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評論:「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大」第1章(後半)

この記事の最終更新日:2006年4月6日

当サイト作成者さいどひるの論文です。このページでは第1章後半部を掲載しています。


平成14年度社会学部卒業論文
「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大〜ポストコロニアリズム、トラウマ治療理論、軍事心理学の差異をみる」


目次

序論

第1章 ポストコロニアリズムとの対話
1-1  取り上げる人物,文章を選択した理由
1-2  サイードを読む
1-2-1 『文化と帝国主義』を読む
1-2-2 知識人のあり方について
1-3  スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』を読む
1-3-1 概観
1-3-2 「1 批評,フェミニズム,そして制度」を読む
1-3-3 「2 ポスト・モダン状況 政治の終焉?」を読む
1-3-4 「3 戦略,自己同一性,書くこと」を読む
1-3-5 スピヴァクの議論のまとめにかえて
1-4  トリンを読む
1-4-1 著作説明
1-4-2 アイデンティティと権力について
1-4-3 歴史と物語の違いについて
1-4-4 芸術家,作品,受容者の関係について
1-5  ポストコロニアリズム理論の包括的概念抽出

第2章 精神医学のトラウマ治療理論とポストコロニアリズムとの対話
2-1  医療人類学の批判的摂取
2-2  「心的外傷後ストレス障害」の精神医学的定義
2-3  ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』を読む
2-3-1 概観
2-3-2 第1部「心的外傷後障害」を読む
2-3-3 第2部「回復の諸段階」を読む
2-4  ポストコロニアル状況とポストトラウマティック状況の差異

第3章 軍事心理学とポストコロニアリズムとトラウマ精神治療理論の対話
3-1  サイードの軍人表象はオリエンタリズムだ
3-2  マクナブ『SAS特殊部隊知的戦闘マニュアル』を読む
3-3  知識人と知的エリートの差異

結論にかえて「抗議をやめて講義を受けよ」

文献目録

結論2



第1章 ポストコロニアリズムとの対話(後半部)


1-3 スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』を読む

1-3-1 概観

 スピヴァクのテクストにおいてアイデンティティがどのように語られているのかをみるために,主に『ポスト植民地主義の思想』(1992,彩流社)を取り上げて解読する.難解極まりない彼女の文章叙述は,論理的に語ることの危険性に対する警戒心から生じている.あまりアイデンティティの問題に固執することなく読んでいくが,仕方ない程度に本論文で注目する概念が取り上げられることだろう.本論文で解析するのは,『ポスト植民地主義の思想』の収録順番1つ目,2つ目,3つ目の,3つのインタビューである.
 

1-3-2 「1 批評,フェミニズム,そして制度」を読む

最初のインタビュー,1984年6月になされた「1 批評,フェミニズム,そして制度」をとりあげる.エリザベス・グロツというフェミニストの質問に答えるかたちでスピヴァクの思想が述べられている.まず最初にグロツによって,理論と実践の間にある亀裂の線に沿って,別の領域にあるかのように思われているテクスト性と政治の領域の2つを,スピヴァクはどのような関係にあると捉えているかが質問される.
 スピヴァクはテクスト性の概念を,世界の世界化という概念と関係づける.スピヴァクは,西洋が領有した土地には,帝国主義者の計画に従って西洋の言葉が書き込まれ,その言葉によって土地が管理されていったという.「さてこうした世界化は,実際には,テクストにすること,テクスト化であり,技術化であり,理解されるための客体化です.」(スピヴァク 1992; p12)テクストになることで,多様なものが既成され,世界が構築されていくわけである.テクスト性の概念は,このテクストの世界化を調査するために作動する.

  テクスト性の概念が通常していることは,「テクスト」に対抗して,「事実」や「
  生」や「実践」として優位に定義づけられているものは,実践されうるようにある程
  度,ある一定の方法で世界化されている  そのことを調べることです.・・・一般
  化されたテクスト性の概念であれば,実践とはいわばテクストの「空白」であるけれ
  ど,解釈可能なテクストによって囲まれていると言うでしょう.そうした概念は実践
  の内部での不可避な権力分散を,チェックすることを許します.それは実践の特権化
  が実際,理論の前衛化におとらず危険であることに気づいているからです.ひとが
  「書くこと」というとき,それはつまりこうした種の,実践力の限界の構造化なので
  す.実践の彼方にあるものはつねに,実践を組織していることを知りつつ.
                          (スピヴァク 1992; pp12-13)

 実践とはブルデューやフーコーのいう言語化されていない慣習行動のことである(ブルデュー 1990,フーコー 1995,山本 1997などを参照せよ).慣習行動実践は,テクスト化しきれない「空白」なのだが,テクストによって組織され,制度化されている,よって,実践をテクスト抜きで特権づけることには注意が必要なのだ.
 この後,知識人の実践,あり方についての質問がなされる.スピヴァクは「アメリカ合衆国の内部でさえ「知識人」と呼べるものは実際は存在しないのです.社会的生産にたいして,同じ役割とか,実際権力を行使しているといった,「知識人集団」と呼ぶことの出来る集団は実際は存在しないのです.」(スピヴァク 1992; p15)と知識人に対して批判的な見方を呈示する.
 スピヴァクは,「知識人」は制度の内部での占める位置によって定義づけられていると言う.制度に対して非 制度的環境はどうあるべきかという質問に対しては,「非 制度的環境などは存在しないと思います.私見では制度は,とりあえず切り離してみるどんな制度でも,孤立して存在してはいないので,ひとが実際吟味しなければならないものは,ますます関係性によって規制されています.」(スピヴァク 1992; p17)と答える.制度外の空間など存在しない,孤立しているものなどないという考え方は,「中心 周縁の定義という観点での,周縁に近接した空間でさえ制度の外部ではない」(スピヴァク 1992 p17)という考えにもつながる.1つで成り立つものなど1つもなく,「制度の彼方」にあると思えるものも,他の制度との関係性によって規定されているのだ.
 あらゆる実践もテクスト,制度によって規制されているとすれば,どのような解放が可能なのか.
 
  わたし自身はいつもではないのですが,時々,制度の彼方に回復を可能にする策を見
  いだしています.制度と対決するのでは可能になりません.私見では,・・・魅惑的
  な空間を創造可能にしている許容しうる文化の政治学の内部で,時々「制度の彼方」
  と自己定義しうる新たな制度が繁栄することが許されます.だから制度の内部の文化
  の解説の生産の仕事は,途切れることなく持続できるのです.
  (スピヴァク 1992 p18)

 ここでスピヴァク自身のある程度の位置が明らかにされている.制度の彼方も制度に規制されているのであるが,それでもいくらか現状よりは魅惑的である.それを目指して,スピヴァクは学問制度内での知識の生産を行う.
 続いて,知識人そのものの問題を離れて,フェミニスト知識人の役割をどう考えるのかという質問があがる.質問文はこうである.「代表/再現の政治学を避けることはどうすれば可能でしょうか  他の女性たちのために,あるいは彼女たちを代表して,わたしたち自身の固有性や差異を投げ出すことなく,彼女たちの固有性,その差異を保持することは.」(スピヴァク 1992; p23)この質問は明らかに『サバルタンは語ることができるか』(1998,みすず書房)で提出された問題を意識した質問である.『サバルタンは語ることができるか』で,スピヴァクは,サバルタン(従属的地位に置かれている人,例えば第3世界の被抑圧者の女性)は語ることができないというテーゼを出した.知識人がサバルタンを語るとき,彼女たち自身の声は常にかき消されてしまうと言う.また,彼女たちはさらに第3世界内の権力者によっても表象されるが,その時でさえ彼女たち自身の言葉は権力者によって消されてしまうと言うのだ.
 現地の人々と,かつての抑圧関係を繰り返さないようにして,どのように語り合うのかという問題を示しているこの質問に対して,スピヴァクは「わたしの試みはわたしたちの特権を,損失として捨てることを学ぶという慎重な計画です」(スピヴァク 1992; pp23-24)と答える.知識人としてもつ権威,理論の権威づけに対抗し,実践を行うには,特権を捨てなければならない.捨て去れば,今までは理論によって見えなかった実際の多様性が見えてくると言うのである.
 先鋭的な西洋の知の間では,理論を常に純粋化していくことが求められる.普遍主義も,本質主義も過去の理論的誤謬ということになっているのだが,スピヴァクは理論化の行き過ぎに警鐘を鳴らし,実践のために,時には普遍主義や本質主義的立場をとる必要もあると言う.
 
  その時/契機においてわたしが普遍的言説を選んだのは,わたし自身を普遍性を拒否
  するものとして規定するよりも  普遍化,最終決定はいかなる言説においても還元
  できない契機であるので  普遍よりむしろ固有なものとしてわたし自身を規定する
  よりも,普遍的言説において何が役にたつかを調べるべきであり,またそれからその
  領域の内部で,そうした言説がその限界とその挑戦にどこで出会うかを調べることに
  進むべきであると感じたからです.わたしたちは戦略的に,普遍的言説ではなく本質
  的言説を再度選ぶべきであると思います.(スピヴァク 1992; p27)

 普遍性,本質を単純に拒否するのでなく,普遍的言説や本質主義の立場に戻ってみて,その言説の有用性と限界を調べるべきであるとスピヴァク言っている.ここでスピヴァクは,脱構築の純理論的な身振りの必要性を肯定はするが,反生産的だから全面賛成もできないと言う.
 
  わたしたちがフェミニストの実践や,理論に対する実践の権利づけについて語るとき
  ですら,わたしたちは普遍化しています  一般化だけでなく普遍化しています.本
  質化,普遍化,存在 現象学に「イエス」という契機は還元不可能ですので,少なく
  とも目下のところそれを位置付けようではありませんか.わたしたち自身の実践につ
  いて慎重になって,それを否定するといった全面的に反 生産的な身振りをするより
  も,出来る限りそれを用いるようにしてみようではありませんか.
                            (スピヴァク 1992; p28)

 ここに実践的,生産的活動をも行うスピヴァクの知識人像が伺える.スピヴァクは,脱構築には,労働の国際分業の問題が入っていないとも言う.フーコーも,デリダもポスト構造主義の知識人たちは帝国主義の働き,労働の国際分業の問題は扱っていない.ここにスピヴァクらポストコロニアリズムの思想家の活動領域がある.
 最後の質問として,グロツは脱構築,マルクス主義,フェミニズムをスピヴァクは仕事にしているが,3者間にあるぎくしゃくとした関係は和解可能であるかとと問う.それに対してスピヴァクは,「還元できないけれど不可能な仕事とは,フェミニズム,マルクス主義そして脱構築の言説の内部に,断絶を保持するということだと思います」(スピヴァク 2992 p33)と答える.(註2)
 スピヴァクは,統一することは避けなければならないし,差異ばかりを強調することも避けなければないと言う.マルクス主義の統一的方向には,脱構築の抑止が働き,脱構築の解体方向には,べつの2つの抑止が働く.
 
  勿論,脱構築は,  わたしたちはあなたのご質問の中でその一部をすでに練習しま
  したが  単にテクスト主義で,それは秘儀的であり,自己拡張ばかりに関心をもち,
  虚無主義である等です.フェミニズム,マルクス主義,ずっと最近の脱構築の形態学
  の膨大な資源を活用することに興味のある人や,人々,集団の役割は,断絶を保持す
  ることの仕事の領域にあると思われます.そして究極的にはそれは不可能な仕事だと
  わたしは申しあげましょう.といいますのも,最終的なものとして仕上げることは,
  それ自身不可能で,還元できないものだからです.優美な一貫性を求めることや結果
  として敵意を産むことになる連続主義の言説を産み出すよりは,こうした断絶をそう
  した意味で保持することです.(スピヴァク 1992 pp34-35)

断絶は決して否定的な意味で使われているのではなく,完成の暴力性を避けるための肯定的な意味で使われている.かつ,完成は不可能であるから,断絶さえ完成しないのだが,それでも目標として保持することは必要である.

1-3-3 「2 ポスト・モダン状況 政治の終焉?」を読む

 続いてインタビューの2番目,1984年になされた「ポスト・モダン状況 政治の終焉?」の解説にうつる.スピヴァクは,ホーソン,アロンソン,ダンと討論を行う.脱構築およびポストモダンの運動についてスピヴァクはこう解説する.

  もしデリダとリオタールをこのように一緒に纏めることが出来るなら,彼らの気づい
  ていることは,わたしたちが語ることしかできないということであると思います.だ
  からそれは語りに宣戦布告するといった問題ではなく,彼らが,語る本能は必ずしも
  世界の諸問題の解決にはならないことを理解していることです.そこで彼らの関心事
  は語りの限界を見極めること,「これが歴史である」とわたしたちに語っている物語
  を創っている,または「これが社会正義をもたらすものである」とわたしたちに語っ
  ている物語を造り上げている物語性を見極めることです.
                          (スピヴァク 1992; pp40-41)

 脱構築は目的をもった歴史=物語から取りこぼされるものを想像するという.語りへの挑戦というよりも,語る行為の限界を見極めることに重点を置くこと.語りはそのままテクスト性の概念にもつながる.ただし,全てが語りだというと,「人はリアリィティを語られないものとして見始めます.ひとはそれは語りではなく,事物の有様なのだと言い始めます」(スピヴァク 1992; p41)という問題も起きる.スピヴァクは実践を重視しはするが,その実践には絶えず語り,テクスト,制度が侵入していることを忘れはしないのである.
 さらにスピヴァクは,デリダらの言っているテクストは,少しも言葉のテクストなどではないと注意を促している.

  彼らが政治哲学や歴史哲学やなんであれ,実際の言葉による物を読むとき,彼らはこ
  うしたことがらはまた言語で産み出されていることを示したくなるのです  それら
  が言語で産み出されていることを忘れる傾向があるからです.その点でテクストは言
  葉で理解されているといえるでしょう.けれど彼らがテクストしか存在しないなどと
  語るとき,彼らはひとつのネットワーク,織りについて語っているのです  それを
  名付けることができます  政治的 心理的 性的 社会的な織りと名づけます.そ
  れを名づける瞬間に,それよりも広いネットワークができます.そしてわたしたちは
  ある程度まで,近づけない終わりを持った,より大きなテクスト/ティシュー/織りの
  内部にある結果であるという概念は,すべてが言語であるということとはきわめて異
  なります.(スピヴァク 1992; pp50-51)

 この説明によりテクスト概念が再び明確となる.リアリティ,具体的事実,実践は,全て言葉なり,ネットワークの網の目のなかにあるので,一つだけ切り離し,特権化して考察することなどできないのだ.言葉の表象だけに注意するのではなく,実践だけをみるのでもなく,両者の絡まりあいを解きほぐすことが奨励される.

 
1-3-4 「3 戦略,自己同一性,書くこと」を読む

 3つ目にとりあげるインタビューは1986年8月になされた「戦略,自己同一性,書くこと」である.質問者は複数だが,「メルボルン・ジャーナル・ポリティクス」として,単数で表象されている.ここでは,脱構築の働きについてスピヴァクが詳細に語っている.それに伴い,主体についても語られる.
 検証する主体の権威と役割をどうやって問題化できるのかという質問に対して,スピヴァクは個々の状況によって異なるので包括的な答えはできないと言うが,問題化する方法については答える.

  それは特定の主体の立場の歴史的制度化を調べることによるものだと,わたしには思
  われます.歴史が語られてきた方法がいつもある種の主体の立場を制度化しています
  が,それはある種の領域を周縁化することによって予想されています.脱構築の重要
  性は,そうした戦略的な排除に対するその関心です.(スピヴァク 1992; p81)

 続けてスピヴァクは,脱構築の重要性を説きながらも,脱構築自体を脱構築する.脱構築の歴史では,十分に哲学的ではないという理由で「本質的な」内容が常に排除されていた.形式の特権化である.ゆえに脱構築的立場においても,脱構築を行う主体を脱構築するために「主体的立場の物語化や制度化への,歴史的探求がきわめて重要になるのです.」(スピヴァク 1992; p82)と言う.
 
  それは無限の後退,理論的形態を最終的に根拠づけることの決してできないという問
  題を考え抜こうとしながら,本質問題を検証し続ける方法です.これが認識するのは
  わたしが今,切断(interruption)と呼んでいるもの  実際,あなたの本質的な仕
  事の周縁には無限の後退があることを突然認識することです.それは本質的関心と断
  絶している点で純粋な切断ですけれど,それはそれ自身本質的検証に自己を連れ戻す
  ことによって切断されています.これはすべて,「ひとは今いるところから始めなく
  てはならない」というもう一方の方法なのでしょう.(スピヴァク 1992; p82)

 難解な言いまわしなので説明を試みる.理論の構築は最終的な根拠づけを達成できない.理論は本質と絡み合っているのに,本質を捨象して,テクストのみで己を構築しようとする.理論構築が排除してきた本質を検証することは,ヘーゲルなどから続く西洋の哲学的立場からみれば後退的な作業にみえるが(本質,理論などについてはヘーゲル 1998を参照せよ),スピヴァクはこれをあえて行うという.
 本質のみをみることは,理論を捨象するという意味で「切断」だと言える.理論は,哲学史上,本質を切断して自己を構築してきた.この構造は脱構築でも変わらない.そこで,スピヴァクは,今までの試みとは逆のかたちである,本質のみにかかわる検証を行うと言っているのだ.その時,理論は切断される.
 この抽象的で難解な切断の理論を毎日の歴史的探求の実践にどう関連づけるのかという質問がなされる.スピヴァクは,この切断の構造を提起することによって,いかに理論が本質を今まで切り落としてきたか,また,実践の構造のみに集中することを不可能にしてきたかが明らかにされると言う.
 
   理論はつねに実践を規定します.ひとが実践するとき,いわば,ひとは理論を構築
  し,還元できないかたちで実践は理論を規定します.間接的な理論的適用の一例とな
  ることはあまりありません.今わたしがもっと関心をもっているのは,理論による実
  践のラディカルな切断であり,実践による理論のそれなのです.・・・もしわたしが
  異なるフェミニストの実践の観点から,考えていることが本当の切断でなかったなら,
  そうであればわたしはそれを和解させ,固め,占有し,定義し,新しい言語のモデル
  を産み出すことなどができ,そして本拠地から自由になることができます.けれど切
  断の本性は実際にはことがら全体に自在スパナを打ち込みます.それは純粋な断絶な
  のです.(スピヴァク 1992; p83)
 
 理論と実践は規定しあう関係にあるのだが,スピヴァクはその関係を切断させたいという.特に理論化から実践を切り離す方に関心があるようだ.言葉による最終的な定義づけを拒み,自由で透明な超越的存在になることを拒む姿勢が伺える.現実世界に明確に存在する知識人として学問実践を成し遂げたいようだ.
 続いて,脱構築が戯れであるという誤解についてスピヴァクが答える部分を読む.子の部分は,バルトのように遊戯的に,快楽へと逃走することへの警戒ととれる.次節でとりあげるトリンは,バルトの影響下にある遊戯的な論考も含んでいるので,この硬派なスピヴァクの文章を記憶にとどめて,次節の遊戯的な文章に臨んでほしい.
 
  ひとは自由に戯れることができません.これは脱構築がまたわたしたちに教えること
  がらのひとつです.もしほんとうに意識的に自由な戯れに従事し始めると,再び語る
  ことが適切に哲学を表象/再現できると考えて,きわめて決定論的な誤りをします.
  それはすこし自由な戯れに従事することによって,脱構築の概念をそっくり模倣する
  ことができると考えてです.わたしたちが「自由に戯れている」と想定しても,わた
  したちはわたしたちが語っている場所である状況を最後化しているのです.デリダは
  ある場所で語りました  これは印刷されてはいません  「脱構築は誤りを曝しだ
  すことではありません.それはわたしたちがつねに真理を生む義務があるという事実
  を,警戒することです」.ほら,これは脱構築について注目すべきことがらです.そ
  れは世界になにも本質的なことがないからという,ある種の否定的な形而上の悪戯で
  はありません.それはわたしたちが真理を,肯定的な事柄を生むことを強いられてい
  るという,わたしたちが最後化をしいられている,パースペクティヴは一般化される
  べきである,などの事実を繰り返し検証することです・・・
   (スピヴァク 1992;p86)

 肯定を避け,誤りを指摘するのではなく,真理と否定の間の戯れでもなく,肯定を生む義務を強要されていることを警戒するものとして脱構築が語られている.今の場所を肯定してしまっては,理論の最後化が訪れる.絶えず問いを保たねばならぬのだ.問いは脱構築自身にも向けられる.
 以上で『ポスト植民地主義の思想』のはじめの3章の読みを終える.本当なら最後に,今までの議論をまとめるべきだが,スピヴァク自身理論決定の最後化を拒んでいるし,肯定したものがすぐ否定されているし,否定されたものがすぐ肯定されているし,議論は錯綜しているので,要約など不可能だ.脱構築は相対主義だ,言葉の戯れだなどと批判されるが,「本物」の脱構築を身につけた人の言葉には,そんな批判を寄せつけない議論の深さがあった.
 要約のかわりとして,ここで扱った文章以外のスピヴァクの文章の中から,スピヴァクがアイデンティティについてどう考えているのかをまとめてみる.さらに本来なら,スピヴァク自身の言説を脱構築した方がよいのかもしれないが,それはこの論文の2章,3章で行われることとなる.
 本章の主要目的である「ポストコロニアルアイデンティティ概念の各理論家からの抽出」という作業観点からみれば,この節はいさかか主題と関係のないところまで,深い議論を追うこととなってしまった.


1-3-5 スピヴァクの議論のまとめにかえて

  アイデンティティを必要とするとあなたは認めますか,という質問に対して,スピヴァクは「そう,認めます」(スピヴァク ; p243)と短く答えている.まるでたいした問題ではないといわんばかりである.主体という言葉はスピヴァクの文章に頻繁に出てくるが,アイデンティティという言葉は全く出てこないといってよい.本論文はアイデンティティと主体の明確な区別ができていないという批判もおきよう.しかし,個人という単位に基づくと考えられていたアイデンティティ概念を自己と他者との関わり,より密接に言えば自己による他者の排除と捉えたのが,ポスト構造主義であったし,自己と他者をさらに拡大解釈して,西洋による第3世界の排除と考えたのがサイードをはじめとするポストコロニアリズムであった.その文脈では,主体とアイデンティティはほぼ同じ概念として解釈され,ナショナリズムや文化へとアイデンティティ概念は広がっている.よって,スピヴァクが繰り返し言及している主体をアイデンティティの問題として捉えて,最後にそれがどう言及されているのかまとめてみたい.
 スピヴァクの考えといいながらも,ここで取り上げるのはスピヴァクによる脱構築の説明である.脱構築は,主体が確立される過程を問う.主体が確立されるとき,中心ができる.中心ができると,常に周縁にあるものは排除され,隠蔽されてしまう.中心化は完了することがない.常に不完全である.絶えず周縁に排除したと思っていた他者が主体の中に混入してくるし,はじめからまったき主体の確立など不可能なのだ.
 
  脱構築が注視しているのは,このように中心に置くことの限界であり,指摘している
  ことは,主体を中心に置く境界線が漠然としていることであり,(常に中心に置かれ
  ている)主体はこのような境界線を確実なものとして描かなくてはならない,という
  事実です.(スピヴァク 1992; p185)

  中心と目されるものは周縁をより巧妙に排除するため,周縁に位置する選ばれた者た
  ちを歓迎する.そして公式的な説明をなすのも中心である.別のいい方をすると,中
  心とは,自らが表現することのできる説明によって定義され,再生産されるものなの
  だ.(スピヴァク 1990; p108)

 歴史=物語について言えば,
 
  ある程度までわたしの示唆できることと言えば,歴史を多様な語りの生産として振り
  返ること,そしてそれからひとは物語化の終わりとなるような客観的分析となる考え
  を提供しないようにすること,それはひとがまた語りそれ自身の内部に囚われている
  からである,ということだけです.(スピヴァク 1992; p65)

 となる.マルクス主義的な一直線で発展していく「唯一の歴史」という概念の暴力性を避け,物語の終わりとなる本来は不可能な理論化も避ける.
権力については,実践は全て制度の網の目に囚われているし,理論もまた実践と不可分に結びついていることを指摘している.制度外の場所などなく,全ての場所は必ず制度化されているのだが,それでもより許容のある新しい制度を創出できる可能性はある.学問内でその可能性を問い,実践を行うのが知識人としてのスピヴァク像である.さらにいうと,絡み合った理論と実践の関係を切断し,理論的で超越的な知識人ではなく,実践に集中する知識人として本人は活動したいようである.純粋などスピヴァクによればありえないので,実践の理論からの切断は純粋に完遂されないのだが,切断の概念は彼女の知識人としての態度表明として受け取れる.
 以上で本論文中最大の難解さを誇るスピヴァクの読解を終える.
 
 
1-4 トリンを読む

1-4-1 著作説明
 
 ポストコロニアリズムの思想家の最後の一人として,トリン・T・ミンハを取り上げる.サイードがフーコーのポストコロニアル的概念拡張,スピヴァクがデリダのポストコロニアル的概念拡張と暴力的に整理するなら,トリンはバルトのポストコロニアル的概念拡張と暴力的に整理することができる.もちろん,フーコーとデリダの思想は3人ともに批判的に受け継がれているのだが,バルトの痕跡が認められるのはおそらくトリンだけである.よって,バルトの文章と同じように,トリンの文章は軽やかに言葉と戯れる.飛翔的,夢想的にユートピア的言説が紡がれていく.スピヴァクの晦渋な文章を後にして,トリンの文章を跳躍台にして,2章と3章に移っていくことにする.
 読む著作の説明をする.『女性・ネイティヴ・他者』(1995,岩波書店)は,4つに分かれている.第1部では,女性の作家が書くとき,歴史的に何が問題になってきたかが扱われる.女に書くことができるのか,さらに有色人種の女に,など社会偏見の歴史を読み解かれている.第2部では,人類学者批判が行われる.マリノフスキー,レヴィ=ストロース,ギアーツなどの人類学者がいかにネイティヴの言語をはく奪してきたか,科学の欺瞞がポストコロニアル的視点から批判される.第3部では,第3世界の女のアイデンティティの問題が扱われる.そこで差異に基づくアイデンティティ論が語られる.第4部では,物語と歴史の違い,物語の持つ力について語られる.
 『月が赤く満ちる時』は,前述の書に入れるにはあまりに非論理的かつ非西洋的なエッセイや論考が集められた「エッセイ集」のようなものである.というが,こちらの方が刺激的で示唆的な論考が多いと私は感じた.特に脱=神聖化された,政治化された芸術の実践を行う作家はどうあるべきかという論考が,いたる箇所に散りばめられていて,それがバルトの理論を継承・実践していて興味深かった.
 スピヴァクのテクストは要約化を阻むような錯綜かつ複雑な議論であったが,こちらも違ったベクトルで要約化を阻む錯綜ぶりなので,2冊の本から示唆的な部分をある程度のまとまりをもって抜き出していくことにする.まず最初にアイデンティティと権力の問題についてまとめ,次に歴史と物語の問題についてまとめ,最後に芸術家,作品,観衆のあり方についてまとめる.


1-4-2 アイデンティティと権力について

トリンのアイデンティティに対する考え方は次の詩的な表現によって表されている.「「私」はそれ自体が,無限の層なのだ.」(トリン 1995; p146).
 
  アイデンティティはその独自性を抑圧せずに複数性を語ることもごく容易にするので,
  知に備わる異型性(heterology)はあらゆる自己表現の行為にめくるめくような祝祭
  的次元をもたらす.したがってアイデンティティが時間(世代)と空間(文化)を越
  えて,二重,三重に重なりを増すとき,差異は,外側からの拒否にもかかわらず,内
  側で花を咲かせつづける.そうした状況で彼女が必要にせまられて危険をおかすとし
  ても,驚くにはあたらない.彼女はあえて混じろうとする.単一主義が押し殺すすべ
  てのものを(言語的・視覚的・音楽的)言語に組み入れるべく,彼女はあえて国境を
  越える. (トリン 1996; p20)
  
  このように境界横断的で,内部に多様な複数性があり,時空間を超え無限に広がって行くアイデンティティ概念をトリンは提唱する.この無限のアイデンティティに対立するのは以下のアイデンティティ像である.
  
  「反駁の余地のない起源」のために必要な本物という概念は,強迫観念のごとき恐怖
    関連性を失ってしまうのではないか  の虜となる.すべてはきちんと整合性を
  もっていなければならないのだ.存在の唯一つの法則を求めるあまり,他からの介入
  とか,散種とか,宙ぶらりんの恐れのあるものはすべて,忌み嫌われざるをえなくな
  る.始まりがあり,クライマックスが訪れ,そして終わらなければならないのだ.不
  足部分は充当し,相互に関連づけ,統合する.(トリン 1995; 150)
  
 このような統一的,直線的なアイデンティティに対して,トリンは境界が1本でもないし,定まりもしないアイデンティティを対置する.
 
  女性はつねに事物,できごと,属性,義務,固着,分類,社会過程などの終わりのな
  い見物人にさせられるという危険にさらされている.境界を修正する営みにおける挑
  戦とは,位置を明確に意識しながら,なおかつ移動しており偶発的でもあるような差
  異を生みつづけることにある.そこで唯一変わらずに強調されるものがあるとすれば,
  それは(性的・政治的な)境界,つまり,周縁と中心,赤と白といった両極のあいだ
  をたえず行きつ戻りつする終わりのない往復運動である.(トリン 1996; p151)
  
 なぜ,このような流動的アイデンティティが提唱される必要があるのか.それは中心に固定的に位置しようとするものが,周縁を抑圧するからである.権力構造の周縁に位置する「第3世界の女」が,絶え間なく中心と周縁の間を移動して(移動=置き換えを絶え間なくさせられてしまうという側面もある),中心にも周縁があること,周縁にも中心があることを明らかにする必要がある.脱中心化の戦略を取る場合,周縁がアイデンティティの起点となる.問われるのは権力構造である.

   周縁性を最終地点でなく出発点にするということは,周縁性を越えて別のいくつも
  の肯定と否定に向かうことを意味する.全体化をめざす大がかりな統合への動きが大
  規模な抑圧なしにおこなわれることなど考えられない.それは支配の効果を再流通さ
  せるための一つの方法となる.・・・置き換えは新しいかたちの主体性,快楽,強度,
  関係を生み出す.つまり,抵抗の道具を作り出す過程で,参照すべき価値体系そのも
  のを集中的に注意深く検討するという批判的な営みを活性化するのである.全体主義
  が再生産されるという恐れはつねにある.それゆえ人はどんな立場にあっても,自身
  の文化では普遍的事実として信じられているが,実際には問題含みに見えるような価
  値をつねに注視しつづけねばならない.(トリン 1996; pp26-27)

 以上がトリンの支配体制に対決するための流動的アイデンティティ概念の説明である.

1-4-3 歴史と物語の違いについて

 歴史と物語については『女性・ネイティヴ・他者』の「? おばあちゃんの物語」に示唆的な分析が載っているので,その議論をみてみる.サイードもスピヴァクも,歴史=物語と捉えるような言説構成であったが,トリンは歴史と物語の違いを明確に規定する.物語の持つ力,西洋権力に対する独自性を主張するのである.
 トリンは,物語は世代から世代へと語り継がれる,全てを含む真実であると言う.
 
  何千もの人々が,自分が生きた過去や現在から得ることができる大きな贈り物.物語  は,これから存在する私たち一人一人にかかっている.物語には,私たちすべてが必
  要だ.生まれつづけるために一緒に聞いてきたことを,記憶し,理解し,作り上げる
  ことが必要だ.ひとつの民族の物語.私たちの,いろいろな民族の,物語.物語,歴
  史,文学(つまり宗教,哲学,自然科学,倫理学)  すべては一つに収斂する.そ
  れを原始人の道具とも,真実を伝えるためのもっとも簡単な媒介ともいう.
                             (トリン 1995; p191)

 トリンは,このように全てを包括し,伝え,伝わっていく物語から,あるとき事実と虚構を分ける歴史が独立していったと言う.「こうして,虚構と事実が互いに他を排除するまでとなり,虚構はたいていの場合,嘘であり,事実は真実と考えられてしまう」(トリン 1995; p192)トリンは,歴史が物語から分離して権威を主張し始める前は,事実でなくとも真実と認められることがあったのに,歴史が独立すると,物語は虚構のものとして排除され,歴史の扱う事実のみに真実性が与えられることになったと言う.トリンはしかし,古代では物語が歴史よりも真実なこととして認めらていた時代もあったと言う.
 
  アリストテレスが言うように,詩は歴史よりも真実なのだ.当時,文学(物語詩)と
  いう語りは,歴史よりも真実でなければならなかった.特定の時と場所に何が起こっ
  たかを語るときに,頼りとするのが歴史ならば,起こったかもしれない事柄だけでな
  く,はっきりいつとか,どこというのではなく,いつかどこかで起こっている事柄を
  語るには,物語が一番だ. (トリン 1995; pp192-193)

ここでトリンは歴史に対比して,物語の真実性を証明する方向には向かわない.むしろ,歴史が呈示する事実の真実性は虚構に過ぎないことを指摘する.物語は別に歴史のように事実と虚構に線を引く作業に懸命になる必要はないと言う.「文学と歴史は,かつて/そして今も,物語だ.」(トリン 1995; p193),「両方とも,事実という階層的領域の外に位置する一つの空間だということだ.」(トリン 1995; p194)つまり,歴史は事実を集積するというが,事実を集積して語ってしまった途端,歴史のテクストは物語になるということだろう.言葉は事実とは異なるものである.真実とは,「特定の時の外側,特定の場所の外側に位置するものなのだ.」(トリン 1995; p194).「真実は,もはや真実それ自身ではなくなったときに存在する.」(トリン 1995; p194).
現実にはありえないことが真実となるこの逆転現象をトリンは物語の中にみる.物語では,「世界の完全な歴史,世界の完全なヴィジョン,一生かかる物語」(トリン 1995; p194)を紡ぎ出す.しかし,これは裏を返せば大きな歴史の構想とも重なる.物語はその語りの真実性を主張しないのに対し,歴史は集めた事実が真実であることを声高に主張し,保存行為,蓄積行為を続ける.
 「注意深く耳をすますことは,保存すること.けれども保存することは,また燃やすこと.なぜなら理解することは創り出すことだから.」(トリン 1995; p194)このように物語は内容を保存しもするが,大いなる母から母へと語り継がれる過程で内容はどんどん変容していく.語りの権威づけを必要としないのである.
 物語の中で,アイデンティティが育まれて行く.しかし,そのアイデンティティは何ら固定的なものではない.「私は,鎖のようなこの継続のなかの一つの輪にすぎない.その物語は私であって,私ではなく,私のものでもない.」(トリン 1995; p196)
 
  私はそれらのなかに住み,それらが私のなかに住む.私たちは互いのなかに住み,
  その場所を所有しているというよりも,そこを訪れる者なのだ.私の物語は,まち
  がいなく私であり,またまちがいなく,私よりも古いものだ.私よりも若く,初め
  て人間になった者よりも古い.あまりにも測りがたく,あまりにも一つに閉じ込め
  ておきがたく,あまりにも膨大であるために,それはあらゆる人間化の試みを超越
  してしまう.けれども私たちがやっていることは,人間化することであり,また人
  間化しすぎることだ.なぜなら終わりのない物語というヴィジョンは  終わりも
  なく,中間もなく,始まりもなく,始めることも,やめることも,進展していくこ
  ともなく,後ろへ下がることも,前へ進むこともなく,ただ別の流れに注ぎ込む一
  つの流れ,どこまでも続く海の物語のヴィジョンは  ,狂女のヴィジョンだから.
                             (トリン 1995; p197)

 「全存在は〈話し 聞き 織り 産む〉行為に携わる.」(トリン 1995; p206)という強烈なアフォリズムを最後にして,トリンの物語論を終える.スピヴァクの論理的な語りの後では,いささか楽観的で,ノスタルジックな印象を受けたかもしれない.しかし,この物語論は論理的説得を臨んで書かれたものではおそらくないであろう.西洋の知でははかりきれない物語の力を語っているのだ.
 
  というのも,ここで言われている「総体的な知」とは,現実には名付けえないものだ
  からだ.少なくとも,名付けようとすれば,かならず,知の「文明化」したディスコ
  ースが手ぐすね引いて用意している多くの穴の一つに,ずるずると落ち込んでいく危
  険を冒すことになるからだ.「口承伝統とは何か」という質問は,答えをまったく必
  要としない質問 回答なのである.文明化した人に  「口承伝説」なるものを捏造
  する人に  その彼に,それを定義させてみよう.なぜなら,「口承」と「書き言
  葉」,「書き言葉」対「口承」は,「真」と「偽」の概念と同様に,イデオロギーに
  どっぷりと染まってきた概念だから.(トリン 1995; p203)


1-4-4 芸術家,作品,受容者の関係について

 芸術家はいかに振舞うべきかというトリンの論考をみる.トリンの脱神話化され,政治実践に携わる芸術家像は,サイードやスピヴァクのいう知識人像と重なる.
 『月が赤く満ちる時』の多くは映画評論なのだが,映像作家としてトリンは自分の理論をところどころで述べていく.
 芸術家は,支配体制に寄ることなく,資本主義の商品に自己の作品を位置づけることなく,作品を通して,観客に呼びかけるべきだとトリンは言う.「すなわち,この文脈で言われる「意識覚醒」とは,人々に未知のことを教えるより,むしろ人々の内部に内省的で批判的な能力を目覚めさせることを意味する,…映画を読むということは創造的な営みであり,この営みを挑発し誘発しはするが,統御はしない,そんな映画作りを私はめざしている」(トリン 1996; p158).創造的な読みを誘発するとは具体的にはどういうことか.
 
  今日必要であると思われるのは,観客の一人一人がもつユニークで(なおかつ)社会
  的な自己に訴えかけ,そうした自己の意義をそれぞれの個人的経験や背景に応じて知
  覚させ,その過程でどの観客も政治的に条件づけられており,かつ,他の多くの社会
  的な自己と結びついてもいるということを感じさせるような作品である.そうした作
  品は見る人に周囲の観客と自身の差異を認めさせる働きをもつが,それが可能になる
  のは,見る人の知覚を個性化するというより,彼女を,個人として,支配的な価値体
  系(中心的にであろうと周縁的にであろうと)に縛りつけるたぐいの個性化の過程を
  あらわにするからである.人が作品から,あるいは,作品に向かうことから,感じと
  る社会的挑戦を受けとめるには,映画のテクストを成り立たせているできごとを読み,
  かつ読みなおすことで,自身が意味の創出に参加する積極的な観客としての役割の担
  い手であるとの自覚をもつ必要がある.(トリン 1996; pp164-165)

 いささか高圧的な文章である.なぜこれほど煽動的になる必要があるかというと,ハリウッドのような映画体制が問題となるからである.支配の問題を解決するためには,見る側の参加が必要なのだ.
 
  観客とは先験的に存在する所与のものだから,映画製作者はたんに観客の要求と呼ば
  れるものに合わせておけばよい,という思い込みは,そもそも観客の要求がいかにし
  て作られるか,観客そのものがいかにして形成されるかという問題をなおざりにして
  いる.・・・現在のメディアのシステムは,このシステムにとって望ましい観客から
  受け入れられるにはきわめて効率的かもしれないが,観衆がじかに創造の過程に貢献
  するための余地をほとんど残していない(たとえば,批評家と市民団体は,観客の一
  部として定義されてはいない).
   今日,私にとって,責任ある作品と思えるものは,何よりもまず,次のような作品
  である.すなわち,一方では,政治参加の姿勢とイデオロギー的明晰さをあらわにし
  ながら,もう一方では,たんに指示的なものにとどまらず,本来的になんらかの問い
  かけを含むような作品,別の言葉で言うと,自身の物語を歴史に関連づけようとする
  作品,生きられた経験と表象の違いを認めようとする作品,闘いが消費の対象に変化
  しないように配慮を怠らない作品,そして最後に,作る側ばかりでなく,見る側にも
  責任を負わせるような作品である.実際,所与の解決などありえないのだから,見る
  側の参加なしにはいかなる解決も不可能だ.(トリン 1996; p218)
 
 引用が長くなりがちだが,『月が赤く満ちる時』は西洋的に内容を要約させるような構造になっていないので,許して頂きたい.むしろ,トリンの文体を味わって欲しい.
 積極的な読者の参加によってはじめて作品は完成へと近づく,決して完成はしないのだが.共同制作なのだ全ての行為は.
 
  解釈者たちの慣習的な役割は突き崩される.というのも,彼らの機能は「作品が何に
  ついて語っているか」を述べるより,自らの言葉と表象の主体 性に注目することで,
  作品を完成へと近づけ,「共同製作」を達成することにあるからだ.
                             (トリン 1996; p135)

最後に「差異」概念についての重要な提言をもってして,トリンの節を終える.

  私自身の映画で前景化される差異は,同一という言葉の反意語でもなければ,分離と
  いう言葉の同意語でもない.言い換えれば,差異はかならずしも分離主義を生じさせ
  るものではないということである.差異の概念には違うという意味ばかりでなく,似
  ているという意味も含まれる.さらに,差異は葛藤を生むとはかぎらない.それは葛
  藤に隣接すると同時に,葛藤を越えた場所にも存在する.そこに往々にして混乱が生
  じ,かつ,チャレンジも発生する.(トリン 1996; p219)

 トリンはドキュメンタリー映画において,ヴォイスオーヴァー・ナレーションの「統一的な声」か,一連の目撃者たちの「対立的ないし衝突的な声」の,いずれか一方が「声」として選択されていることを批判する.
 トリンは自身の『ありのままの場所』という映画で,「たがいにちがっているが,反目し合ってはいない」(トリン 1996; p220)3つの声,差異を並列させた.観客の多くは解釈の混乱をおこしたという.「なぜなら,私たちは,声がどの位置にあるかを考えながら,耳を傾けたり,差異を対立以外のものとしてとらえたりすることに慣れていないからだ.」(トリン 1996; p220)


1-5 ポストコロニアリズム理論の包括的概念抽出

 以上で3人の主要な理論家の主要著作の読みを終える.3人のアイデンティティ概念の間にある差異を差異のまま放置しておくべきか,西洋的に整理・分類すべきか.
 2章,3章では,この章でみてきたポストコロニアル理論が,精神医学,軍事心理学とどう絡み合うかを見ていくことになる.これは,トリンが言っていた物語の試みだ.
 デリダは,どこかの著作のインタビューで,フロイト,ハイデカー,レヴィナスという3人の知の巨人が同じ席について議論しているところを見てみたいと言っていた.実際にはありえない虚構の話だ.これは物語の空間だ.知の巨人を持ち上げているデリダの帝国主義者ぶりは批判されるべきである.だが,私もサイードとスピヴァクとトリンという3人のポストコロニアリズムの巨人が議論する場を見てみたい.第1章はその試みであった.実際デリダのいう3人が集まっても,社交的な話で終わる気がする.20世紀最大の,というより西洋小説芸術最大の作家とされている,プルーストとジョイスが偶然出会った時も,社交の話で終わった.そんな物語空間が歴史的事実として現出したのにである.
 物語空間として,せめて本章であげた3人の理論家の言説をまとめて,虚構のポストコロニアリズム知識人を生成してみよう.その架空の知識人がアイデンティティなどについてどう定義しているかをまとめてみる.
 「アイデンティティ」については,トリンの流動的で,境界を往復する,時空を超えて無限に差異が重なるアイデンティティ像が採用される.「権力」については,全ての実践はテクストによって制度化されているし,理論もまた実践と結びついているというスピヴァクの考えが採用される.同時に,西洋主体の周縁に対する抑圧・支配も絶えず警戒される.表象の暴力性を暴くことが肝要となる.
 「歴史=物語」については,トリンの,歴史も物語も語りであるかぎり,事実の集積を真実として捉える事は不可能だという視点が採用される.真実は現実の外にしかないのだ.
 「知識人のあり方」としては,支配体制を絶えず批判し,抑圧に対抗し,読者に批判能力を芽生えさせるサイードよりの知識人像が採用される.また,理論化の限界,不可能性を認識し,理論が見落としてきた実践に集中的に取り組むスピヴァクの描く非神話化された知識人像もこれに含める.
 4つの概念の全てには,3人の考えの近似値が流れこんでいる.こんなに簡単にまとめてはいけないのだが,次章移行の対話のため,戦略的にまとめる必要があった.
 本書の論文は,ポストコロニアリストと,トラウマ治療者と,エリート軍人の3人が同じ席についたらどうなるかという物語を編む試みである.物語でなく,歴史的事実としたらどうなるか.ヴェトナム戦争時,現地の左翼知識人と,戦争神経症になったアメリカ軍の新米兵士と,グリーンベレーのエリート隊員が同じ場所に集まる.何も進展しないだろう.




(1)この新しい小説の読みを考え出したことこそ,サイードを「ビッグネーム」とした由縁であろう.彼が登場するまで,小説も批評も,文学作品が第3世界をどう表象しているのか,帝国主義的戦略とどういう相互関係にあるのかということなど主要なテーマとして考えてこなかったし,これなかったのだ.というのがサイードに対する好意的な説明だが,なぜ西洋の大作家ばかり扱うのか,大作家に対する小説批評がなければただのアジテイターではないか,という批判も考えられる.大作家を批評する部分が広く読まれ,彼を有名にしたのだが,彼自身ディケンズらの作品を「著名なきわめて偉大な小説」(サイード 1998; p6)とか,「独創的想像力あるいは独創的解釈の偉大な産物」(サイード 1998; p19)と何のてらいもなく賛美している.偉大な芸術家,天才と,作家に対する賛美も度々繰り返される.「作者の死」などの立場からすれば,このような作家に対する賛美や,作品を褒め称える行為は滑稽に映る.しかし,「作者の死」を唱えた西洋の批評家たちが,まったく帝国主義的な文脈を無視し,黙認していることこそサイードが問題にしている点である.偉大だと西洋人一般に思われている小説家がいかに帝国主義と共存していたかを示したのだから,このいささか時代錯誤に思える作家賛美は黙認されなければならないのだろう.
 美的経験の構築,洗練化こそ文化の重要な機能であるからこそ,こうした大作家をとりあげるのだとサイードは言う.「重要かつ本質的事象とみなしたもののみに焦点をしぼり,題材のかたよりや恣意的選択をなくすことができなかったと,最初から認めることにした.」(サイード 1998; p20)という自己弁解もあるが,サイード自身「美」に囚われすぎているように感じられる.

(2)グロツとスピヴァクが3者をどう並べているかの違いが示唆的である.グロツは脱構築,マルクス主義,フェミニズムという順番でスピヴァクの仕事に無意識的優劣をつけている.おそらくそれが一般的なスピヴァク理解であろう.スピヴァクを他からわけている目立つ特徴は,彼女が脱構築を積極的に使いながらも,マルクス主義者であるということであり,おまけとしてフェミニストでもあるという認識だろう.だが,スピヴァクの頭の中では,「フェミニズム,マルクス主義,そして脱構築」の順に仮にあるとすれば優先権があるようである.わざわざ順番を言い換えている点からしてそうであるし,このインタビュー内でもフェニミズムの実践について語るときが一番力が入っているようであり,脱構築は単なる解体の方法としか捉えていないようだ.なのに,私のまとめではフェミニズムについて語っている部分をほぼ割愛してしまった.スピヴァクが自分について定義さえしていないポストコロニアリストとして,私が彼女をみたかったからであろう.


「第2章 精神医学のトラウマ治療理論とポストコロニアリズムとの対話」を読む

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