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書評:ハイデガー『ニーチェ 2 ヨーロッパのニヒリズム』

この記事の最終更新日:2006年6月4日

ニーチェ〈2〉ヨーロッパのニヒリズム
ニーチェ〈2〉ヨーロッパのニヒリズムマルティン ハイデッガー Martin Heidegger 細谷 貞雄

平凡社 1997-02

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ハイデガー著『ニーチェ 1 美と永遠回帰』の続刊です。早速ハイデガーによるニーチェ講義の内容にうつりましょう。


ニーチェは「真理とは誤謬である」といいます。本来世界は生成変化しているにもかかわらず、哲学者は変わらないもの、恒久不変の存在者をイデアとして確定しようとします。イデアは所詮幻想にすぎないのですが、哲学者はイデアの存在を信じます。ゆえにニーチェにとって真理とは、不変だと信ずる対象にすぎません。では、何故人々は真理の真理性を信じるのでしょうか。真理を信じ、定めることで価値が生じます。ニーチェにとって真理は価値の源泉です。真理は変わりうるし、勝者が価値をおくものが、後世真理として残ることになります。

生成変化を説くニーチェはしかし、永遠不変の真理を説く形而上学の最終完成者だとハイデガーは宣言します。何故真理の誤謬性を指摘したニーチェが真理を定める形而上学の完成者だと言われるのかというと、それは、永遠回帰の思想があるためです。真理の普遍性を否定し、生成変化する世界を肯定したニーチェはしかし、永遠に同じものが回帰してくることを受け入れるよう志向します。同じものが何度も何度も繰り返しても、絶望とならぬよう、生を肯定的に変容すること、この永遠回帰の思想は、再び恒常不変の究極真理を設定しており、形而上学の最終完成形態だといえます。

ニーチェによれば、形而上学の歴史はニヒリズムの歴史となります。形而上学は、現実世界を、真理の世界に対する仮象の世界と考え、現実に存在しているものの価値を否定します。対してニーチェは価値の転倒を試みました。すなわち、イデアの世界を否定し、生成変化している現実世界にこそ価値と充溢があるとしたのです。ニーチェにおいて形而上学の、ヨーロッパのニヒリズムは克服されるかのようですが、ニーチェは一方で何度も同じことが再現すること、永遠回帰の思想をも提唱してもいます。永遠回帰の思想は、生成変化の中で、ある特定の価値が持続することを志向する「力への意志」の思想と等しいものです。ここで価値を志向している存在者は何者かと言えば、我々人間であり、人間の中でも超人と呼ばれる存在者です。

ニーチェにとって、真理は人間が定めるものとなりました。人間は様々なものについての真理、価値を定め、地球を支配する最高の存在者となります。ハイデガーはこの状況をさして、ニヒリズムの完成形態だと言います。

『そのとき、且つそれとともに、完成した無意味さの時代が始まる。この命名において<無意味なもの>という言葉はすでに、形而上学全体を(その価値転換への逆転と逸脱をも)通り超える存在史的思索の概念として用いられている。(…)無意味なものとは、存在の真理(明るみ)を喪失しているものである。このような投企のいかなる可能性も、形而上学の内部では真理の本質の除去にもとづいて拒まれている。存在者の真理の本質への問いと存在者に関わる営為の真理の本質への問いでさえもすでに決定済みになっているところでは、真理の本質へのいっそう根源的な問いたる存在の真理への省察などは、いよいよもって欠落せざるをえない。」(p251)

ハイデガーは、真理とは何かがすべて決定済みのニーチェ思想においては、存在の真理、意味が問われることがないと指摘しています。以下に掲げる引用文は、ニーチェの人間中心の思想をハイデガーが批判する部分ですが、「問いの抑圧」「総動員化」「奉仕」などという部分は、ニーチェ批判にナチス批判の意味を重ねているように思えます。

『作為は、自分自身を追求する無条件な命令のもとでのみ、その地歩を保ち、すなわちおのれを持続的に存立させることができる。やがて作為によって無意味さが力を得るようになると、意味の抑圧、そして存在の真理を追求するあらゆる問いの抑圧は、さまざまな<目標>(価値)の技術的編成によって置き換えられざるをえなくなる。人々は、生がまず総動員化されると、あたかもその総動員化がそれだけで何かの変革であると思いこみ、それが力への意志から発して力への意志のために行なわれる無条件な無意味さの組織化にすぎないことも悟らず、当然のこととして<生>による新たな価値の確立を待望するようになる。このように力を力づける制定は、まだそれ自身のうちに根拠をもちうるような<範型>や<理想>を、もはや基準にしない。これらの制定は、単なる力の拡張に<奉仕>するのであり、そしてそれを基準にして評価された効用価値によって評定されるにすぎない。したがって、完成された無意味さの時代は、表象と造成のもつすべての計算的要素を極限にまで推し進めるさまざまな<世界観>の威力的な案出と貫徹の時代である。なぜならこれらの世界観は、その本質上、人間が存在者のうちで自己を恃んで行なう自己体制化ーーそして地球圏のあらゆる権力手段とこの地球圏そのものとに対する人間の無条件な支配ーーから発源するものなのである。』(p252)

上から引き続く文章もまた、ニーチェ批判に託してナチス批判が語られていると解釈できる箇所です。

『存在者がそれぞれの個別の領域において何であるかは、かつては<イデア>という意味で規定されていたが、この<何であるか>は、いまや、造成され表象さるべき存在者そのもの(芸術作品、技術的生産、政治組織、人間の個人的・社会的秩序)がいかなる価値をどれほどそなえているかを明示するものとして、人間の自己体制化が初めから勘定に入れるところのものになる。自己体制化的な計算が、<価値>(文化的価値、民族的価値)を発明するのである。価値とは、本質の本質性(すなわち存在性)を、算定可能なものへーーしたがって数と空間量によって評価しうるものへーー翻訳転化したものである。偉大なものはいまや、一種独特の大いさーーすなわち巨大さーーの本質を帯びてくる。巨大さは、小さいものをますます大きいものへと押し上げていったときに初めて生ずる結果ではなく、むしろその昂揚の本質根拠であり、衝動であり、目標なのであって、その昂揚そのものは、何ら量的なものには存しないのである。』(pp252-253)

このあたりハイデガーの言葉遣いは絶好調です。。ニーチェ思想への批判はすなわち、近代合理性を否定し、破壊し、廃棄し、逆転したナチスが、生の充溢と昂揚を語りつつ、その実極めて合理的、計算的にユダヤ人を大量虐殺した事実の批判とも聴き取れます。

さらに続いて、ニーチェの哲学が何故形而上学の、ニヒリズムの、無意味さの完成形態なのかが語られます

『したがって、形而上学の完成、すなわち完成した無意味さの樹立と固定化には、<すべての価値の転換>という形態での形而上学の終末への極限的な委付しか残されていない。なぜなら、ニーチェによる形而上学の完成は、さし当たっては、プラトン主義の逆転である(感性的なものが真の世界になり、超感性的なものが仮象の世界になる)。しかしそれと同時に、プラトンの<イデア>が、しかもそれの近世的形態においては、理性原理となり、そしてこの理性原理が<価値>になっているのであるから、プラトン主義の逆転は<すべての価値の転換>になるのである。そこでは、逆転されたプラトン主義は、盲目的に硬直化し平板化される。いまや、自分自身のために自分へ向かって自分自身を力づける<生>という唯一の平面だけが、わずかに存立するのみになる。形而上学は存在性をideaとする解釈から明確に始まるかぎり、それは<すべての価値の転換>においてその極限的な終末に到来するのである。この唯一の平面こそ、<真>の世界と<仮象>の世界との廃棄の後にも残存するものであり、これが永遠なる回帰と力への意志との同一なるものとして現われ出るのである。』(p253)

では、ニーチェの思想に対して、存在の真理(明るみ)を思索するハイデガーの思想とはどのようなものなのか。ギリシア語の「真理」とは、プラトン以前の哲学者が言う真理とは、どのようなものなのでしょうか。プロタゴラスとデカルトとの対照によって、存在の明るみの思想が明らかにされます。

『一、プロタゴラスにとっては、人間は隠れない圏域への帰属性によって、彼の自己存在において規定されている。デカルトにとっては、人間は世界を人間の表象へ向けて引き取ることによって自己として規定されている。
 二、プロタゴラスにとってはーーギリシア的形而上学の意味に沿ってーー存在者の存在性は、隠れないところへの臨在である。デカルトにとっては存在性は、主体によって且つ主体に対して、前に立てられ(=表象され)ていることである。
 三、プロタゴラスにとっては、真理は臨在するものの隠れなさを意味する。デカルトにとっては、それは、自分の前に立てて表象し確かめる表象の確実性である。
 四、プロタゴラスにとっては、人間が万物の尺度であるのは、隠れないものの圏域と隠れたものの限界とにみずからを抑制する節度という意味においてである。デカルトにとっては、人間が万物の尺度であるのは、自分自身を確かめる確実性へと向けて表象を無制限化する僭称の意味においてである。その尺度提示は、およそ存在するものとして通用しうるすべてのものを、(前に立てる=)表象の計算に服させるのである。』(pp431-432)

現象の隠れないところへ臨在すること。隠れているものを明らかにすることが真理だというプロタゴラスの形而上学は、隠れてある存在するものが中心におかれています。人間主体を中心に世界を計算するデカルトの形而上学とは全く異なるものです。ハイデガーは、形而上学の歴史において忘却されてきた存在そのものについての思索をすすめることを提唱しており、存在についての思索を放免したニーチェとは著しく異なっています。


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