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書評:カント『実践理性批判』

この記事の最終更新日:2006年4月23日

(以下の書評は2005年2月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています)

実践理性批判
実践理性批判
カント

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カント著、波多野精一他訳『実践理性批判』(岩波文庫、1979年)

 原著は1788年、フランス革命の前年刊。カントの道徳哲学については、書評『道徳形而上学原論』も参照のこと。
 カントの説く道徳は、義務の徳である。個人の欲や利益に基づくのではなく、誰にも妥当する、よき行為を定める道徳法則に基づいて行為すること。道徳法則に対して尊敬の感情を抱くことをカントはすすめる。尊敬の感情は、他の諸々の感情と違い、快をともなわないし、自然からではなく、理性によって生じる感情である。尊敬の感情についてのカントの言及は以下を参照のこと。
『かかる感情は、行為の判定にも役立たないし、まして客観的な道徳的法則そのものの根拠を確立するものでもなく、ただ行為者が道徳的法則を自分の格律たらしめるための動機として役立つだけである。』(p160)
『なるほど私が目のあたりにしている人にも、やはり不純さがつきまとっているかも知れないが、しかしそれは私が自分の不純さをみずから知っているほどはっきり知っているわけではないから、私を照らしているよりもいっそう純粋な光のなかへ姿を現しているこの人は、私にとってやはり一個の亀鑑となるのである。尊敬は、我々が欲すると否とに拘らず、他人の功績に対して我々が否応なしに捧げる貢物である。我々は、事と次第によっては尊敬の感情を表に現わすことを差し控えるかも知れないが、しかしこれを内心に感じることを禁じ得ないのである。』(p162)
『いずれにせよこのことは、我々の独りよがりを著しく減殺する、そして我々の徒らな独りよがりを厳しく批難するか、さもなければ各自に適切な仕方でかかる[立派な]実例に追随するように仕向けるか、二つのうちのいずれかである。』(pp163-164)

 尊敬と言う言葉は、個人社会化の進んだ現代では忘れ去られようとしている。尊敬はしかし独善(これこそ最も善のない状態だろう)から人を遠ざける契機となる。

「愛しています」と女性から言われないのに、「尊敬しています」と言われることに対して、私は満たされないで苦しんだこともあったが、否、「尊敬しています」という言葉こそ、最大の賞讃であり、「尊敬しています」と言われたからには、「愛しています」と言われなかったからと言って、苦しんではならないのである、峻厳なる道徳法則に従うとすれば。

たとえそのように厳格に生きることがどんなに苦しく見えようとも、「愛しています」と言われないで苦しむ人生よりは、道徳法則を尊敬する方が、将来的にはるかに心の平安に満ちた人生となるだろう。

『およそ人間が、どんな時にももつことのできる道徳的状態は徳ーー換言すれば、[傾向性と]常に闘争している道徳的心意である、それだから人間は、ーー自分の意志の心意は純粋無雑であり、これほど完全な純粋性を保有している道徳的状態はすでに神聖性を帯びているなどと言うことはできないのである。』(p176)

自分の私利私欲と道徳法則の絶えざる闘争状態に人間はあるので、神秘主義者のように自分を神と思うことは不可能なのである。また、尊敬の感情と言ってもそれは道徳法則そのものに向けられるべきであり、人や業績に向けられると、それは高揚とか愛着という個人的執着を呼び起こしてしまうので否定される。どうもこのような道徳論は、個人の幸福とは無縁であるかのようだが、カントは個人の幸福を全否定しているわけではない。

『しかしこのようにして幸福の原理を道徳性の原理から区別することは、それだからといって直ちに両者の対立を意味するものではない。純粋実践理性は「我々は、幸福に対する要求を放棄すべきである」と主張するのではなくて、およそ義務が問題になるや否や、「我々は、幸福を顧慮すべきでない」と言うだけである。それどころか考え方によっては、自分の幸福を図ることは我々の義務ですらある、その理由の一半は、幸福(練達、健康、富等はこれに属する)は、我々の義務を果たすための手段を含むからであり、またその一半は、幸福の欠如(例えば、貧困)は、我々をそそのかして義務に違反させようとする誘惑を含むからである。』(pp191-192)

純粋実践理性が目指すのは、最高善である。そしてまた、最高善は古代ギリシアの哲学が求めた対象でもあった。

『この最高善の理念を実践的にーーと言うのは、理性に適う行状を生じせしめる我々の格律にとって十分であるように規定することが、すなわち知慧の教え(Weisheitslehre)である、そしてまたこの教えは、学としては、古代の哲学者たちの解した意味での哲学(Philosophie)である。彼等の介する哲学の主旨は、ーー最高善とはいかなる概念かということと、我々はいかなる行状によって最高善を獲得できるかということとを教示するにあった。ところで理性が最高善を学に仕立てようと努める限りでは、この語の昔ながらの原義に従って、哲学を最高善に関する教えとしておくことは結構だと思う。』(p221)

理性とは、すなわち最高善にそうように行動するよう法則を打ち立てる原理であり、自然に生きていては見出せえない徳を定める教えとなる。

第2部で、実践理性の方法が述べられる。

『我々がまず第一に為さねばならないのは、我々自身の一切の行為に関してはもとより他人の一切の自由な行為を観察する場合にも、常にこれを道徳的法則に従って判定することを日常の仕事にするーーいわば習慣にする、ということである。次にこれらの行為は、客観的に道徳的法則に合致しているかどうか、また合致しているとすれば、いかなる道徳的法則に合致しているかをまず問うことによって、この制定を厳格にすることである。』(p312)

このように始終万人に妥当する、尊敬できる道徳法則に注意を向けながら生活すると、無闇なおしゃべりとか、他人に対する陰口とか、差別的発言とか、テレビ番組の惰性的鑑賞などとは無縁の生活を送らざるをえない。

『自分自身に対するこのような尊敬が十分に確立され、また人間が内心の自己吟味によって反省し、自分自身の眼に、自分が恥知らずの卑劣漢として映るほど恐ろしいことはないと覚るならば、およそ善き道徳的心意にして、かかる自己尊敬の念に接木されざるはない。このような自己吟味における自分の姿こそ、不潔な頽廃的衝動が心に侵入することを防止する最良の、それどころか唯一の監視者だからである。』(p316)
 
カントの哲学は、人間中心で、理性を重視し、キリスト教の神を肯定している点で、現代では万人に妥当する哲学ではない。神を前提としていないストア派の哲学をカントは宗教的道徳より低く見ているが、宗教が多元化している現代では、信仰に関係ないストア派の方がましなくらいである。ただ、道徳法則に関して徹底的に考察したカントの哲学は、キリスト教徒ではないかもしれない、現代人たる私たちも学ぶべきだし、批判的に遺産相続していくべき対象であり続ける。

『彼の喜びとするところは蓄財でもなければ、下品な豪奢でもなくて、広く知識を求め、選りすぐった知識人と交際することであり、またそればかりか貧しい人々に慈善を施すことである』(p83)


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