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評論:「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大」序論

この記事の最終更新日:2006年4月23日

当サイト作成者さいどひるの論文です。このページでは序論を掲載しています。


平成14年度社会学部学士論文
「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大〜ポストコロニアリズム、トラウマ治療理論、軍事心理学の差異をみる」


目次

序論

第1章 ポストコロニアリズムとの対話
1-1  取り上げる人物,文章を選択した理由
1-2  サイードを読む
1-2-1 『文化と帝国主義』を読む
1-2-2 知識人のあり方について
1-3  スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』を読む
1-3-1 概観
1-3-2 「1 批評,フェミニズム,そして制度」を読む
1-3-3 「2 ポスト・モダン状況 政治の終焉?」を読む
1-3-4 「3 戦略,自己同一性,書くこと」を読む
1-3-5 スピヴァクの議論のまとめにかえて
1-4  トリンを読む
1-4-1 著作説明
1-4-2 アイデンティティと権力について
1-4-3 歴史と物語の違いについて
1-4-4 芸術家,作品,受容者の関係について
1-5  ポストコロニアリズム理論の包括的概念抽出

第2章 精神医学のトラウマ治療理論とポストコロニアリズムとの対話
2-1  医療人類学の批判的摂取
2-2  「心的外傷後ストレス障害」の精神医学的定義
2-3  ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』を読む
2-3-1 概観
2-3-2 第1部「心的外傷後障害」を読む
2-3-3 第2部「回復の諸段階」を読む
2-4  ポストコロニアル状況とポストトラウマティック状況の差異

第3章 軍事心理学とポストコロニアリズムとトラウマ精神治療理論の対話
3-1  サイードの軍人表象はオリエンタリズムだ
3-2  マクナブ『SAS特殊部隊知的戦闘マニュアル』を読む
3-3  知識人と知的エリートの差異

結論にかえて「抗議をやめて講義を受けよ」

文献目録

結論2



序論


 この論文では,主にポストコロニアリズムを扱う.論文,といっても,この文章全体は,何ら学術的に権威ある文章を書こうという意図をもって書かれるものではない.他から隔離された透明で特権的な位置に自分を置き,科学的な知の様式で判断する主体を装うことの問題性は,ポストコロニアリズムの理論家によって,何回も指摘されている.よって,この「論文」では,論文に使用するのは望ましくないとされている「私」という1人称を頻繁に使うことにする.
「わたしたちの特権を損失として捨てることを学ぶこと」(スピヴァク 1992; p25)「試してみなさい,あなたはそれが好きになるかもしれません.あなたが周縁の一部であるかのように振舞ってご覧なさい.あなたの特権を捨てることを学びなさい.」(スピヴァク 1992: p59)スピヴァクがこう書き記すように,できるだけ特権を捨て去り,特権的な位置にいた時には見えなかった周縁性に気づけるようにする.自分の書くものが中心を確立して「論文」として形成される時,どれほど多くの周縁を排除してしまうのか,「論文」主体を確立する時に起きてしまう問題点に絶えず注意しながら,文章を書いていこうと思う.
 この「論文」では,ポストコロニアリズムから生まれた新しいアイデンティティ概念をまず主軸にそえる.この新しいアイデンティティ概念に一体どれほどの可能性があるのか,ポストコロニアルという文脈を離れても,その「アイデンティティ」概念は有効性を広く持ちうるのか,それを見極めてみたい.もちろん,ポストコロニアリズムが産み出した「アイデンティティ」概念が,広く一般に浸透することで,新たなる抑圧概念となってしまうことを助長するために私はこの文章を書くのではない.むしろ,旧来の固定的なアイデンティティ概念から生じてしまう抑圧がより少なくなるように,この流動的で自由なアイデンティティ概念が,果たしてどこまで他の諸理論と共鳴し,旧来の考え方を突き崩していけるのかを私は見てみたいのだ.
 第1章では,サイード,スピヴァク,トリンというポストコロニアリズムの主要な3人の理論家が「アイデンティティ」をどのように再定義しているのかをみる.なぜ,この3人が理論家の「代表」として選ばれたのか,ビッグネームということで選ばれたことに過ぎないではないかという反論がすぐに上がろう.抑圧されているものの声のうちから,目につきやすい代表者の声だけを選び出し,それに特権的地位を与え,あとの抑圧者の声を隠蔽してしまうことは,マルチカルチュラリズムの抱えている問題として,ポスコトロニアリズムの理論家によって,何回も提唱されてきた(例えば,スピヴァク 1992;pp107-120 ).この論文でも私は,西洋知識人と同じような代表選びのあやまちを繰り返そうとしている.しかし,ポストコロニアルのアイデンティティ概念を抽出し,他の理論と対話させるということが,この論文の一応の「目的」であるから,どうしても全ての抵抗主体の声を聞くことを断念せざるを得なかった.1つの目的を選択したことによって,可能性の1つを排除することになったのだが,抑圧を産み出してしまったことの責任を背負いつつ,彼らの声を捨象してしまったことを胸に刻みながら,論文を創造したいと思う.
 改めて,なぜ,この3人か.やはり,ポストコロニアルの代表的理論家ということで,その文章の内容は非常に示唆に富むものだから,彼ら3人(彼1人と彼女2人)の理論を俯瞰的にみれば,ある程度ポストコロニアルの「中心」にある理論を抽出できるのではないかと考えたゆえであった.もう既に前の文章は,俯瞰的に見る態度,中心概念を抽出しようとする態度など,ポストコロニアル理論からみれば,問題だらけの態度を含んでいる.そもそも,ポストコロニアリズムの概念群を「ポストコロニアル理論」として一括りにして語っていいのかという問題もある.このように,絶えず自分の産み出す言説に対して警戒し,自己反省しながら進むしかないので,読者はこの遅い歩みを我慢して欲しい.論文を産み出す行為自体問題にされているのに,そこであえて科学的な論文を執筆しようとしているのだから,このように慎重にならざるを得ないのだ.
 アイデンティティについてみるということは,必然的にそれに付随する概念も考察することになる.特に,アイデンティティとは切り離せない「歴史=物語」,「権力」「知識人のありかた」,という概念群について,第1章では考察していく.歴史を物語る行為によってアイデンティティは構築されていくわけだし,他者との権力関係によって,アイデンティティは定められていく.アイデンティティを考察するサイードらは知識人である.自分の置かれている位置を絶えず問題にしなければならないため,知識人であるとはどういうことかという問題も重要になってくる.
 これらの概念を各理論家の著作群から抽出する.その後に,その過程で,比較・相違点の対比など「分析」が行われてしまうわけだが,できるだけ特権的な位置にいるこちらでまとめてしまわないように,差異は差異のまま,混沌とした状態をさらけ出せるようにしたい.
 第2章と第3章では,第1章で執筆者の恣意と独善により抽出された(できるだけ恣意と独善に陥らないように努力するわけだが,どうしてもそうなってしまうことはしょうがない.恣意などではないとごまかすことは,ますます抑圧的である)ポストコロニアル・アイデンティティ概念と,その他の学問におけるアイデンティティ概念の対話を行う.あくまで,対話である.弁証法的に2つの学問体系の葛藤が解決されて,統合概念ができてくるわけではない.差異は差異のままとして,さらけ出させる.ただし,ただ単に並べて放置するのではなくて,両者の相違点を考察し,2つの類比によって立ち現れる,何ら特権的ではない,ただ単に新しいだけの考え方などをみていきたい.
 第2章では,精神医学におけるトラウマ治療の言説を「分析」する.分析するに際して,まず分析する主体として,私は医療人類学の立場を選ぶ.もちろん,この医療人類学の立場がもつ特権性は,ポストコロニアリズムの見方によって,絶えず警戒される.医療人類学的な知の立場から,精神科医がトラウマを治療するとき,何が問題になるのかを明らかにした後に,実際にトラウマ治療理論を展開した文献として,ハーマンの『心的外傷と回復〈増補版〉』(1999,みすず書房)を取り上げ,その文章全体を医療人類学とポストコロニアリズムの知を使って,批判的に考察する.
 なぜトラウマの文献を取り上げたかと言えば,心的外傷後ストレス障害に苦しめられている人々が,第3世界で抑圧されている人々と同じような状況に陥っていると思ったからである.心的外傷の加害者と被害者の関係は,西洋と周縁の関係のアナロジーとなりうると思ったから,この理論をとりあげたまでだ.似ているようで,似ていない.単なる特権的な位置にいる執筆者の突飛な空想による類推と思われるかもしれないが,十分にトラウマ理論とポストコロニアリズムは対話できると思う.特に,ハーマンの著書の後半にある,トラウマの治療過程を叙述した部分は,ポストコロニアル状況に十分応用がきく可能性を持っている.批判するべき部分は批判して,2つの理論の対話創造を試みてみる.
 また,なぜ特にハーマンの文献を取り上げたかと言えば,ハーマンの文献がPTSDの文献としては代表作として扱われているという,またもやビッグネームばかりを表象するという私の癖が出たためである.そのような悲観的な理由の他にもいくつか弁明的な理由はある.ハーマンの文章が,フェミニストとして,既存の医学権威に反抗するようにして,より現実にあった新たな概念を打ちたてるようにして書かれていること,また,ハーマンが徹底的に被害者の立場にたって書いていることにも共感した.ポストコロニアリズムの立場にたてば,まだまだ問題含みではあるが,ハーマンが実践している治療法はポストコロニアリズムの抵抗運動に新たな側面をつけ加えるだけの魅力を持っていると判断したため,この文献を取り上げた.
 第3章では,軍事心理学の文献を取り上げる.軍事心理学とは,戦場で兵士がいかに能率的に行動できるか,どのような軍事訓練が効果的か,よい指揮官の条件は,など軍隊が勝つための方法を考える功利的な心理学である.ポストコロニアリズムの立場からすれば,西洋が周縁を抑圧するための軍事行動にも,周縁国が西洋に対抗するための軍事行動にも賛成できるはずがない.軍事行動の効率化を計る軍事心理学の考え方は,ポストコロニアリズムの考え方と真っ向から対立するはずのものである.
 ポストコロニアリズムを含めた,社会学部で習ってきた学問体系とは全く異なる言説で書かれた軍事心理学の文献は,私にとって大変刺激的だった.社会学部のイデオロギー構図からすれば,社会の規範を疑問視することなく体制に従う者,権力支配の構図,抑圧を問わないでエリートの道を進んで行く者など批判の対象にしかなりえなかった.知識人論は昔からさかんに唱えられ続けているのだが,社会内で有益な立場にたつエリートなど,まっこうから皮肉をもって批判するばかりで,彼らを生み出すために貢献している産業心理学など,はなから相手になどされていなかったのである(という思いこみは執筆者の偏見だろうか).
 全く相手にしない馬鹿にした扱い方,相手の声をまともに聞こうともしないで表象しようとする態度は,まるで19世紀以前の白人の知識人が,黒人を表象する態度に似ている.また,ポストコロニアリズムの知識人など反社会的異分子にすぎないと決めつけて,精密に彼らの本を読みもしないで罵倒する保守派の知識人の態度に似ている.軍人と知識人の言説は違いすぎていて,話が全く噛み合わない.左翼と右翼以上に,エリート軍人と反戦知識人は,全く違う価値観に基づいて生きている.その噛み合わない両者間の間での対話を第3章では試みるのである.私自身いくらかポストコロニアリズムの知識人よりの立場にあるので,その立場に固執しないようにして,軍事心理学の声を素直に聞き取ってみる.
 軍事心理学の文献で推奨されているエリート兵士は,西洋社会で一般的に推奨されているエリート像と重なる部分がある.例えば,ビジネスマンに推奨されているようなエリート像と軍事エリート像は多くの部分で重なっている.私は,それを「知的エリート」と仮に命名することにした.知的エリートとポストコロニアリズムほか社会科学の文脈で推奨される「知識人」は,同じように社会内の知的特権者なのだが,その知の在り方,および慣習=実践は全く異なっている.サイードによって推奨されるような現代的な知識人と知的エリートの違いを明確にし,かつ,軍事心理学で推奨されているアイデンティティ概念をポストコロニアルのアイデンティティ概念を使って批判する.
 さらにこの2者の呈示するアイデンティティ像に対して,第2章で取り上げた精神医学のトラウマ治療の目標とする,規範的に理想化されたアイデンティティ像がどのように関わってくるのかをみる.精神医学が推奨するアイデンティティは,いささか社会が公然と認める理想の人間像と重なっているので,軍事心理学が推奨するアイデンティティ像とも功利主義的だという点で重なっている.おそらく,精神医学の推奨するアイデンティテイ像は,軍事心理学とポストコロニアリズムが推奨するアイデンティティ像のちょうど中間あたりに位置していると考えられる.この3者の関係を批判的に整理し,問題点を考察する.
 それと同時に,第2章で試験的に試みられた,トラウマ治療の理想とするアイデンティティとポストコロニアリズムのアイデンティティとのいくらか部分的な接合作業を,第3章でも継続することとする,決して3者の合一など望まないようにしながら.
 以上この論文の全体で試みられるのは,ポストコロニアリズムの文脈で語られてきた新しいアイデンティティ概念の拡大・解放である.ポストコロニアリティ内の文脈で語られてきた新概念を新たなる支配概念として流通させるためにではなく,より多様性を増やし,自由の可能性を広げるためにこの文章は書かれる.
 ポストコロニアリズムという言葉が序論だけで何回も出てきた.この言葉は,トラウマと同じように流行の概念である.長すぎるので,ポスコロなどと簡略化されることもあるが,1章で取り上げるサイードも,スピヴァクも,トリンも,ポストコロニアリズムなどという言葉をあまり文章内でもちいることはしない.自分たちをポストコロニアリズムの人として一括りにされることを拒んでもいる.流行の言葉は,外部から押し付けられることで流通してきた.構造主義者しかり,ポストモダニストしかり.マルクスは「私はマルクス主義者ではない」と言ったのだが,彼ら知識人たちもポストコロニアリズムの流行に対して同じような侮蔑感を抱いていることだろう.私自身,序論だけで何回もポストコロニアリズムという言葉がクリシェのように出てきたことを気持ち悪く感じた.できるだけ頻繁に使いたくないのだが,別の簡略な言葉をポストコロニアリズムに与えても同じような気持ち悪さは残るだろうし,論文の目的上この言葉の反復は仕方がないことなので,今回はこの論文のえせ文化人的な言説構造をあえて見逃していただきたい.
 今後もこの論文は序論におけるように,ゆっくりとした歩みで進んでいくことを了承されたい.また,透明な主体の位置にたって,他人の文章をまとめあげるという作業にあまり価値を認めないため,テクストの読みがこの論文の骨格となる.理性的主体の立場から見れば,この論文は論文になる以前の,要約的下書きのように思われてしまうかもしれないが,そのような特権的裁定者の立場を疑うことが論文の主旨としてあるので,この体裁を選択せざるを得なかった.
 また,本来は第2章のトラウマ治療の章だけで論文を書こうとしていたのだが,ポストコロニアリズムの概念を詳細に把握する必要性が生じたことなどによって3章構成となった.各章1つで1本の論文になるほどの分量になってしまったことをお詫びしたい. 大学時代学んだことの総決算を成そうとしたら,このような分量になってしまったのだ.
 最後に,論文体裁上の若干の説明をする.脚註は各章の末尾に記入した.また,外国語で書かれた文献は,日本語の翻訳に頼った.よって,本文中の引用は全て翻訳本からとられている.引用元の発刊年の表記も翻訳本が発刊された年代であることを注意されたい.
 巻末の文献目録では,本文上で多大に引用したようなこの論文にとって重要な外国語文献については,外国語による原著の情報と日本語による翻訳本の情報の両方の情報を記した.だが,本文にそれほど密接に関係してこない外国語の翻訳本については,翻訳の情報のみを記述し,原著の情報については割愛した.このことについては,巻末の文献目録の最初にももう1度記すことにする.
 また,サイードの『文化と帝国主義』のように原著は1冊だが,日本語版では2分冊になっているものを引用する場合は,分冊の刊行年によって分類することにした.『文化と帝国主義?』ならば,(サイード 1998)と表記し,『文化と帝国主義?』ならば,(サイード 2001)と表記する.
 また,Spivakの名称の日本語訳は,『サバルタンは語ることができるか』(1998,みすず書房)では「スピヴァク」となっているが,『文化としての他者』(1990,紀伊国屋書店)と『ポスト植民地主義の思想』(1992,彩流社)では「スピヴァック」となっている.この論文では簡便さを得るため,本文及び引用元の明示でspivakの日本語訳を表象する必要が出た際は「スピヴァク」で統一することとする.スピヴァクと呼び表す方が最近は「主流」「支配的」であると判断したためである.ただし,文献目録では,厳密度を上昇させるため,各文献の表記にしたがって「スピヴァック」と「スピヴァク」の両方を使いわける.どうか混乱を避けられたい.


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