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書評:サイード『文化と帝国主義』

この記事の最終更新日:2006年5月23日
文化と帝国主義〈1〉
文化と帝国主義〈1〉エドワード・W. サイード Edward W. Said 大橋 洋一

みすず書房 1998-12


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サイードはパレスチナ出身であり、ポスト植民地主義思想の代表的思想家です。第二次世界大戦後、ヨーロッパの思想は、ヨーロッパ自体の解体作業に取り組みました。一方で、マルクスの思想はスターリンによる独裁、恐怖政治という間違った実績を生み出し、他方でファシズムと共鳴するハイデガーの思想は、ドイツ民族中心主義、ユダヤ人虐殺というナチスの悲劇と並走しました。ハイデガー、マルクスとも、その思想の大きな部分をヘーゲルらドイツロマン派の思想に負っています。ドイツロマン派の思想は古代ギリシアの理想の具現を夢見ています。こうした理想が、望まない結果、ギリシア悲劇よりも悲劇的な20世紀の現実を生んだ以上、第二次世界大戦後、ヨーロッパの知性は総じてヨーロッパの知的体系自体の解体を志向します。

ヨーロッパがナチスの問題、共産主義の問題、ユダヤ人虐殺の問題に取り組んでいる最中、ユダヤ人に攻められたパレスチナに出自を持つ思想家は、西洋対東洋、西洋対植民地という姿勢で、ヨーロッパからは出自しえない、新しい思想体系を打ち立てます。共産主義/ファシズムという全体主義の分析作業に取り組むヨーロッパの思想家は、帝国主義、植民地主義など解決済みの問題だと思っていました。しかし、20世紀こそは、ポスト植民地主義の世紀であり、帝国主義的浸食が、武力だけでなく、文化思想と経済思想の侵略という形で、どんどん進展している時代だったのです。

ポストコロニアル思想は、支配者による被支配者文化の解釈を行なう人類学に対するアンチテーゼとして己を出現させます。21世紀において生きて行く上で、ポストコロニアリズムを知らずして生きるのと、知って生きるのでは、大きなずれが生じていくことでしょう。

(以下の文章は大学時代の卒業論文をもとに作成されています)

『オリエンタリズム』と並ぶサイードの主著『文化と帝国主義』の要約のようなものを創ってみる.特に注意するのは,サイードが「アイデンティティ」「歴史=物語」「権力」「知識人」についてどのように語っているのかということである.いわば,私の問題関心にしたがって,要約に似たような抽出作業が行われるわけである.

はじめに,サイードの使う主要語句について定義する.サイードは文化という言葉に,「記述法とかコミュニケーションとか表象のような慣習実践」(サイード 1998; p2-3)という意味と,「洗練化と高尚化をうながす要素をふくむ」「おのおのの社会にある…これまで知られ思考されてきたもののうち最良のもの,それの保管庫」(以上サイード 1998; p4)という2つの意味を与える.

サイードは文化と関連する「物語」が議論のかなめであることを読者に告げる.

『物語こそ,わたしの議論のかなめであり,わたしの基本的な観点とは,探検家や小説家が世界の未知な領域について語ることの核心には,物語がひそむこと,また物語は,植民地化された人びとが,みずからのアイデンティティとみずからの歴史の存在を主張するときに使う手段ともなるということである.帝国主義における主要な戦いは,土地をめぐるものであるということはいうまでもない.しかし,誰がその土地を所有し,誰がそこに定住し耕作するのか,誰が土地を存続させるのか,誰が土地を奪い返すのか,誰がいまの土地の未来を計画するのかが問題になるとき,こうした問題に考察をくわえ,異議をとなえ,また一時的であれ結論をもたらすのは物語なのである.ある批評家が示唆したように,国民そのものも物語である.物語る力,あるいは他者の物語の形成をはばむ力こそ,文化にとっても帝国主義にとってもきわめて重要であり,文化と帝国主義とを結びつける要因のひとつともなっている』(サイード 1998;pp3-4)

西洋発のテクスト理論などでは,一時期直線的な物語という概念が批判された.それにともなって,1つの線に従って発展成長していく歴史という概念も否定された.しかし,サイードはあえて物語という概念を復活させる.物語も歴史も終焉したというが,世界をみればいたるところで物語行為が行われている.西洋の知が,第3世界での歴史を生み出す運動をないものとして欄外に扱っていることが,暗に批判されているのである.

先の引用の最後に出てきた言葉,この著作の題名ともなっている「帝国主義」を,サイードは「遠隔の領土を支配するところの宗主国中枢における実践と理論,またそれがかかえるさまざまな姿勢」(サイード 1998; p40)と定義している.

サイードは物語=歴史概念を議論の中心にすえると宣言している.では,アイデンティティについてはどうか.先程サイードが定義した文化の2番目の意味,文化=教養が,アイデンティティの源泉であるとサイードは言う.「文化(=教養)が『われわれ』と『彼ら』を区別する」(サイード 1998;p4).サイードは,アイデンティティが文化によって創られることを事実として認証しはするが,そのアイデンティティの創られる過程を問題視する.

『文化区分とか文化的差異によって,わたしたちは,ひとつの文化をべつの文化から区別できるようになるだけでなく,文化がどの程度まで,権威と社会参加によって構成された人間的構築物であるかについて,文化が,みずから吸収したり高く評価するものに対してはいかに寛容で,みずから排除したり軽んじたりするものに対してはいかに不寛容であるかについて,理解できるようになった.国民国家として既定される文化すべてに,主権と支配と統治を求める野望が存在すると,わたしは信じている.…と同時に,逆説的なことだが,歴史的・文化的経験は,じつに奇妙なことに,つねに雑種的で,国家的境界を横断し,単純なドグマや声高な愛国主義といった政治的行動などを無視してかかる.このことを,いまわたしたちは気づきつつあるが,昔はみえていなかった.文化は,統一的で一枚岩的で自律的などころか,現実には,多くの「外国的」要素や,他者性や,差異を,意識的に排除している以上に実際はとりこんでいるのだ』(サイード 1998; p50)

実際の状況として,アイデンティティが創られる時には,自己と他者は複雑に混ざり合うし,アイデンティティが完成した暁にも,自己の中には絶えず他者の要素が混入している.しかし,アイデンティティが表象されるとき,自己は完全に自分が一枚岩であるという虚構を主張し,劣等だと自分が思う他者を自己から排除する.排除される他者は自己の中に混ざっているから明確に他者ではないのに,「あれは他者だ」として排除してしまうのである.この個人におけるアイデンティティ論を,西洋が自己を確立する様式に重ねたのがポストモダンの知識人たちであった.サイードらポストコロニアリズムの思想家はその考えを徹底させ,より排除される第3世界の側にたって立論していくのである.

ここまでは,サイードが「アイデンティティ」をどのように捉えているのかという問題関心にしたがって,彼の著作からエッセンスを抽出してきたわけだが,ここからは批判しつつ要約する行為に移行する.そして最後に,アイデンティティを中心にして抽出した概念の整理を行う.

サイードは彼の考えを論理的に証明するために,著作のなかで批評行為を行う.第1章,第2章では,西洋の文学の正統として認められてきた大作家であるコンラッド,オースティン,ディケンズ,カミュらの作品が,いかに帝国主義の思想,戦略の影響下にあるかを,作品の読解に沿ってみていく.「テクストを読むときに,わたしたちはテクストを,テクストに流れ込んでいるものと,作者がテクストから排除したものの両方に関連づけて読まなければならない.」(サイード1998; p139).その「対位法的」と彼がいう読みによって,帝国主義と小説との関係が明らかにされる.「そこでわたしが特定すべきは,小説による貢献がいかなるかたちでおこなわれたかであり,またこれとは逆のことだが,一八八〇年以降浮上し蔓延したより攻撃的で帝国主義的な感情を,どうして小説は緩和することも禁ずることもなかったのかということである.」(サイード 1998; p180)(註1).

日本語版の第2分冊にあたる第3章,第4章でサイードは,西洋が他者を取りこんでいるという事実を指摘することにとどまるだけでなく,排除された他者によってこそ西洋が成り立っているという論点を主張する.そこでとりあげられるテクストは,ファノンら植民地側の知識人が書いたテクストである.

第3章では,西洋の支配に対していかに抵抗していくかという,抵抗する主体の問題が語られる.抵抗する主体のあり方については,西洋の知識人側からも,抵抗する側の知識人側からも,様々な批判が寄せられている.

『まさにこれが抵抗にまつわる悲劇めいたなりゆきなのだ.つまり抵抗は,帝国文化によってすでに樹立された諸形式,あるいはすくなくとも帝国文化の影響をうけ,帝国文化にどっぷりつかった諸形式,それらを再発見し利用することを,どうしても余儀なくされるからである』(サイード 2001; p35)

抵抗する主体が抵抗のために持ち出すナショナリズムなどの理論は,西洋の知からの借り物にすぎない.抵抗が達成されても,新たに作られるシステムが西洋のシステムの繰り返しとなる可能性もある.「支配に抵抗する新たなアイデンティティの構築」という視点からも,この議題は本論にとって注目すべき問題である.

サイードは,脱植民地化における文化的抵抗の3つの大きな主題をあげる.彼が私や西洋の知識人と同じように,ただ単に「3」というマジックナンバーにこだわったため,多様なはずの抵抗は3形態に縮小されてしまっているのであるが,サイードは3つが相互に関連しているという注意を沿える.

第1は,「民族共同体の歴史を,まるごと,首尾一貫したかたちで,全体的に見渡す権利を主張すること」(サイード 2001; p44)である.この態度をとる場合は,「ローカルな奴隷物語や精神的自叙伝や投獄回想録が,西洋列強の記念碑的な歴史書や公式記録や俯瞰的な擬似科学的観点をむこうにまわした対抗手段となる.」(サイード 2001; p45).民族の文化・歴史が活性化され,新たな想像の共同体が創られようとする.サイードは,それが1つの民族による1つの文化というだけでなく,スペイン領アメリカにおけるようにクレオール社会によるクレオール文化になることも指摘しているので,ノスタルジックな歴史の創造を一辺倒に批判しているわけではない.

第2は,『抵抗を,帝国主義に対する単なる反応ととらえるのではなく,人間の歴史を構想するオルターナティヴな方法とみなす考え方である.とりわけ留意すべきは,このオルターナティヴな再構想が,文化間の境界を越えることなくして,礎を築けないことだ.ある魅力的な本のタイトルがしめしているように,宗主国の文化に,文筆で逆襲すること,オリエントやアフリカに関してヨーロッパ人がこしらえた物語を撹乱すること,ヨーロッパ人による物語を,それよりももっと遊戯的で,もっと強力な新しい物語様式に取り替えること,これがこのプロセスの主要な構成要素となる』(サイード 2001;pp45-46)
 
第1の抵抗の主題は,抵抗を強大な支配者に対しての反抗としてしか捉えきれていなかった.支配と抑圧の2項対立の枠組を是認したうえでの抵抗だったのに対して,第2の抵抗の主題では,抵抗運動というものを,支配に対する反抗としてのみ捕らえるのではなく,ヨーロッパ発のものとは全く違う新しい歴史構想の試みととらえている.第3の主題は,「分離主義的なナショナリズムから明白に離反し,人間の共同体と人間の解放を統一的に考える傾向」(サイード 2001; p46)である.第1,第2の主題とも形は違えど「ナショナリズム」の概念内で事象を捉えていたのに対して,第3の主題ではナショナリズムの考えを抵抗の文脈に持ちこまない.

かといって,サイードは先進的知識人を気取ってナショナリズムを否定しさるわけでもない.

『ただし,単純な反ナショナリズムの立場を標榜しているだけと,ここで誤解されたくはない.組織化された政治活動としてのナショナリズム  共同体の復権,アイデンティティの主張,新しい文化実践の台頭が非ヨーロッパ世界のいたるところで西洋の支配に対する抵抗を刺激し推進してきたことは歴史的事実である.この事実に抵抗することは,ニュートンによる重力の法則に抵抗することと同様,無駄である』(サイード 2001; p48)

それでは最後に,西洋的な思考法の伝統にしたがって,『文化と帝国主義』内で語られてきた『アイデンティティ』がどのようなものであるかをまとめてみる.

アイデンティティとは,西洋が表象してきたような1つの確固として自律したものでなく,複雑な相互依存によって成り立っている,というのがサイードの呈示するアイデンティティ概念である.自己を確立して他者を排除していこうとする権力の働きを警戒する姿勢がうかがえる.
 
『文学経験は,たとえいくら国境が定められていても,またいくら強制的に制定された国民的自律性が存在していても,たがいに重なりあい,相互に依存しあうのであって,この現実的な新形態をわたしたちがひとたび受け入れるなら,歴史も地理も,新しい地図として,新しく,はるかに流動的な実体として,新しいタイプの関係性として,生まれ変わるはずである』(サイード 2001; p213)
 
アイデンティティの構築には,文化,文学という物語が影響する.一枚岩な文化,明確に線引きがなされた境界という誤った概念を捨て去り,実際にある文化の複合的な状況を受けいれれば,アイデンティティも流動的な関係として表象されるはずだという意見である.

サイードもスピヴァクもトリンも,今回は主題としてあげなかった表象の問題が議論の中心となっている.生物学的に確認されるような事実よりも,言葉による表象,文化の方を重要視する.表象の恣意性を疑う立場にたてば,生物学という科学知も文化によって表象され,作られたものにすぎないという見解となる.表象がいかに他者を支配し,抑圧することに貢献しているのかが語られる.議論の大前提となるのは,表象と具体的現象を混同しないことである.

歴史=物語,権力などについてサイードがどう捉えていたかは,アイデンティティ概念を抽出する過程で明らかにした.すなわち,歴史=物語は,その物語内にいる人々の,国家のアイデンティティを作りあげるし,ある物語が別の物語を破壊し領土を占拠してしまう場合もある.権力については,フーコー的な微細で,個人の抵抗が不可能な権力観を離れ,帝国主義というコンテクストで権力を扱う.帝国という支配者に対して抑圧者は抵抗が可能であるし,別の歴史観,価値観で支配概念を解放させることもできる.
 

知識人のあり方について

補足として、サイードの考える知識人のあり方について簡単に説明しておく.簡単に言ってしまえば,サイードのように支配体制を問い,抑圧者の立場にたって現状の刷新をはかるのが,サイードの考える知識人像である.支配体制の価値観を疑わないものは知識人とは呼べない.知識人は虚構を暴き,本質主義的分類法の誤りを正すのである.
 
『文化批評をこととする知識人にとってなすべきことは,アイデンティティ中心の政治を所与のものとして受け入れるのではなく,いかにしてすべての表象が,いかなる目的によって,いかなる人物によって,いかなる構成要素によって,構築されているかを示すことなのである』(サイード 2001; p207)

知識人とは全てサイードのように左翼にならなければならないのか,という批判に対してサイードは『知識人とは何か』(1998b,平凡社)のなかでこう答えている.

『ただし,講演のなかで試みたのは,知識人について,右翼か左翼かを取り沙汰することではなく,その公的活動が予測できない意外性にとみ,その発言がなんらかのスローガンや党の綱領や硬直化したドグマにとりこまれたりしない,そんな人間として知識人を描くことであった.わたしが示唆しようとしたのは,知識人個人にとって,人間の悲惨と抑圧に関する真実を語ることが,所属する政党とか,民族的背景とか,国家への素朴な忠誠心などよりも優先されるべきだということである』(サイード 1998b; p15)

明快な政治的闘士としての知識人像が浮かび上がる.「真実」などという古い概念を使っているし,やはり文学批評を離れたらサイードは単なるアジテイターではないのかという疑惑が浮かんでくるが,知識人と専門エキスパートの違いなど示唆に富む議論もこの著書にはある.サイードは,現代の専門家の権威に盲従し,社会の支配体制を疑わない姿勢を批判している.



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