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評論:「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大」結論・文献目録

この記事の最終更新日:2006年4月6日

当サイト作成者さいどひるの卒業論文です。このページでは結論と文献目録を掲載しています。


平成14年度社会学部卒業論文
「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大〜ポストコロニアリズム、トラウマ治療理論、軍事心理学の差異をみる」


目次

序論

第1章 ポストコロニアリズムとの対話
1-1  取り上げる人物,文章を選択した理由
1-2  サイードを読む
1-2-1 『文化と帝国主義』を読む
1-2-2 知識人のあり方について
1-3  スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』を読む
1-3-1 概観
1-3-2 「1 批評,フェミニズム,そして制度」を読む
1-3-3 「2 ポスト・モダン状況 政治の終焉?」を読む
1-3-4 「3 戦略,自己同一性,書くこと」を読む
1-3-5 スピヴァクの議論のまとめにかえて
1-4  トリンを読む
1-4-1 著作説明
1-4-2 アイデンティティと権力について
1-4-3 歴史と物語の違いについて
1-4-4 芸術家,作品,受容者の関係について
1-5  ポストコロニアリズム理論の包括的概念抽出

第2章 精神医学のトラウマ治療理論とポストコロニアリズムとの対話
2-1  医療人類学の批判的摂取
2-2  「心的外傷後ストレス障害」の精神医学的定義
2-3  ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』を読む
2-3-1 概観
2-3-2 第1部「心的外傷後障害」を読む
2-3-3 第2部「回復の諸段階」を読む
2-4  ポストコロニアル状況とポストトラウマティック状況の差異

第3章 軍事心理学とポストコロニアリズムとトラウマ精神治療理論の対話
3-1  サイードの軍人表象はオリエンタリズムだ
3-2  マクナブ『SAS特殊部隊知的戦闘マニュアル』を読む
3-3  知識人と知的エリートの差異

結論にかえて「抗議をやめて講義を受けよ」

文献目録

結論2


結論にかえて「抗議をやめて講義を受けよ」


 本書の主題として選んだアイデンティティの考察については各章の末尾にある論考を見ていただきたい.この論文は,1章で確認したポストコロニアルなアイデンティティ概念がよいという私の主張に対して,2章では精神医学が,3章では軍事心理学が反論するという物語としても読める.議論の最終解決などありえないので,これはこのままである.
 むしろスピヴァクのいうように理論よりも実践である.2章についていえば,ポストコロニアルなアイデンティティ概念を支持する精神科医が精神障害者をその理論のもとに治療すべきだ.第3章については問題が複雑になる.もうテロリストがポストコロニアリズム的アイデンティティ概念のもとに軍隊を編制しているからだ.ただし,軍隊を知的エリートの代表としてみてみれば,知的エリートでポストコロニアル的アイデンティティ概念を駆使している人はまだ少ないといえる.何しろ,自己のよってたつ基盤をぼろぼろになるまで批判的に考察しなければならないのだ.エリート側がそのような自己の特権を破壊するような検証作業を行えるだろうか.ぜひ行って欲しい.
 テロとポストコロニアリズムの言説の関係が問題となる.支配者側からみれば,両者は同じように見えることだろう,ともに自分たちを攻撃してくるのだから.しかし,ポストコロニアリズムの知識人たちは,テロリズムになど賛成していないことは確かだし,サイードは著作内でフセインやイスラム復権主義者を誤ったナショナリズムを煽るものとして糾弾している.人殺しをポストコロニアリストは勧めてなどいないのだ.
 それでもテロリズム的ゲリラ戦術が,ポストコロニアリズムの言説で表象されていた分裂的で多様な流動的アイデンティティと似ていることはいなめない.ただ,これは似ているということだけだし,ある程度支配者側にいる日本からみてそう解釈されるだけだし,ポストコロニアリストにそんなことを言ったら猛反論されることだろう.それこそ支配権力の価値観にしたがっている証拠だと言われそうだ.
 また,自分たちの理論がかつての支配者の理論と同じように広まって抑圧的な価値観となったり,包括的に流通することなど彼らは求めていない.そのような包括性こそ批判されていたのだから.私はやはりまだまだモダニストなのだろう.
 結論で述べるべき問題は,ポストコロニアリズムの知識人と単純な反逆者はどこが違うのかという問題と,ポストコロニアリズムの知識人は何故感情的連帯の必要性を説かないのかという問題の2つである.これが本論文の考察によって明らかにされた,私の当初の視界からは隠されていた問題なのだ.
 既に読者はこの2つが明確に連関していることにお気づきだろう.すなわち,感情的連帯や信頼感を説き始めると,すぐに単純な反逆者になってしまうということである.至極当たり前の,常識的な回答だが,自分にとっては重大な悟りだった.何故なら,「知識人には情緒がない,現代芸術には感情がない」という保守的な,反前衛の批判者たちの言葉に私は何年も悩まされていたからである.その言葉を聞くたびに,明確に反論できなかたのだ.頭では何となく反論できても,心の中ではやはり感情的絆は大切なのではないか,先進的な現代芸術は理性的すぎるのではないかという悩みがあり続けたのだ.
 明確に言おう,感情的絆を強調するのは大きな間違いである.信頼感やグループの団結など説くだけ危険だ.なぜなら,感情的絆・連帯を説くと,自分の今ある社会を批判できなくなるからである.ただ,それだけの理由では,まだまだ心の底から納得のいくように,牧歌的共同体の気持ち良さを否定しきれないだろう.
 より強力な説明はこうだ.もしも私たちが,今の社会の問題点に気づいて,変革を迫ることを決意したとする.その場合,私たちが以前もっていたような感情的絆をもったまま,非常に強く結束した団体で,抗議行動を行うと,その団体活動はすぐさまアジテーション,反対闘争,テロリズム,憎しみあい,殺し合いに発展してしまう危険があるのだ.本論文の結論はこうである,「感情的に抗議するのでなく,理性的に講義を受けよ」.
 アイデンティティについては理論でなく実践だと言いながら,これでは全く反対だと思われたことだろう.これでは理性の復権,アカデミズムの反動だと思われてしまうかもしれないが,新しい社会は学問実践から生まれるのだ.最近の学問は貧弱化したという批判に対して,サイードは歴史を問い直す新しい学問実践は次々生まれていると答える(サイード 1998b).スピヴァクも学問領域内で実践を産み出している.トリンの映画もまた極めて非煽動的だ.
 
  女性の観客    社会主義ヴェトナムをあつかうのに,あなたはなぜ〈革命〉で得           
       られたものを示さないのですか? 
  女性映画製作者  もし〈革命〉が起きなかったとしたら,映画のなかの女性たちは           
       あのようにしゃべることがなかったでしょう.
  観客  ・・・そのとおりです.でも私の言っているのは,ほんとうの獲得,ほんと           
       うの達成・・・なにか具体的なものなのです!おわかりですか?
                          (トリン 1996; pp140-141)
 
 北朝鮮の反米・反日「感情」を煽る映画では,資本主義社会=完全な悪,自分たち=完全な善として表象されている.悪の側が自分たちに残虐非道な行為を行う.怒りの感情が自分たちの間に湧き起こる.このような単純明快で感情を煽る作品は否定されるべきだ.いくら難解で,面白味がなく,感情がこもっておらず,理性的すぎて,一般受けするはずもなく,どういう風に受け取ったらいいかわからない作品だなどと批判されようと,現代における前衛芸術家は,単純明快な物語など作ってはならないのである.感情を刺激してはならないし,集団的団結を促してはならない.
 たとえこの孤立主義がいくら他者排除的,西洋主体的だと脱構築されようとも,私はこれを主張する.グループ活動を特権化し,想像力に溢れた単独者を批判するような言説に知識人および芸術家が決してひるまないようにするためにである.そのような前衛批判は決して知識人や芸術家に深い傷をつけるような鋭いものではないのだが,時々迷った時にふと人を苦しめる類いの,いやらしい批判なのだ.
 この理論の発見をもってしてこの論文は終わる.実践に続く.


文献目録


注意点:文献目録では,本文上で多大に引用したようなこの論文にとって重要な外国語文献については,外国語による原著の情報と日本語による翻訳本の情報の両方の情報を記した.だが,本文にそれほど密接に関係してこない外国語の翻訳本については,翻訳の情報のみを記述し,原著の情報については割愛した.
 また,Spivakの名称の日本語訳は,『サバルタンは語ることができるか』(1998,みすず書房)では「スピヴァク」となっているが,『文化としての他者』(1990,紀伊国屋書店)と『ポスト植民地主義の思想』(1992,彩流社)では「スピヴァック」となっている.この論文では簡便さを得るため,本文及び引用元の明示でspivakの日本語訳を表象する必要が出た際は全て「スピヴァク」としたが,文献目録では,厳密度を上昇させるため,各文献の表記にしたがって「スピヴァック」と「スピヴァク」の両方を使いわけている.どうか混乱を避けられたい.

<ポストコロニアリズム・現代思想関係>

*アルチュセール,ルイ,山本 哲士, 柳内 隆 著,1993『アルチュセールの「イデオロギー」論』三交社
*イーグルトン,テリー,1997『文学とは何か:現代批評理論への招待(新版)』大橋洋一訳,岩波書店
*稲賀繁美編,2000『異文化理解の倫理に向けて』名古屋大学出版会
*小野真,2002『ハイデッガー研究:死と言葉の思索』京都大学出版会
*姜 尚中 編集,2001『ポストコロニアリズム』作品社
*サイード,エドワード・W,1986『オリエンタリズム』今沢紀子訳 ; 板垣雄三, 杉田英明監修,平凡社
*サイード,1998『文化と帝国主義?』大橋洋一訳,みすず書房(Said, Edward W, 1993, Culture and Imperialism, New York: Alfred A Knopf)
*サイード,エドワード・W,1998b『知識人とは何か(文庫版)』大橋洋一訳,平凡社(Said, Edward W, 1994,Representations of the Intellectual, Vintage)
*サイード,エドワード・W,2001『文化と帝国主義?』大橋洋一訳,みすず書房(Said, Edward W, 1993, Culture and Imperialism, New York: Alfred A Knopf)
*スピヴァック,ガヤトリ・C,1990『文化としての他者』鈴木聡ほか訳,紀伊国屋書店(Spivak,Gayatri Chakravorty,1987 ,In Other Worlds : Essays in Cultural Politics, New York: Methuen)
*スピヴァック,ガヤトリ・C著,ハレイシム,S編集,1992『ポスト植民地主義の思想』清水和子,崎谷若菜訳彩流社(Spivak,Gayatri Chakravorty, and Harasym,Sarah, 1990 , The Post-Colonial Critic, London: Routledge
*スピヴァク,ガヤトリ・C,上村忠男訳,1998『サバルタンは語ることができるか』上村忠男訳,みすず書房(Spivak,Gayatri Chakravorty,1988 , Can the Subaltern Speak? : in Marxism and the interpretation of culture, Chicago: Uni of Illinois Press)
*高橋哲哉,1995『記憶のエチカ:戦争・哲学・アウシュヴィッツ』岩波書店
*高橋哲哉,1998『デリダ:現代思想の冒険者たち28』講談社
*高橋哲哉,2001『歴史/修正主義:思考のフロンティア』岩波書店
*竹村和子,2001『フェミニズム:思考のフロンティア』岩波書店
*鄭暎惠,「アイデンティティを越えて」1996井上俊ほか編『差別と共生の社会学』所収,.岩波書店,p1-33
*デリダ,ジャック1988『ポジシオン:増補新版』 高橋 允昭訳,青土社
*デリダ,ジャック,2000『シポレート:パウル・ツェランのために』飯吉光夫ほか訳,岩波書店
*デリダ,ジャック2001『ユリシーズ グラモフォン:ジョイスに寄せるふたこと』会田正人,中真生訳,法政大学出版局,
*デリダ,ジャック,2001『言葉にのって:哲学的スナップショット』林好雄ほか訳,筑摩書房
*トリン・T・ミンハ,1995『女性・ネイティヴ・他者』竹村和子訳,岩波書店(Trinh,t.Minh-ha, 1989, Woman,Native,Other: Wraiting Postcoloniality and Feminism, Bloomington, Indiana University Press)
*トリン・T・ミンハ,1996『月が赤く満ちる時:ジェンダー・表象・文化の政治学』小林富久子訳,みすず書房(Trinh, T. Minh-Ha, 1991, When the Moon Waxes Red : Representation, Gender and Cultural Politics,New York; London, Routledge)
*ナンシー,ジャン・リュック編,1996『主体のあとに誰が来るのか?』港道隆ほか訳現代企画室
*ナンシー,ジャン・リュック,2001『無為の共同体:哲学を問い直す分有の思考』 西谷修,安原伸一朗訳,以文社
*バトラー.ジュディス,1999『ジェンダートラブル』竹村和子訳,青土社
*複数文化研究会編,1998『「複数文化」のために : ポストコロニアリズムとクレオール性の現在」人文書院
*フーコー,ミシェル,1972『言語表現の秩序』中村雄二郎訳,河出書房新社
*フーコー,ミシェル,1995『知の考古学(改装新版)』中村雄二郎訳,河出書房新社
*ブルデュー,ピエール,1990『ディスタンクシオン:社会的判断力批判』石井洋二郎訳,?・?巻,藤原書店
*ヘーゲル,G.W.F,1998『精神現象学』長谷川広訳,作品社
*山本哲士,1994『ピエール・ブルデューの世界』三交社
*山本哲士,1996『フーコーの「方法」を読む』日本エディタースクール出版部
*山本哲士,1997『現代思想の方法:構造主義=マルクス主義を超えて』筑摩書房
*レントリッキア,フランク編,1994『現代批評理論:22の基本概念』大橋洋一訳,平凡社


<精神医学・トラウマ・医療人類学関係>

*American Psychiatric Association,1995『 DSM-?:精神疾患の分類と診断の手引』高橋三郎ほか訳,医学書院
*牛島定信,福島章責任編集,1998『人格障害』中山書店
*カルース,キャシー編,2000『トラウマへの探究:証言の不可能性と可能性』下河辺美知子監訳,作品社(Caruth, Cathe edited, 1995, TRAUMA : Explonations in Memory, The Johns Hopkins University Press)
*酒井明夫ほか編,2001『文化精神医学序説:病い・物語・民族誌』金剛出版
*下河辺美智子『歴史とトラウマ:記憶と忘却のメカニズム』作品社
*波平恵美子,1994『医療人類学入門』朝日新聞社
*ハーマン,ジュディス・L,1999『心的外傷と回復〈増補版〉』中井久夫訳,みすず書房(Harman, Judith Lewis, 1992, Trauma and Recovery, New York, Basic Books)
*ピンチョン,トマス,1993『重力の虹』越川芳明ほか訳,2冊,国書刊行会
*宮地尚子,1998「文化と生命倫理」加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』所収,世界思想社,p289-301
*モリスン,トニ,1990『ビラヴド 愛されし者』吉田廻子訳,上下巻,1990
*ヤング,アラン,2001『PTSDの医療人類学』中井久夫ほか訳,みすず書房(Young, Allan, 1995, The Harmony of Illusions : Inventing Post-Traumatic Stress Disorder, New Jersey, Princeton University Press)
*ロマヌッチ=ロスほか編著,1989『医療の人類学:新しいパラダイムに向けて』波平恵美子監訳,海鳴社(Romannucci-Ross, Lola et al, 1983, The Anthropology of Medicine : from Culture to Method, Bergin Publishers Inc.)


<軍隊関係>

*クラウゼヴィッツ,カール・フォン,2001『戦争論』清水多吉訳,中公文庫
*マクナブ,クリス,2002,『SAS特殊部隊知的戦闘マニュアル:勝つためのメンタルトレーニング 』小路浩史訳,原書房(McNab, Chris,2001, Endurance Techniques, London, Bounty Books)
*ワイズマン,ジョン,2000『SAS流肉体改造マニュアル:最強の戦闘マシンになるためのトレーニング』南保和宏訳,原書房( Wiseman, John,1998 , The SAS Personal Trainer, London, Lewis Intl Inc)



結論2

(2006 年4月6日付与)


社会人となってから、大学の卒業論文で下した結論が本当に妥当なものか、よくよく考えてみました。終局を否定する論文なのだから、決まり通りの結論を書けるはずもなく、「結論にかえて 〜抗議をやめて講義を受けよ」という決意表明を書いて結論のかわりとしていました。卒論発表会では教授陣から、ポストコロニアル思想は知の正当性を疑う思想なのに、最終的に知を賞賛する形で終わっているのはおかしいという批判の声が上がりました。

軍人や企業エリート的知の形とは違う、知識人の知のあり方を見つけたつもりだったのですが、社会エリートと大学の知識人を分けて考えるのでなく、両者に、更には精神治療理論にも共通する、知の形態があるのではないかと思考をめぐらしました。思索の結果得た、新たな、社会人なりの結論を以下に記します。以下の文章は2004年8月に、メールマガジンの文章として書き下ろしたものです。論文調とはまるで違う文体となっていますので、ご了承下さい。



目標を持つことが大事だとよく言いますが、私は今までずっとその考え方に反発していました。大学時代にききかじった現代思想やポストコロニアリズムでは、目標に向かって突き進むことは危険であると指摘されていたからです。しかしここにきて、問題や悩みと呼ばれるものは、「目標と現実のギャップ」だと気づきました。

目標は言い換えれば理想であり、ビジョンであり、イメージであり、アイデアです。つまりギリシア語で言うイデアです。イデアと現実が違うからこそ私たちは苦悩するのでしょう。これはプラトンの時代からの真理です。

イデア論を徹底的に疑ったのがデリダを始めとする現代思想家たちです。今までの私も現代思想家にならって、目標を持つことを忌み嫌っていました。けれど、イデアとは言い換えれば、アイデア、ビジョンのことだと気づきました。

「目標なくして成功なし」とはつまり、アイデアがなければ成功もないということです。

「自分自身に明確な目標がなければ成功はない」とはつまり、実現するべきイメージがなければ、自己実現も何もないということです。

大学時代の私は「目標を持つことは悪い」とばかり思っていましたが、社会人になって現代思想を誤解していたことに気づきました。

悪いのは、自分の生きる目標がないことだったのです。

自分の心からの望みではなく、他人が、偉い人が、組織が決めた目標に自分の生活を無理に縛りつけることはいけないと、現代思想の哲人たちは語っていたのだということに社会人になって気づきました。

きっかけは卒論を読み直していた時です。私はポストコロニアルの思想と、トラウマ治療精神科医の思想と、軍事心理学の思想の3つの相違点を卒論で調べました。卒論の時点では、自分自身納得のいく結論がでませんでしたが、3つの思想が何を共通して推奨しているのか推測し続けて、始めて明確な答えにたどりつけました。

ポストコロニアル思想は、植民地の人が、西洋列強の人々の文化に同調して、自分たちの文化・歴史をなくしてしまうことはいけないと説きます。つまり、他人のアイデアに強制的に従わされ、自分のアイデアをなくすことが批判されるのです。

トラウマ治療の精神科医は、レイプ被害者は恐怖に怯え、自分で自分の人生を決められなくなると説きます。男性に対する恐怖が被害者の心をすっぽり包みこむので、自分で自分の人生をコントロールできなくなるのです。トラウマになりうる極限状況でも心的ダメージをおわない人は、
非常時でも冷静になって行動できる人、仲間との連帯意識を維持し続け、孤立しないように努力する人、問題を解決しようと前向きに生きる人だと言います。つまり、極限状況にあってセルフコントロールを失わないこと、自分のビジョン、イデアを持ち続けることがすすめられています。

軍事心理学でも同じです。迫り来る脅威におびえず、セルフコントロールができる人、どんな状況でも一人で判断し、難局を切り抜けられられる人がすすめられます。

ポストコロニアリズム、精神医学、軍事心理学に共通するアイデンティティが見つかりました。3つの思想が推奨しているのは、自分独自のイデア、目標、ビジョンを持つ人です。自分で自分のことをコントロールできる人です。他人のイデア、目標、ビジョンにいやいや従う人は、自己コントロールを他人に奪われてしまいます。その結果心は病み、夢も希望もなくなります。

つまり、自分だけのオリジナルな目標を持つことが素晴らしいのです。他人の目標にいやいや従わされる状況はうんざりなのです。それでも社会は他人がかかげた目標に従う必要がある状況ばかりです。逆に言えば、そうだからこそ、その必要があるからこそ、私たちは共同生活を営んでいるのでしょう。ならば、自分で納得、共感のできる、リーダーが掲げた目標に従うべきでしょう。たとえ他人の出した目標でも、自分で主体的に選択し、納得したうえで従えば、それは素晴らしいのです。何故なら、多くの人が協力してイデアの実現に取り組めば、すさまじいパワーが生まれますから。ただし、それが戦争へと転化する危険は常にありますが。



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