか。古代社会では過度の森林栽培による砂漠化が当たり前でした。科学技術の進歩により、地球環境について詳しく分析できるからこそ、環境問題にも積極的に関われると考えた方が、反近代の強硬的論考よりも的確だと思います。)

神の見えざる手という有名なフレーズはほんのわずかしか出てきません。公権力の介入を遠ざけて、権利を与えられていなかった労働者の活動を保証すること、当時の労働者の惨状を考えると、スミスが主張したかったのはただこれだけだったのかもしれません。

神の見えざる手によって制御された自由競争は果たしてそんな公正なものになるのか不安な人は、自由の概念を取り違えています。哲学的に規定される自由とは、日本で一般的に使われているような、人の迷惑をかえりみない、やりたい放題という意味ではなく、他の存在も自由に振る舞う権利があるのだということを分かった上で、他者を尊重しながら自分の権利を行使するという考えです。本来的にフェアでジェントルな自由の行使により、企業活動および市場は営まれます。アダム・スミスはもう一つの主著「道徳感情論」で、人間にそなわる道徳感情、共感の作用を分析しました。人間には利己的に行動しようとする意志と、利他的に行動しようとする意志の二つがあり、どちらか一方に偏ることなく、両方が結びついて活動しているのが、神でも悪魔でもない、人間存在なのです。そうだとすれば、自由に経済活動を行なえということは、自己の利益と他者の利益両方を尊重した活動を行なえということになります。これが「神の見えざる手」という言葉によって暗に示されている市場の論理、いえ、市場の倫理なのです。

近代社会を規定した思想にはどれも、存在理由、革新性があります。当時と現代は違うのだから、昔にできた思想が現代において害をもたらすというのはわかりますが、闇雲に批判する必要はないでしょう。労働者に価値と権利をおくアダム・スミスの思想をもとに、環境問題を考察する方が、現実的ではないでしょうか。

労働者つまり経済的人間には利己心と利他心の両方が備わっているのだから、自由に活動をさせれば、自然に経済が安定するというのが、古典派経済学の理念的市場概念です。もちろん、現実の経済活動においては、様々な弊害が出ています。古典派のリベラリズムを超えた、利他の共感感情を忘れたエキセントリックでエゴイスティックな自由至上主義がまかり通っているのも事実です。しかし、労働者は泥棒とは違うというスミスの言葉をよく思い出しましょう。労働者が顧客に大きな不利益を与えたり、仕事が辛くて自殺したり、時に企業が組織的に犯罪を行なうこともありますが、企業は理念的には、泥棒とは違うものです。企業活動を保証している市場の論理とは、フェアな競争と、本来的な意味での自由と、利他と利己両方を肯定しています。こうした理念を理解した上で、現在人類が直面している問題に対して、ニュートンやデカルトやアダム・スミスらと同じ大望を持って望むこと。こういう懐の深い姿勢を奨励したいものです。

京都議定書が規定する短期的CO2削減目標には賛同できないとアメリカ政府が言うなら、彼らが納得できる、公正で的確な代案を提示することが必要でしょう。今現在太平洋の島々が地球温暖化により水没しそうになっているという現実をアメリカは認識していないのかと反論しても、アメリカの環境問題担当者は別の理由を持ち出して、再反論してくるでしょう。その時点で彼らは非人道的だと非難してしまっては、対話に溝ができてしまい、問題の解決につながりません。市場の論理から見て、途上国、先進国双方に公正に妥当する、論理的回答を考え抜く作業が必要です。

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