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書評:ハイデガー『ニーチェ 1 美と永遠回帰』

この記事の最終更新日:2006年6月18日

ニーチェ〈1〉美と永遠回帰
ニーチェ〈1〉美と永遠回帰マルティン ハイデッガー Martin Heidegger 細谷 貞雄
平凡社 1997-01

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20世紀最高の哲学者と言われるハイデガーによる19世紀末最高の哲学者ニーチェの読解講義の邦訳書です。講義自体は、1936年から1940年の間に行なわれたものです。第二次世界大戦へと突入するナチスドイツで行なわれたニーチェ講義。ニーチェはナチスにも支持されていますし、ハイデガーは1933年、ナチス支持の立場にありました。

1933年以降、プラトン的国家の理想論をナチスに託していたハイデガーは、ナチスが次第に見せ始めた危険性を感じ、「政治的なもの」から手を引きます。現実政治から離れたハイデガーは、古典・近代哲学の講義と、ヘルダーリンの詩解釈を大学で繰り広げます。1927年に出版され、ヨーロッパの哲学界、文化に決定的影響を与えた彼の主著『存在と時間』は、第一部のみの未完作品であり、結局、西洋形而上学の全面的解体となるべき第二部が書かれることはありませんでした。そのかわり、ハイデガーは思索者との対話とも言うべき、講義を繰り広げていきます。ハイデガーとニーチェとの対話、ニーチェ思想との対決の展開は、大変白熱したものです。

ハイデガーはニーチェ講義において最初、ニーチェを形而上学の破壊者だと論じますが、最終的には形而上学の完成者だと解釈しなおし、ニーチェの思想にも形而上学の営みが続いていることを喝破します。形而上学に対置させられるのが、ハイデガーによる「存在の思索」です。

形而上学と「存在の思索」の対置は、超人、力への意志といった、ナチスの思想とも共鳴しうる価値論中心の人間的なニーチェ哲学に対して、人間ではなく存在を中心にすえる自己の哲学を対置させるという試みでした。『存在と時間』においてハイデガーは人間存在の実存分析に終始していましたが、『ニーチェ講義』では存在そのものが思惟されています。

では、最初から読み解いていきましょう。

冒頭、ハイデガーはニーチェの主要概念「力への意志」を噛み砕いて説明します。力、意志、という言葉について、通俗的理解ではない、哲学的な解釈が執拗に述べられていきます。たった一語について、延々と述べられる解釈は、聖書の言葉を解釈する神学者の講義を連想させます。

ハイデガーが読み取ったニーチェ思想の要点を以下に述べてみます。

ニーチェ思想の中核とも呼べる「力への意志」は、存在者の中核にあるものです。生きているとは意志することであり、より大きな力を求めること、自分を充実させ、幸福と歓喜を得ることが、生きることの意義のはずでした。しかし、ニーチェによれば、ヨーロッパの歴史は、プラトンの昔より、現実的な生の世界を否定し、彼岸にある超越的世界に価値をおくものでした。

プラトンは、人間は物事の本質には直接触れ得ないと考えます。物事の本質であるイデアは、この世界にはなく、超越的世界にのみ存在します。プラトン哲学によれば、私たちは、真なる世界の幻影、陰でしかない偽物の世界に生きていることになります。このような否定的世界では、生きること、力への意志を詠うことは肯定され得ません。

ニーチェは、キリスト教にもこの現世否定の価値観を見出します。キリスト教は現世の富を否定し、彼岸にある天国での幸福を約束します。生きること、力を謳歌することが罪でしかないキリスト教的世界は、プラトン的世界と同様ニヒリズムの世界と考えられます。

ニーチェは「ここではないどこか」に価値をおいて、目の前にある現実を否定するニヒリズムの思考法を根底から転倒させようとします。今までは仮象の世界とされていた現実界が肯定され、彼岸の理想郷、イデア界、天国は、この世を否定するもの、誤謬の元凶として否定されます。

力への意志の最高の表現形態は、芸術だといいます。プラトンは、芸術を仮象世界の更なる模倣(ミメーシス)だと考え、芸術に価値をおきませんでした。例えば、人は目の前に存在する、ある一つの机を見ます。哲学者は机というものの本質、机のイデアを見ようとしますが、芸術家は、仮象のものにすぎないある一つの机を紙に写し取ることで、仮象の仮象、絵を制作します。プラトンにとってみれば芸術家は、仮象のものを鏡に写し取るようにして模倣(ミメーシス)する盗人であり、芸術とは仮象のまがいものにすぎなくなります。仮象の本質、真なるものを探ろうとする哲学者は、仮象から本質に進んでいくのに対して、芸術家は仮象をさらに仮象化させる、哲学に比べれば劣った存在者です。

対してニーチェにとっては、芸術家こそ生きること、幸福の追求、力への意志、あるがままの世界をそのまま表現しようとする存在者であり、現実を否定してどこにも存在しないイデアの世界を探求する哲学者よりも、優れた価値を持つものとなります。

総じて現実否定のニヒリズムにおちいっている一般人の中で、力への意志を肯定することは非常に難しい、孤立した作業にならざるを得ません。人間を超え出て、力への意志へ向かう存在者は、超人と呼ばれます。

ニーチェによれば、超人の歩みは悲劇的にならざるを得ません。死や不幸をそのまま描き出す悲劇こそ、生そのものを肯定する超人の芸術であり、悲劇の最終形態として、最も重い思想、永遠回帰が語られます。

永遠回帰とは、同じ現実が何度も繰り返しおこるという、東洋哲学的な考えです。永遠回帰の思想は、現実を否定的に見る者にとっては、きわめて重苦しい絶望のもとにならざるを得ませんが、現実を力強く肯定する者にとっては、何度も同じ現実が繰り返されるのだから、極めて肯定的な思想となります。

しかし、今ある生がもう一度全く同じように繰り返されること、何度も同じ生を過ごすことを必然として肯定することは、とても難しいことだとニーチェは考えます。永遠回帰の思想を必然として受け入れるために、ニヒリズムから超え出ること、新しい超人的な生を歩むことをニーチェはすすめます。

ハイデガーは、プラトン、カント、ヘーゲルの哲学、形而上学と対決して、全く独自の哲学を打ち立てようとした歴史の解体者としてのニーチェに注目します。ここでいう形而上学とは、形のないもの、現実にない、超感性的世界を思索する営みであり、形あるもの、存在者の存在根拠を問い、確立する営みのことをさします。ニーチェは彼岸に存在者の価値をおく形而上学を否定し、仮象とされてきた、生成変化する現実世界そのものの価値を肯定します。

ニヒリズムの克服者、形而上学の破壊者としてのニーチェはしかし、続く2巻『ヨーロッパのニヒリズム』においては、ニヒリズムおよび形而上学の最終形態だと指摘され、対してハイデガーの存在の思索が語られます。以降は『ニーチェ 2 ヨーロッパのニヒリズム』の解説記事をご覧下さい。


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