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評論:「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大」第2章

この記事の最終更新日:2006年4月6日

当サイト作成者さいどひるの論文です。このページでは第2章を掲載しています。


平成14年度社会学部卒業論文
「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大〜ポストコロニアリズム、トラウマ治療理論、軍事心理学の差異をみる」


目次

序論

第1章 ポストコロニアリズムとの対話
1-1  取り上げる人物,文章を選択した理由
1-2  サイードを読む
1-2-1 『文化と帝国主義』を読む
1-2-2 知識人のあり方について
1-3  スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』を読む
1-3-1 概観
1-3-2 「1 批評,フェミニズム,そして制度」を読む
1-3-3 「2 ポスト・モダン状況 政治の終焉?」を読む
1-3-4 「3 戦略,自己同一性,書くこと」を読む
1-3-5 スピヴァクの議論のまとめにかえて
1-4  トリンを読む
1-4-1 著作説明
1-4-2 アイデンティティと権力について
1-4-3 歴史と物語の違いについて
1-4-4 芸術家,作品,受容者の関係について
1-5  ポストコロニアリズム理論の包括的概念抽出

第2章 精神医学のトラウマ治療理論とポストコロニアリズムとの対話
2-1  医療人類学の批判的摂取
2-2  「心的外傷後ストレス障害」の精神医学的定義
2-3  ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』を読む
2-3-1 概観
2-3-2 第1部「心的外傷後障害」を読む
2-3-3 第2部「回復の諸段階」を読む
2-4  ポストコロニアル状況とポストトラウマティック状況の差異

第3章 軍事心理学とポストコロニアリズムとトラウマ精神治療理論の対話
3-1  サイードの軍人表象はオリエンタリズムだ
3-2  マクナブ『SAS特殊部隊知的戦闘マニュアル』を読む
3-3  知識人と知的エリートの差異

結論にかえて「抗議をやめて講義を受けよ」

文献目録

結論2



第2章 精神医学のトラウマ治療理論とポストコロニアリズムとの対話



2-1 医療人類学の批判的摂取

 第2章では,トラウマを治療する精神医学の語りを分析する.主に取り上げるのは,ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』(1999,みすず書房)である.アイデンティティをどう語っているかについて主に分析しつつ,1章でみてきたポストコロニアズムの言説との「差異」をみる.精神医学の分析においては,医療人類学の視点を取り入れる.最初に医療人類学の視点とはどのようなものか,ポストコロニアリズムの視点により絶えず批判しながら紹介する.
 しばらくロス他編『医療の人類学』(1989,海鳴社)からの引用を続ける.
 波平恵美子は,『医療の人類学』の日本語版序文で,医療人類学についての簡単な定義を書いている.

  (1)人間は文化的であると同時に生物学的存在である.
  (2)文化的であるということと,生物学的であるということとは当然のことながら  
   相互関係を持つ.
  (3)文化とは,人間が生活を組織する意味の体系であり,それは信仰,知識,行為  
   を含む.そして,このような意味の組織化は人間の病気 diseaseを構造化する.
   つまり,人間は病気を直接に経験するのではなく,病い illnessを経験するのであ
   り,その病いは文化的に構造化されたものである.
  (4)従って,病いに対処しそれを克服しようとする人間の行為(医療行為)は文化  
   の中に深く埋め込まれたものである.
  (5)病気治療は人間の生物的次元と文化的次元の双方にまたがって行われるもので  
   あり,しかもその二つの次元は多くの複雑な方法で互いに関連し合っている.
  (6)従って,人間の医療に係わる観念と行為とを研究することは「人間であるとい  
   うのはどういうことなのか」ということを明らかにする,人類学の最大のそして最
   終的には唯一の目的に達する極めて有効な方法である.
                          (波平 ロス1989より; p?)

 「人間であるとはどういうことなのか」は明らかにはできない.そんなことを最大かつ最終的には唯一の目的にされてはたまらない.ポストコロニアリズムの視点にたてば,多大なる抑圧を生むだけである.ただし,病気という表象が,科学的に固定したものではなく,文化的に構造化されたものであると言う点は評価できる.
 この,病気が文化と複合しているという考え方にたてば,精神医学の疾病分類は,はなはだあやしいものになる.ロスは,精神医学について論じた第?部の序文で,精神医学の疾病分類のあやうさ,治療過程に含まれる規範的価値観のおしつけを問題にしてこう述べている.
 
  すでに指摘したように,精神病を区分するための生理学的・生化学的基準など一つも
  ないのであるから,ましてどちらの治療法が効果的かを決める基準など当然ない.だ
  から言語的なものであれ非言語的なものであれ,精神医療の評価には,個人の「適合
  性」を判断する文化的価値観が含まれている.患者は社会に出ていける状態にあるの
  か,そして必要な場合には最低限の役割を果たしうるようになっているのか,その決
  定には,患者の気分,思考,行動を,それらが社会全体のそれらと噛み合うかどうか,
  という観点からの吟味が含まれざるをえない.ここでもやはり,規範からはずれてい
  ると見なされた人間の運命の決定に,社会的価値観が直接的にかかわっている.
                              (ロス 1989; p361)

 ある人の「人格」がその社会の規範文化から逸脱していると精神病と認知されてしまう.「正常」という中心からはかって「異常」という周縁が定義されるのである.「異常」なものの社会復帰を助ける精神科医は,彼を中心の価値基準に沿うように治療していく.精神科の疾病分類過程・治療過程は,ポストコロニアリズムの言説にあった,中心と周縁の関係を踏襲している.治療者は,疾病者を文化的規範に引き戻すために治療する.
 第15章「精神医学と社会統制」でタンクレディは,精神医学における実践がどれだけその社会の価値観の影響を受けているかを指摘する.これはサイードが『文化と帝国主義』で,小説がどれだけ帝国主義の価値観を温存していたのかを指摘していたことを思い出させる.
 
  これは主として,治療者が患者の知覚と経験を次々と解釈すること,そして患者が実
  際に意図したものとはおそらくまったく違うそれらの解釈に,一つの意味を当てはめ
  ることを通じてなしとげられる.この観点は,人間的な存在の価値に関する治療者の
  基礎的な倫理的観念を考察することによって,さらに明らかにすることができる.フ
  ロイトは人生の目的を「愛することと働くこと」と見なした 明白な功利主義的倫理
  である.治療者というものはこの同じ価値を与えられた目的を志向しているのかもし
  れない.(タンクレディ ロス1989より; p403)

 サイードらの考え方と同じようにして,精神科の権力構造を批判していたかのように思われたが,ここで彼ら医療人類学者とサイードらとの違いが明確にされた.ポストコロニアリズムと医療人類学が,フーコーらポスト構造主義者が問題にした社会権力の問題を共有していることは確かである.しかし,立場の位置に違いがある.フーコーらは西洋の知識人の立場として,医療制度がおしつける規範性の概念を疑った.ポストコロニアリズムは,フーコーらの見落とした帝国主義の問題を持ち出してきた.フーコーらは,抑圧されている者の視点にたっているようでいて,まだマイノリティの側に立ちきれていなかったのだ.自分たちの透明で中立的な知識人を保持したまま,マイノリティの言葉を代弁している様子を装っていたのだ.フーコーらの言説の中では,サバルタンは語ることができない.
 このタンクレディの文章にも,フーコーらと同じ高慢さの残滓が読み取れる.タンクレディは治療者が疾病者に功利主義的価値観を押しつけることを糾弾する.それを糾弾する彼の言葉の位置はどこかにあると,精神科医よりも高位な,より客観的で包括的な位置に自分を位置づけているかのようである.
 第1章でみてきたように,サイードやスピヴァクらは,自分の言説の位置に絶えず注意を払っていた.知識人のあり方を絶えず問題視し,自分たちの表象が新たな抑圧を産み出さないように注意していた.それに対して,タンクレディは精神科医の功利主義的価値観をあげつらうのみで,自分の言説の持つ特権的位置を疑いきれていない.タンクレディは患者の立場に立っているかのようでいて,中立的で透明な知識人の位置にい続ける.功利主義を嫌う特権階級のようである.功利主義的営みから排除されていく者の立場に自分を置いて,言説編制することができないのだ.
 それでも,タンクレディの指摘する治療者の患者に対する解釈行為によって治療が成り立つというのは評価できる論点である.そもそも疾病の決定も治療者によって解釈されたことに基づく.それらの解釈の基盤にあるのは,固定的なアイデンティティ概念であるとタンクレディは言う.
 
  そして第三は,これらの概念が個性に関する一つの理論を前提としていることである.
  つまり,自己決定とか自己実現というような概念は,ある倫理的優先事項に基づいて
  おり,実現された自己の内容がそこから導き出される「個人」というある直観的な核
  概念の存在と直接関連するものであることが,これらの概念には含まれているのであ
  る.(タンクレディ 1989; p396)

 タンクレディは個人の概念を問題にするが,ポストコロニアリストほどやはり批判は徹底されていない.核となる個性という概念自体は,1章でみてきたものたちは否定しきっていなかった.スピヴァクは,核となる自己,一種の創始者から距離を取ることができると言う.

  「として語る」という問いは自己からの距離を取ることを含みます.わたしがインド
  人として,あるいはフェミニストとして語る方法を考えるや否や,わたしが女性とし
  て語る方法を考えるや否や,わたしのしていることは,自己を一般化しようとするこ
  と,自己を代表者にしようとすること,自己をそのように語る一種の創始者から距離
  を取ろうとすることです.人が執らなくてはならない多くの主体的立場が存在します.
  ひとはただひとつのものではありません.それは政治意識が入ってくるときです.だ
  か事実,「として語ること」を何者かとして行っている人にとって,それはそうした
  自我がなんであれ,自己から距離をとる問題です.(スピヴァク 1992; p109)

 核となる自己は所詮まやかしなのだが,そこから様々な自己が派生していくことができる.批判されるべきは,1直線に自己を形成していくこと,他者との境界を明確にひいた自己を賛美することなのだ.中心を作り出す過程には,「汚れたもの」の排除が必ず生じる.精神科医が治療を行うとき,疾病者の自己を確固としたものにしようとしたがる.疾病者は普通に比べて,行動が逸脱していったり,他者との境界が曖昧だったりするため,他者との正常な位置をはかれないために疾病と分類されてしまう傾向にある.20世紀西洋の芸術,思想は,規範の概念を疑い,多様なものの逸脱を価値として持ち上げた.そこで運動のモデルとなったのが,西洋社会の規範から逸脱している精神病者やまだ「文明化」されていない社会の人々の様態だった.いわば,疾病者と植民地状況の社会の人々は,西洋社会から同じような抑圧支配を受け,また,一部の知識人や芸術家によってアナザーモデルとして賛美されてしまう傾向にあったのだ.
 次に,現在の精神科医における実態をみるため,『心的外傷と回復』を取り上げるのだが,その前にトラウマの精神医学的定義を上げておく.


2-2 「心的外傷後ストレス障害」の精神医学的定義

トラウマの精神医学的な定義をみる.米国の精神診断統計マニュアルの最新版である第4版(DSM-?)にある,医学的に確定されたトラウマの定義をみる.DSM?は現在世界的に権威のある精神科の診断マニュアルとなっている.精神医学の文脈では,トラウマは「心的外傷後ストレス症候群 PTSD」と呼ばれている.

表1   心的外傷後ストレス障害の診断基準(DSM ?)
    (PTSD;Post Traumatic Stress Disorder)

A.その人は,以下の2つが共に認められる外傷的な事件を暴露されたことがある.
(1)実際にまたは危うく死ぬまたは重傷を負うような出来事を,1度または数度,または自分または他人の身体の保全に迫る危険を,その人が体験し,目撃し,または直面した.
(2)その人の反応は強い恐怖,無力感または戦慄に関するものである.
注:子どもの場合はむしろ,まとまりのないまたは興奮した行動によって表現されることがある.

B.外傷的な出来事が,以下の1つ(またはそれ以上)の形で再体験され続けている.
(1)出来事の反復的で侵入的な苦痛な想起で,それは心像,思考,または知覚を含む.
注:小さい子どもの場合,外傷の主題または側面を表現する遊びを繰り返すことがある.
(2)出来事についての反復的で苦痛な夢.
注:子どもの場合は,はっきりとした内容のない恐ろしい夢であることがある.
(3)外傷的な出来事が再び起こっているかのように行動したり,感じたりする(その体験を再体験する感覚や,錯覚,幻覚,および解離性ラッシュバックのエピソードを含む,また,覚醒時または中毒時に起こるものを含む)
注:小さい子どもの場合,外傷特異的な再演が行われることがある.
(4)外傷的事件の1つの側面を象徴し,または類似してる内的または外的きっかけに暴露された場合に生じる,強い心理的苦痛.
(5)外傷的出来事の1つの側面を象徴し,または類似している内的または外的きっかけに暴露された場合の生理学的反応性.

C.以下の3つ(またはそれ以上)によって示される,(外傷以前には存在していなかった)外傷と関連した刺激の持続的回避と,全般的反応性の麻痺.
(1)外傷と関連した思考,感情,または会話を回避しようといる努力.
(2)外傷を想起させる活動,場所または人物を避けようとする努力.
(3)外傷の重要な側面の想起不能.
(4)重要な活動への関心または参加の著しい減退.
(5)他の人から孤立している,または疎遠になっているという感覚.
(6)感情の範囲の縮小(例:愛の感情を持つことができない).
(7)未来が短縮した感覚(例:仕事,結婚,子ども,または正常な一生を期待しない).

D.(外傷以前には存在していなかった)持続的な覚醒亢進症状で,以下の2つ(またはそれ以上)によって示される.
(1)入眠,または睡眠維持の困難
(2)易刺激性または怒りの爆発
(3)集中困難
(4)過度の警戒心
(5)過剰な驚愕反応
E.傷害(基準B,C,およびDの症状)の持続期間が1カ月以上.
F.障害は,臨床上著しい苦痛または,社会的,職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている.

i該当すれば特定せよ:
急性 症状の持続期間が3カ月未満の場合
慢性 症状の持続期間が3カ月以上の場合

i該当すれば特定せよ:
発達遅延 症状の始まりがストレス因子から少なくとも6カ月の場合

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【出典】American Psychiatric Association,1995『 DSM-?:精神疾患の分類と診断の手引』高橋三郎ほか訳,医学書院


 事件の直後,急性期に起こる症状は急性ストレス症候群ASD(Acute Stress Disorder)と呼ばれている.原因や症状はPTSDとほぼ同じだが,異なっているのは,症状が二日から4週間続くことと,外傷的な出来事から4週間以内におこること,の2点である.
 PTSDの治療実践においては,主に戦場の兵士が,戦争のショックによって陥るものが主流に扱われてきた.ヴェトナム戦争後,兵士の多くに精神科的症状が出たため,PTSDの概念が広まった.現在は,児童虐待,レイプなど幅広い社会的な事件の後遺症に対してこの概念が適用されている.
 
 
2-3 ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』を読む

2-3-1 概観

 本書の表題となっている心的外傷は,原著ではtraumaとなっている.トラウマとはもともと体の傷をさしていたのだが,19世紀から心の傷という意味でも使われ始めた.この書は2部構成になっている.第1部「心的外傷障害」では,心的外傷の歴史,定義,症状,原因などが語られる.第2部「回復の諸段階」では,治療過程が詳細に述べられる.始めから順に,アイデンティティという視点から読んでいく.1章で扱った歴史=物語,権力,知識人(精神科医=治療者?)のあり方がどのように表象されているのかも分析する.
 なお,心的外傷を受けた者を指す「被害者」という言葉はvictimの訳語であり,「生存者」という言葉はsurvivorの訳語である.いずれも,心的外傷を受けた者が「病気持ち」「異常者」ではないことを表している.
 ハーマンは,徹底して被害者の立場から書いている.今までの精神科医の治療の問題点を洗い出し,被害者の力になる治療を提唱している.その姿勢は,ポストコロニアリズムの知識人像と重なる.訳者後書きによれば,「本書は,心的外傷を云々する者がまず読むように勧められる本であり,それは専門家だけでなく,知的公衆に及んでいる.特に自身が性的外傷を負った帰還兵や女性の性犯罪者に読まれている.」(中井久夫 ハーマン1999より; p405).専門家仲間にのみ利用されるのでなく,広く知的公衆に読まれ,被害者にもよく読まれているということは,サイードの提唱する知識人の理想像に見合った作品と言える.
 トラウマはポストコロニアリズム並みに,それ以上に知識層の間に,かつ一般の流行語として流行った言葉である.ポストコロニアリズムといい,トラウマといい,この論文は知的流行をただ追っただけの軽いものと思われるかもしれない.しかし,1章でわかったように,流行するとその用語は形骸化され力が無化されてしまう.「本物」のポストコロニアリズムは巷に流布しているものより,よほど強力な可能性を持っているのだ.表象の流行作用も一種のオリエンタリズム的偏見なのだ.巷で言われているトラウマと実際のトラウマ被害,治療実践がどれほどかけ離れたものであるかが以下で明らかにされるだろう.それは,本来語ってはいけないものを語る行為なのだ.


2-3-2 第1部「心的外傷障害」を読む

 第1部第1章「歴史は繰り返し心的外傷を忘れてきた」は,心的外傷が精神医学の領域でどう構築されてきたか,扱われてきたかを検証している.現在の心的外傷に相当するような被害があるのに,それはヒステリーや分裂病などの他の病気に分類されていったとハーマンは言う.心的外傷が疾病概念として確立されそうになると思うと,医学的関心の変化によってまたすたれていくという歴史の繰り返しをハーマンは丹念に記述する.
 第2章「恐怖」から心的外傷の具体的様態が説明される.章の最初に心的外傷についての簡略な定義づけがある.以下のわずかな引用文を読んだだけでも,ポストコロニアリズムが批判すべき問題点がみてとれる.
 
   心的外傷とは権力を持たない者が苦しむものである.外傷を受ける時点においては,
  被害者は圧倒的な外力によって無力化,孤立無援化されている.外力が自然の力であ
  る時,これは災害である.外力が自分以外の人間の力である時,これを残虐行為とい
  う.通常のケア・システムは,自分は自分をコントロールでき,人とつながりを持て,
  自分がいることには意味があるという感覚を人々に与えるものであるが,外傷的な事
  件はこのケア・システムでは及ばない力を持っている.(ハーマン 1999; p46)

 この引用文をもとに,今後の読みの前提となる論点をいくつか呈示する.
 「通常のケア・システム」以下の文章は,自己コントロール感,自己の意味という精神医学的アイデンティティの前提を無批判に肯定している.しかし,ポストコロニアリズムの文脈においても,これらの概念はとりわけ問題になるわけでもない.自己コントロール感,自己の意味の表象を支配者側によって規制されているからこそ,被抑圧者は支配者側の言説を疑い,より解放的な価値観に向けて進まなければならないのだ.心的外傷を受けた人は,ポストコロニアリズムで言うところの被抑圧者と状況が似ている.ポストコロニアリストは,社会の価値観,表象のあり方そのものに対して戦うのだが,心的外傷の被害者は,精神科医の元に向かってアイデンティティの再構成を頼む.治療行為は,西洋の知識人が現地の人々を自分の価値観にそって組み立てていく態度に似ている.被害者のアイデンティティは支配的な価値観を信じる他者の手に委ねられている.
 ハーマンは,孤立無縁感と無力感をもつ被害者に力を取り戻させることを治療行為と考えている.治療者の価値観の押しつけは,被害者の力をそぐのだと言う.それは第2部で明らかにされる.ただし,どんなに被害者のためを思っていても,治療者という立場にあるかぎり,被害者自身を抑圧してしまうだろう.
 また,ハーマンの視点からは,それほど社会の価値観全体を疑っていく姿勢は見られない.ただし,それはポストコロニアリストに比べてということであって,性的虐待の扱いなどについては断固として既存の偏見に対抗していく.旧体制には対抗するのだが,この世界全体には意味がある,実は素晴らしい世界なのだという,社会全体については肯定する楽観論が随所にみられる.その日和見は何回も批判すべきところだが,とりあえずハーマンの著作から,治療者という特権的立場にあるものが,いかにして被害者という周縁に追いこまれたものに対して援助できるのかという,ポストコロニアリズムの視点からは欠落していた問題を見ていくことにする.ポストコロニアリズムにとっては,西洋はいささか敵対的に描かれすぎているので,強者からの援助という考えは起きてこないのだ.西洋のものに対して第3世界の先鋭的知識人たちは,援助しないでくれ,私たちは私たちで戦う,あなたたちは自分たちがどれだけ特権的な位置にあるのか,それがいかに他者排除の歴史によって構成された虚偽であるのか見極めなさい,と言っているかのようである.否定されているこの可能性を見極めたいのだ.ただし,トリンの以下のような批判を忘れることなく.

  強制的になされる<移動 再定位 再教育 再定義>がどれほど非人間的なことか,
  また,あなた自身の現実,あなた自身の声を偽らなければならないことがどれほど屈
  辱的なことか・・・それに,そう言えないことも多い.だからあなたはそう言わない
  ようにし,ずっと言わないでおこうとする.なぜなら,たとえあなたがそうしなくて
  も,かならず彼らがそのブランクを,あなたの代わりに埋めてくれ,あなたはそれに
  よって語られることになるからだ.(トリン 1995; p128)
  
  援助における問題は,援助する側が援助される者に自分の価値観を押しつけることだ.彼らは善意を表してくるので,やめてくれとはなかなか言えないものだ.根本的な問題は,語る権利を強者に奪われてしまうことなのだ.しかし,トリンのこのような忠告にそって,ハーマンは治療行為を確立しているように思われる.被害者の立場を最大限に尊重するその態度を抽出していきたい.
 治療過程を扱った第2部に進む前に,第1部を引き続きみていく.
 外傷後ストレス障害の多様な症状をハーマンは「過覚醒 hyperarousal」「恐怖 intrusion」「狭窄 constriction」という3つのカテゴリーに分類する.
 「外傷をこうむった人間は些細なことで驚愕し,些細な挑発にも苛立たしく反応し,睡眠の質が下がる」(ハーマン 1999; p50),このような症状を過覚醒という.
 「危険が過ぎて長時間がたっても,外傷をこうむった人はその事件を何度も再体験する.・・・彼らは人生の正常な軌道に戻ることができない.外傷が繰り返しそれを遮るからである.」(ハーマン 1999; p52),これが侵入である.侵入してくる「外傷性記憶は言語による「語り」も「前後関係」もない.それは生々しい感覚とイメージの形で刻みつけられるのである.」(ハーマン 1999; p54).
 ハーマンが直線的で発展していく通常の記憶概念を基準に外傷性記憶を定位していることは確かである,通常の記憶もポストコロニアリストによれば,外傷性記憶のように実際はばらばらなのに.外傷性記憶は,ピンチョンなどのポストモダン小説家の語りの構造に似ている(ピンチョン 1993).しかし,実際の患者は絶え間なく想起される忌まわしい断片期な記憶に悩まされているのだから,ここを揚げ足とりのように批判することは無用な戯れだ.
 「人間というものは,完全に無力化され,いかなる形の抵抗も無駄である時には「降伏 surrender」の状態に陥るはずである.自己防衛のシステムは完全に停止する.孤立無援化された人は置かれている状況から現実世界において行動することによって脱出せず,意識の状態を変えることによってそこから抜け出ようとする.」(ハーマン 1999; p61)これが3つ目のカテゴリー,狭窄である.外傷から身を守るため,感覚は鈍り,体の一部が麻痺するようなことも起こる.「このような知覚の変化と結びついて,無関係感,感情的超然(第三者)感,そして,その人の主動性と闘おうとする気概とのすべてを消失させるような深い受け身感とが起こる.」(ハーマン 1999; p62).外傷性記憶は,通常の記憶からは解離されてしまうことも起きる.
 侵入と狭窄という矛盾する2つの症状が,交互に被害者を襲う状態をハーマンは「外傷の弁証法」と名づける.「侵入症状もマヒ症状も,外傷的事件を自我に統合することを許さないものである」(ハーマン 1999; p69)とハーマンは言うが,ここにも統合された自我が正しいというハーマンの誤解がある.ただし,「外傷を受けた人は記憶喪失と外傷そのものの再体験という両極の間を往復し,圧倒的な強烈な感覚の洪水と全く何も感じないという砂漠のような空白状態との間を往復し,衝動的な苛立ち行動と全くの行動抑止との間を往復する.」(ハーマン 1999; pp69-70)というそれに続く記述を読むと,そのような専門外からの軽薄な批判は慎まざるをえなくなる.
 それでも,統合された自我ではなく,トリンが修辞的に描いたような無限のアイデンティティを精神科医に納得させ,そのようなアイデンティティの方向で治療行為を行わせることはできるのだろうか.精神科医は社会規範に流通している支配的なアイデンティティ像を肯定している.というよりも,精神科医が規範的アイデンティティ像と精神病者像を確立してきたのだ(そのあり方については牛島 1998を参照せよ).先に社会に価値観の変革を迫るべきか,精神科医にまず変革を迫るべきか,いや,両方同時に行うべきであろう.
 第3章「離断」では,外傷の人間関係に与える打撃が分析される.
 
   外傷的事件は基本的な人間関係の多くを疑問視させる.それは家族愛,友情,恋愛
  そして地域社会への感情的紐帯(アタッチメント)を引き裂く.それは〈自分以外の
  人々との関係において形成され維持されている自己〉というものの構造を粉砕する.
  それは人間の体験に意味を与える信念のシステムの基盤を空洞化する.
   (ハーマン 1999; p75)

 外傷的事件は,意味と感情的紐帯のシステムを粉砕するものとして定義されている.まさしくこのようなシステムの抑圧構造を調べるのがポストコロニアリズムなのだが,ハーマンは支配システムを疑っていない.被植民者が植民者の価値観を強制されるのは,他者からの,他者の価値観の押しつけである.トラウマ治療の場合は,被害者が被害を受ける前に持っていた価値体系をできるだけそのまま再構築させようとしている.よって,植民地関係と治療関係では微妙に主体と従属者の位置関係が異なるのだが,システムを疑う視点をぜひ精神科医にも持って欲しい.何だか当てつけのようだが,善意を持って行われる行為の裏にどのような支配者との共謀関係があるのかを常に疑う必要があるのだ.

   正常な児童の発達においては,肯定的(積極的)な自己像の上に次第に向上する有
  能性とイニシアティヴをとる能力がつけ加わってゆく.有能性とイニシアティヴとに
  かんする正常な発達的葛藤の解決が不十分であると,その人は罪悪感と劣等感を起こ
  しやすい.外傷的事件は,これはほとんどその定義のようなものであるが,イニシア
  ティヴを駄目にし,個人的有能性をくつがえす.被害者がいかに大胆で才能にめぐま
  れた人であっても,その行動は災厄を排除するには十分でなかったわけであるから,
  外傷的事件の余波期において被害者が自分の挙動を回顧し反省する時,罪悪感と劣等
  感とが及ばない部分はほとんどない.(ハーマン 1999; p79)

 「正常な発達的葛藤」など問題な部分は多いが,いちいち揚げ足をとるように指摘していても何も生産されない.ここからは,ハーマンの言っている部分で,ポストコロニアリズムの実践において役立つ部分も見ていく.被抑圧者にいくら才能があっても,有能性とイニシアティヴが発揮できないこともある,それが抑圧の恐怖だ.外傷を支配者からの抑圧と解釈すれば,ハーマンの外傷に対する分析はポストコロニアリズムの文脈で役立てることができる.
 
   外傷的事件の打撃力はまた受けた者の復元力によってもある程度は変わる.…スト
  レス抵抗性の個体はどうも人づき合いがよく,よく考えてしかも積極的な対抗行動の
  様式を選び,自分の運命は自分で切り開く能力が自分にあると強く感じている人であ
  るように思われる.たとえば,多数の児童を誕生から成人になるまで追跡した研究が
  あるが,十人に一人の児童が幼年時代の逆境に耐える上で抜群の能力を示した.その
  児童たちの特徴は目ざとく敏捷で積極的であり,人づきあいがよく,自分以外の人た
  ちとコミュニケートする手腕がすぐれ,自分の運命は自分で決められるという強力な
  感覚を持っていた.この感覚は心理学者たちが「内的統制」といっているものである.
  ほぼ同じ能力は疾病に対する特段の抵抗力を示す人,および日常生活のストレスにお
  いても格別に強靭な人にもみられる.(ハーマン 1999; p86)
 
 この逆境に強い人間像は示唆的である.サイードらの説くポストコロニアリズムの知識人像には,「人づきあいがよく,自分以外の人たちとコミュニケートする手腕がすぐれ」などという表象はなかった.知識人は,孤高であらねばならないのだ.知識人が社交的手腕に優れる必要があるなどとは決して表象されていなかった.知識人は,「人々の内部に内省的で批判的な能力を目覚めさせる」(トリン 1996; p158)ことを欲しはするが,大衆に対して逆境に強くなるように,より社交的になるようには勧めない.内省的で批判的な能力を身につけても,心的外傷に対する耐性はできないのである.
 大いなる災厄に直に直面している人たちには,ハーマンの提唱するような能力が必要となるのだろう.むしろ知識人は,自分が逆境にあることを自覚していない人々に自覚を促すのだ.覇権(ヘゲモニー)の枠内にいる人々に知識人は自覚を促す.覇権とはトリンが以下で説明するようなものである.「覇権という言葉で私が示しているのは,立場や性の違いから一方が他方にふるう権力のことであり,かつては直接的な支配の形態を取っていたが,今は同意によって作動している  したがって悪質で継続性があり,拘束力の強い  文化的,性的な支配の形態のことである」(トリン 1996; p79).
 知識人と治療者の役割の違いが明確となった.治療者は何らかの被害によって生活がおくれないほどのダメージを受けた人のための治療理論を提唱し,実践する.治療者は被害者が失った生活感覚,社会感覚を自力で取り戻してもらうための援助をする必要があるため,ある程度既存の社会規範を肯定する必要がどうしてもある.それに対して,知識人は自分が支配・抑圧の形態と共犯関係にある自覚がない人々に自覚を促し,既存の社会の規範がいかに抑圧的であり,周縁を排除するものであるかを表象し続けるのだ.知識人の批判の矛先は,治療者の治療実践にも当然向けられる.ただし,治療者が被害に直面する人々の力になれるのに対して,知識人は病的なまでに苦しんでいる人々に対して直接援助することはできない.むしろ知識人は加害者側の生活実践を絶えず批判するのだ.知識人の言説が立つ位置は,被害者側にある.治療者も被害者側にたって治療を行う.ただし,その実践の向かう先は,知識人の場合は加害者へ,治療者の場合は被害者へと,という図式になる.
 さらに,心的外傷に強い耐性を示す「復元性の高い人」は,どのような人格特徴なのか見てみよう.


  平均的な人たちがたやすく恐怖によって金縛りにされ孤立してしまうようなストレス
  フルな事件の最中においても,復元性の高い人は自分以外の人たちと力を合わせて目
  的にかなった行動をとる機会があればこれをすかさず捉えることができる.極限状況
  においても社会的なつながりを維持し,積極的な対抗戦略を放棄しないでおれる能力
  はまた後の外傷後症候群の発症をある程度予防するようである.たとえば,海難の生
  存者の中でも自分以外の人間と力を合わせて生き残った人たちは後になってPTSD
  を示すことが比較的少ない.これに対して恐怖に「凍りついて」他の人たちと離れて
  しまった者は後に発症する確率が高い.いわゆる「ランボー」たちも発症の確率が高
  い.これは一人だけで衝動的行為にひたり切って他の者と連携しようとしなかった人
  たちである.(ハーマン 1999; p87)

 治療実践の文脈においては,目的にかなった計画的な行動をとることが奨励される.さらに,社会的なつながりを維持し続ける必要性も説かれる.知識人は,目的,計画を糾弾する.社会的なつながりの大切さについてもそれほどは説かない.連帯,共闘は必要だと言うし,聴衆の参加なしには社会変革はありえないと言うが,むしろ社会の絆から離れて自由に批判できる立場を奨励するのだ..

   激烈な戦闘に曝されたのにPTSDを発症しなかったベトナム帰還兵十人の研究に
  よれば,ここでも,積極的・合目的的な対処戦略,高い社交性,内的管制塔の存在の
  三つの特徴がみられた.この例外的な兵士は,意識的に自分の冷静さ,判断力,自分
  以外の人たちとのつながり,倫理的価値,自分の有意味感を温存することに全力を集
  中し,それがもっともはげしい乱戦状態においても変わらなかった人たちである.戦
  争に対するこの人たちの姿勢は,これは自分への危険性の高いチャレンジであるから
  有効に対処して何とか生き抜こう,むざむざ犠牲になってたまるものか,というもの
  であった.この人たちは自分たちが参加した戦闘行為について無理にでも何らかのも
  っともらしい目的をつくり上げ,この考え方を自分以外の人たちにも伝えようと努力
  する.自分を守るのに劣らず自分以外の者を守ることに対しても高い責任感を示し,
  これは間違っていると思った命令に対しては反対し,無用の冒険を避ける人たちであ
  った.自分以外の恐怖も自分以外の人たちの恐怖もあって当然と受容し,しかし危険
  に対してできるだけ備えることによって恐怖に打ち克とうとつとめた人たちである.
  また怒りに身をまかせることも避けてもいる.この人たちは皆,敵に対する憎悪や復
  讐を口にせず,レイプ,拷問,一般市民あるいは捕虜の殺害,死体損壊に加わってい
  なかった.(ハーマン 1999; p87)

 心的外傷を及ぼすような危険度の高い状態に陥った場合は,できるだけ孤立無援にならないように,自分が無力だとは思えないように,普段の人生の価値観を失わないようにして行動していけばよいのである.この激烈な状況にいてもPTSDを発症しなかった兵士の理想像は,サイードやスピヴァクの「実際の姿」だと私が思いこんでいる彼らの理想像と重なる.
 目的を持つこと全てを否定すると虚無主義に陥る.誰でも目的を持ってしまうのだから目的を持つこと自体は否定しきれないとスピヴァクは言っていた.目的を持つことが支配につながることは指摘すべきだが,支配に抵抗するためであれば目的を持ってもよい.スピヴァクもサイードも上に描かれている兵士のように責任感と倫理的意志をもちながら,知識人として活動している.彼ら知識人の著作を読んで,支配的価値観の強大な力を思い知り,ニヒルになったり,戯れに走ってはいけないのだ.彼らは強い責任感をもって制度の中で闘っているのだから,否定的な修辞も,全ては支配に対する抵抗だと読み取らなくてはならない.
 ハーマンの心的外傷の回復過程では,被害者の無力感と孤立無援感を治療することに重点が置かれている.特に治療過程における支援者の重要性をハーマンは指摘している.「生存者に幸運にも支援的な家族,愛人,友人がいるならば,この人たちからのケアと 庇護とは強力な治療的効果がある.」(ハーマン 1999; p93).
 ポストコロニアリズムの文脈では,支援者の重要性はあまり語られることはなかった.むしろ支援しようとするものは全て被害者の語る権利を奪うものとして,表象されていた.この相違点は重要である.
 続いて,第4章「監禁状態」に移る.この章は,政治的監禁もしくは,婦女子が家庭内で監禁されている場合の犠牲者の状況を論じる.単一性の外傷はどこでも生じうるが,長期反復性外傷は,監禁状態という条件があって初めて生じるという.長期間虐待され続けることで,外傷後におこる侵入や狭窄などの症状がその後何年間も反復して被害者に襲ってくるのだ.
 この監禁状態という考えは,ポストコロニアルの文脈で,歴史的に民族規模で迫害を受けた人々の状況にあてはめることができる.世代を超えて過去の辛い経験は語り継がれる.
 監禁される場合,被害者は監禁が長期化するにつれて犯人に依存するようになると言う.依存が進むと,犯人の価値観に犠牲者の価値観が同化していき,犯人の現実が犠牲者の現実となると言う.まさしくこれは,植民地状況にあてはまる言述である.この状況に陥らないためには,犯人を人間と思わずにし,犯人と心理的な交流をしないようにすること,もし仲間がいれば仲間と連帯を作り,社会性と生活感覚を失わないようにすることなどがあげられている.
 監禁状態によって生じる外傷後症候群の症状は,長期化,複雑化しやすいという.状況に耐えるために感覚の麻痺が起こるし,アイデンティティの非人間化,自分をロボットや動物と思ってしまうような事態も起きるという.監禁から解放されても,監禁時の思考法が体に残っており,人々に対しての信頼感が持てなくなったり,絶えず怯えたり,自分で自分の行動の主導性を保てなくなるとも言う.これらのポストトラウマティックな症状は,ポストコロニアルの人々の説明にもなりうるだろう.
 第5章「児童虐待」に移る.児童虐待の文脈は,植民地状況にも十分重ね合わせて考察することができる.
 
   成人がその生活において外傷を繰り返しこうむれば,すでに形成されている人格構
  造が腐蝕されるけれども,児童期に外傷をくり返しこうむれば,この外傷が人格を形
  成し変形する.虐待的な環境にはまって出られなくなった子どもは,社会に適応する
  のが恐ろしいほど大変な仕事になる.(ハーマン 1999; p147)

 児童虐待も長期的で複雑な外傷後症候群を起こすという.児童に本来ケアと愛情を示すはずの親や大人が児童を虐待するのだから,深刻な影響が出ることは避けられない.
 虐待されるのは自分が悪いんだという感覚,もしくは虐待されないようにいい子であろうと執拗に努力し続ける自分,虐待児が肯定的な自己意識を確立できた場合でも,その陰に極度の自己犠牲がある場合があるハーマンは言う.
 
   この矛盾した二つの自己既定,すなわち低められた自己と高められた自己とは統合
  が不可能である.被虐待児はほどほどの長所とゆるされるほどの欠点とを持った一ま
  とまりの自己イメージを育てることができない.被虐待的な環境においては,ほどほ
  どとかゆるされる範囲というものは存在しないのである.被害者の自己イメージは,
  したがって硬直的であり,誇張され,分裂したものでありつづける.ひじょうに極端
  な場合には,このようなバラバラの自己イメージは解離された「もう一人の自分」人
  格たちの巣となるであろう.(ハーマン 1999; p165)

なぜ,ポストコロニアルの言説はばらばらな自己を肯定するのかというと,西洋が自分に様々なアイデンティティを押しつけるためという側面もある.「黒人の女」「外国人」「移住労働者」などと様々な否定的アイデンティティを押しつけられるのだから,それらのアイデンティティに囚われることなく,無限に境界横断することが望まれたわけだ.トリンは,その分裂状態をそのままで肯定的に扱おうとするが,ハーマンはトリンが否定した「一まとまり」の自己イメージは必要だとここでも主張している.
 引き続き,第6章「新しい診断名を提案する」をみる.ハーマンは,その当時のDSM-?の診断マニュアルにある心的外傷後ストレス障害の定義は,児童虐待や長期の虐待によって生じる長期反復的外傷症候群に対応していないと言い,「複雑性外傷後ストレス障害」の定義を考案する(「複雑性外傷後ストレス障害」は,2-2でみたようにDSM-?では採用されなかった).
 ポストコロニアリズムの文脈に即しそうな部分をこの章から抜き出す.ハーマンは,精神科医は被害者に欠陥があったから,被害にあったのではないかという偏見を持つことがあると言う.特に女性など弱い立場にある者が被害にあうと,被害者の性格にも問題があったと見なしやすいと言う.レイプ被害の場合には,彼女の方にも問題があったのだ,同意したのだという意見が出やすい.ハーマンはしかし,共犯性や協力という言葉を,自由がはく奪されている状況にあった被害者に対して使うことはできないと主張する.
 ポストコロニアルの文脈では,被抑圧者の方にも問題があったのだ,彼らは帝国主義者と共犯関係にあるなどという傲慢で時代遅れの言説はもう聞かれないであろうことを祈る.だが,ポストコロニアルの知識人に対する差別は数多く存在するだろうから,それらの偏見がなくなることも祈る.
 また,「生き残るための最小限の基本的欲求が残るだけになってしまった人の臨床像をみて,これは被害者の元来の性格だと誤診されることは今日でもしばしば起こっている.
 」(ハーマン 1999; p184)ともハーマンは言う.移住労働者で有色人種で,ブルーカラーな人々の状態を,彼らの元来の性格だと決めつけることはできないのだ,被害の歴史が裏にはあるのだ.


2-3-3 第2部「回復の諸段階」を読む

 第2部からは,被害者の回復が描かれる.本書の題名が「心的外傷と回復」ともなっているように,治療ではなくあくまで回復なのだ,ハーマンにとっては.被害者の主体性を取り戻すことに主眼が置かれるのだ.その理論は過酷な状況にあるポストコロニアルの被害者たちにも応用可能であるはずだ.
 第7章「治癒的関係とは」では,治療者と生存者との治療過程における原則が呈示される.ハーマンは,心的外傷の体験の中核には無力化と他者からの離断があると言う.

  回復の基礎はその後を生きる者に有力化 empowermentを行い,他者との新しい結
  びつきを創る creation of new connectionsことにある.・・・生存者は心的外傷体
  験によって損なわれ歪められた心的能力を他の人々との関係が新しく蘇る中で創り直
  すものである.その心的能力には「基本的信頼を創る能力」「自己決定を行う能力」「積
  極的にことを始める能力」「新しい事態に対処する能力」「自己が何であるかを見定
  める能力」「他者との親密関係を創る能力」がある.これらの能力はそもそもが他者
  との関係において形成されたものであり,まさにそのように再形成も他者との関係に
  おいてなされなければならない.(ハーマン 1999; p205)
  
 ハーマンは,アイデンティティは他者との関係によって規定されることは認めているが,自己と他者の間に明確に境界を引くことを提唱する.自己が確固としないと他者と関係を結べないし,他者に対するイメージが分裂的でも他者と正常な関係を結べないと言う.ばらばらでもいいのだとトリンの考えからすると反論できるが,実際に自他のイメージがばらばらで悩んでいる人を前にしている精神科医は,そんなことは言葉遊びにすぎないと反論するだろう.さらに言うと,スピヴァクが指摘した,西洋の知識人が第3世界のために語っているように見えながらも,決して彼らのためにならず,彼らの言葉を奪う形になってしまったという構造を,今現在ポストコロニアリズムの言説が模倣しているのではないかという疑念がこれを読んでいると起きてくる.
 理由を説明しよう.トリンの説く無限のアイデンティティは,精神医学によって抑圧されている精神病者のアイデンィティティ表象をモデルとしている.しかし,トリンが肯定的に定義しなおした分裂したままのアイデンティティが,精神病者の治療のために役立たないならば,トリンは精神病者らの表象を奪っただけで,何も彼らに返していないことになる.社会的弱者の味方になっているつもりが,なっていない,表象を奪っただけなのだ.やはり誰か治療者が実際に無限のアイデンティティ理論を使って治療実践をし,効果を証明する必要がある.
 ハーマンの著作では次に,回復のための原則が示される.

   回復のための第一原則はその後を生きる者の中に力を与えることにある.その後を
  生きる者自身が回復の主体であり判定者でなければならない.その人以外の人間は,
  助言をし,支持し,そばにいて,立会い,手を添え,助け,温かい感情を向け,ケア
  をすることはできるが,治癒(キュア)するのはその人である.善意にあふれ意図す
  るところもよい救援の試みの多くが挫折するのは有力化という基本原則が見られない
  場合である.その後を生きる者から力を奪うような介入はその人の回復のためになり
  えない.いくら,その人にその場では役に立つようにみえてもだめである.ある近親
  姦の後を生きる女性の言葉では「よい治療者とは私の体験をほんとうにまともに取り
  上げて確認してくれ,私が私の行動をコントロールできるように助けてくれる人のこ
  とで,私をコントロールしようとする人のことではない」
                         (ハーマン 1999; pp205-206)
 
 スピヴァクは『ポスト植民地主義の思想』で常に,慈悲心に溢れた行い,善意の行動の危険性を指摘していた.代わりに彼女は自己批判精神を奨励するのだが,しかし,彼女の善意批判を言葉通りに受けとって,慈善家の全てが悪いと解釈してはいけないのだ.必要なのは,救済者になろうとしないで,相手の力の育成を見守る姿勢なのだ.その姿勢があれば,慈善事業家でも構わないのだ.「求められているのは,全く一方的な行動ではない.当事者に対してその希望を尋ね,安全と両立する範囲内で選択肢をできるだけたくさん出すべきである.」(ハーマン 1999; p206)というハーマンの言葉も示唆的だ.一方的に相手の意向を無視して,行動を強制するのではなく,相手の意向を常に尋ね,選択肢をたくさん与える行為を支配者の全てはこれから全ての被抑圧者に対して行っていくべきである.いささかサイード調の断言に成り過ぎたので,以後は慎重に行く.
 ハーマンは,回復には暫定的に定められる3段階があると言う.(1)安全の確立,(2)想起と服喪追悼,(3)通常生活との再結合である.この3つが以下の3章で語られる.
 第8章「安全」をみる.治療の第1段階では,外傷によって喪失している自己の安全感覚をいかに取り戻すかという点に重点が置かれる.不安全感,自己統御の喪失感を取り除くこと,イニシアティヴをとり,計画を立て,独自の判断を下す能力の奪還が,治療によって目指されるという.治療には,薬物療法,認知療法,行動療法,リラクゼーションなど,精神医学で一般に行われている治療法が採用される.
 ポストコロニアリズムの文脈に応用できそうなのは,加害者と被害者の関係を述べた部分である.
 
  殴り殴られる関係においては,加害者側の誓約にもとづく安全の保障はありえないの
  である.いかに心を打つような誓言であってもである.それは被害者の自己防衛能力
  にもとづくものでなければならない.被害者が現実的な危機対処計画を作成し,それ
  を実行に移せる力があることを証明するまでは,被害者は虐待をくり返される危険が
  あるから決して油断できない.(ハーマン 1999; p262)
 
 児童期に虐待を被害者は大人になっても,加害者と複雑な関係にあることが多いという.加害者には暴力の裏に〈強制的にコントロールしたい〉という願望があるため,被害者自身が自己防衛能力を獲得するまでは,加害者側の力で安全が得られるとは思ってはいけないのだという.
 ここにポストコロニアリズムに応用できる問題が浮かび上がっている.精神医学における治療者は,加害者とは無関係だ.だが,ポストコロニアリズムの場合は,治療者と加害者の位置の問題がより複雑になる.治療者になろうとするような西洋の知識人,援助家は,第3世界の知識人側からすれば,帝国主義という加害者の一部に含まれることになる.例え植民地支配が終わっていても,帝国主義が残した地球規模の支配体制の生み出す恩恵のもとに西洋の人々は育ってきている.ゆえに,彼らを加害者の一部だと表象しても論理の跳躍ではないのだ.そのために,治療者をあれほど信頼しようとしない第3世界の知識人の態度が生まれている.
 西洋の支配体制の恩恵を受けてきた白人ブルジョワ男性が,マイノリティに対する援助行為を行おうとするなら,スピヴァクらが言うような自戒がやはり必要となる.すなわち,最初に自己と自分たちの社会がどれほど暴力を振るってきたかを洗いざらい検証し,その基盤の上に現在の偽りの繁栄があることを認識したうえで,絶えず自分の言説の持つ暴力性を認識しながら援助行為に向かわねばならないだ.
 第9章「想起と服喪追悼」に移る.

   回復の第二段階とは被害経験者が外傷のストーリーを語る段階である.それは完全
  に,深く,具体的細部にわたって語られる.この再構成の作業によって外傷的記憶は
  実際に形を変え,被害経験者のライフ・ストーリー(生活史全体)の中に統合される
  ようになる.(ハーマン 1999; p275)
 正常な記憶は,言語による直線的な物語となるのに対して,外傷的記憶は,言葉を持たず映像のみ,感情も混じらず,繰り返しが多いという.「それは時間を追って発展し進歩するということがなく,ストーリーを語る者の感情のあり方も事件の解釈も明らかにしてくれない.」(ハーマン 1999;p273)これはサイレント映画のようだというが,私には外傷的記憶はポストモダン小説や映画のようにしか思えない.まさしく知の最先端で賞揚されるような物語の書き方を外傷性記憶はこなしているのだ.しかし,西洋の知識人たちがサバルタンを表象しているようでいて,何も見えていないのと同じように,実際の外傷性記憶はポストモダンの言説が賞揚できるようなものではないだろう.
 ハーマンは,事件の物語を言語化し,再構成する作業を促す.被害者にとって外傷性記憶を思い出したり,他者に語るのは非常な苦痛を伴うので,安全感がしっかり確立されてからでないとこの作業には進むべきではないという.生存者の語りを聞くとき,治療者は「中立的」「非最低的立場」をとるだけでなく,生存者との道徳的連帯性を鮮明に示すことが必要であるとハーマンはいう.
 
  治療者はまた,生存者の価値と威厳とを肯定するような,外傷体験の新たな解釈を構
  築する助けをしなければならない.治療者にアドヴァイスをするとしたらどういうこ
  とを言いたいと思いますかと尋ねられた生存者がいちばんよく言うのは,治療者が真
  実性の確認役をしてほしいということである.(ハーマン 1999; p279)
 
 治療者に確認してもらい,被害に遭う前後の生活史と意味があうように外傷性記憶を人格に統合できるようになれば,生存者の恥辱感は軽減されるという.語られなかった記憶を物語る行為は,最近の,歴史の検証を行うモリスンらポストコロニアリズムの文学に通じるものがある(モリスン 1990 ).
 外傷性記憶の想起がある程度達成されたならば,外傷性喪失を服喪追悼する段階に移る.ハーマンは,生存者の外傷体験があまりに衝撃的だった場合には,生存者は外傷体験によって生じるはずの哀しみの感情を追放してしまうことがあるという.外傷によって喪失したものを追悼することで外傷による症状は解消されるという.
 加害者に復讐しようという復讐幻想は外傷性記憶の裏返しに過ぎないという.「加害者の側が正心証明の痛悔をするのは稀有な奇蹟である.さいわい,生存者はこれを待っている必要はない.生存者の治癒はおのれの生活をとりもどそうとする愛に気づくことによるからである.」(ハーマン 1999; p297).ハーマンは,自己を肯定し,コントロール感をとりもどすことを奨励しているが,生存者に罪を問うことをやめろと言っているわけではないという.復讐に心を奪われることをやめて,他の人々とともに法廷で加害者の責任を問うことをすすめるのだ,心を掻き乱されることこそ心的外傷がもたらして災厄なのだから.
 第10章「再結合」に移る.回復の第3段階は,新しい自己像の創造という過程になる.外傷によってばらばらにされた信念,自他像を再構築するのだ.トリンのいうよう境界横断的な自己でなく,ハーマンは他者と自己の境界を明確に認識できる自己像を推奨する.
 精神医学的なアイデンティティ像にハーマンは無批判なのだが,ハーマンは生存者に自己防衛感,パワーが芽生えたならば,今度は既成の社会の価値観・権威を疑い,闘ってみることを勧める.
 例えば,男は勇敢に戦場に赴かねばならないだとか,女性は従順であるべきだなどの価値観を疑うことで,自分を被害者役に押しこめている社会的圧力の発生源がわかるという.フェミニストであるハーマンの面目躍如となる箇所である.被害者は往々にして自分の意見をはっきり述べたり,他人に反抗するのに抵抗感があるので,既成の価値との闘争がよい治療になるのだという.外傷を受けたことをプラスに捉え,外傷体験の経験者としての自分が社会にいかに貢献できるかを考えることもハーマンは勧めている.
 回復の過程の説明はこれで終わるのだが,ハーマンは最後に,外傷の完全な解消はありえないこと,再発の可能性があることを説く.それでも,生存者の注意が回復から離れて,日常生活の様々な仕事に移るだけでも十分だと説く.
 第11章「共世界」では,人間の共世界 human commonalityに再加入することによって,生存者は失われた人間性をとりもどすとハーマンは言う.
 
  グループの連帯性は恐怖と絶望とに対する最大最強の守りであり,外傷体験の最強力
  な解毒要素である.外傷は孤立化させる.グループは所属感を再創造する.外傷は恥
  じ入らせ,差別の烙印をおす.グループは証人になり,肯定する.外傷は被害者を堕
  落させる.グループは向上させる.外傷は被害者を非人間化させる.グループはその
  人間性をとりもどす.(ハーマン 1999; p340)

 ここでもポストコロニアリズムの文脈では被抑圧者の状況打破のために必要なものとしてそれほど強調されていなかったグループの絆が強調されている.治療にグループ療法をとりいれることをハーマンは勧める.複数の副リーダーによってグループが運営されることも勧められている.

  複数の副リーダー co-leadersによるパートナーシップの利点は副リーダーたちにと
  どまらずグループ全体に及ぶものである.副リーダーたちは補い合いのモデルになり
  うるからである.副リーダーたちが,どうしても生じてしまう相互の相違点を克服し
  消化してゆく能力を示せば,それはグループ全体に広がって,葛藤と多種多様性に対
  するグループの耐用性が増大する.もっとも,対等者同士の協力でなく支配と屈従と
  がリーダーたちの間で再演されるようなことになるならば,安全の雰囲気が醸成され
  ることはありえない.(ハーマン 1999; p355)

 これもポストコロニアリズムの言説に流通させたい.
 以上でハーマンの著作の本編は終わるのだが,増補版には補論として「外傷の弁証法は続いている」が掲載されている.ここでハーマンは回復のさまざまな段階は,個人の治癒過程のみにとどまらず,共同体の治癒過程にもみられると言う.集団的な残虐行為に対してもハーマンの理論が有効性を持つことが主張されている.

 
2-4 ポストコロニアル状況とポストトラウマティック状況の差異

 2章の最後に,今までの議論を「アイデンティティ」など本論文の主要概念に対するハーマンとポストコロニアリストの表象の仕方の違いとしてまとめてみる.
 アイデンティティについては,ハーマンは古典的な一つに統合されたもの,自他の境界がしっかりわかれているものとして表象している.計画をもって行動でき,目標をもって生きていける個人を精神治療の目標として設定してしまっており,その概念からはずれたアイデンティティをもっている者は,障害者として診断されてしまう.「物語」について言えば,直線的に発展し,言葉で語られ,意味のあるものを正しい物語として定義してしまっており,外傷性記憶のような,非直線,言葉がなく映像イメージだけ,意味も明確にとれないような物語は,物語以前的な物語として排除してしまう.
 権力について言えば,旧来の支配権力にたいして差別的な言説があると思えば,それに対して対抗する姿勢はみせるものの,世界全体の価値観を疑うまでには至っていない.自分たちの住む世界は素晴らしいものだという楽観論が見受けられる.ただし,これについては,治療者の立場というものがあるから,あまりに世界に意味を見出していない被害者を治療するためにとらざるをえない立場であると言える.
 アイデンティティや物語や権力に対する,ポストコロニアリズムの観点からみると誤謬にまみれた意識は,治療者という立場からくるものである.社会の規範から外れてしまっている被害者が以前の価値観と生活様式を取り戻すことへの援助を行うため,治療者は社会規範をある程度肯定する.その他者支配的な立場はポストコロニアリストからすれば,批判されうる.しかしハーマンは,治療者は被害者を支配下におかないように何度も注意する.その支配被支配の依存関係が犯人と被害者の関係を再演してしまうし,治療には役立たないからである.治療者は,孤立無援感と無力感に囚われている被害者が,力を取り戻すまでの援助を行うだけだと言う.
 この援助を行うという関係は,ポストコロニアリズムの文脈では否定され続けてきた.なぜなら,援助を行おうとする他者は,支配構造によって優位にたっているため,ある種支配の共犯者とみることができるからである.トラウマ治療の文脈の場合,治療者はあくまでトラウマとは関係のない第3者の立場にあるため,被害者は治療者を嫌悪する必要はあまりない.
 ポストコロニアリティにおいて第3世界の援助を行おうとする場合,援助者は絶えず自分の社会がどれほど他者を抑圧してきたかの歴史を検証しなければならない.かつ,その支配構造の歴史によって今の自分の特権的位置があることも認識する必要がある.この支配構造を援助者は批判し続けなければ行けないし,発言および行動するときは絶えず自分の持っている特権性を認識し続けなければならない.そうした自己批判が達成されないで,歴史的に排除されてきた他者に援助を行うとすると,支配構造の反復をしかねないのだ.
 ポストコロニアリズムは各主体が置かれている歴史的状況を問題にした.特権的で客観的で透明な第3者的立場などどこにもないのだ.この視点にたてば,トラウマ関係に対して第3者だとして表象されている治療者の立場も,実際には公平客観な場所などではないことになる.治療者は,公平客観な立場になど自分はなれないことを自覚する必要がある.そのうえで,ハーマンが言うようにそれでもできるだけ中立的な立場を維持できるように,被害者の言葉を裁定しないように,被害者と道徳的連帯が作れるように治療行為を行えばよい.
 ハーマンの示した回復過程や治療者と被害者の治癒的関係の理論は,ポストコロニアルの状況に十分接続できる理論射程をもつ.ポストコロニアリズムの言説では語られず批判された援助について,ハーマンは有益な視点を示しえた.これは贈り物として受け取ることができる.逆に,ポストコロニアリズムからハーマンに対して,アイデンティティ概念を何とか更新できないかという提言が贈られることになる.アイデンティティ概念を更新するためには,直線的に発展する物語とか,計画や目標を掲げるのを称賛する精神医学の多くの言説の変更をも求めることになる.無限のアイデンティティなどレトリックにしかすぎないと言ってしまえば,支配的なアイデンティティの価値観を温存することになってしまう.社会と精神医学の全体に価値変更を迫る提訴を行いつつ,分裂的なアイデンィティティ概念に基づく治療でもPTSDは治るという実例を科学的に示さねばならないだろう.
 引き続き次章でも詳しく考察する,知識人像の違いについて最後に分析する.ポストコロニアリズムの知識人は社会の外側にたって,ヘゲモニー内で快活に暮らす人々に自己批判を迫るような表象の生産を行っていた.一方,精神科医たちは社会の価値をそれほど疑わずに肯定する専門家として社会内で活躍し,被害者に特権的な立場から治療を行っている.
 そうだからと言って一方的に精神科医を批判することはできない.精神科医たちは,トラウマ被害者など直接に苦しむものに即刻有効な援助行為ができるのに対し,知識人は直接苦しむものの力とはなりにくいのだ.既存権力内で苦もなく生活している者に自己批判を迫る力はあるのだが,知識人はすぐ効く実効性を大事にしない.むしろ功利主義的として軽視する.彼らはより大きな視点から社会と歴史の問題を問う.
 専門家は権力を批判しないからと言って,一方的に批判することもできないのだ.彼らは彼らで知識人には成しえない実践を行っている.苦しむ者に平和を取り戻させる実践のためには,社会の価値を肯定することもやむをえないのだ.
 両者が全く違う実践圏内にあるかというとそうでもない.ハーマンがしめしたトラウマに耐性のある者と,サイードら知識人のあり方は似ている.他者に対する責任感,自分で自分の運命を切り開いていこうとする意志などが似ているのだ.これらの表象を両者とも肯定はするのだが,大きな違いが1つある.ハーマンは繰り返し,感情的紐帯の重要性,信頼感の大切さを説いていた.しかし,知識人は社交性や仲間意識,信頼,感情などについてはあまり語っていない.この両者の違いの問題は第3章でも再び注目されることになる.


「第3章  軍事心理学とポストコロニアリズムとトラウマ精神治療理論の対話」を読む

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