当サイト作成者さいどひるの論文です。このページでは第1章前半部(サイードの思想まで)を掲載しています。
平成14年度社会学部卒業論文
「ポストコロニアリズムのアイデンティティ概念の拡大〜ポストコロニアリズム、トラウマ治療理論、軍事心理学の差異をみる」
目次
序論
第1章 ポストコロニアリズムとの対話
1-1 取り上げる人物,文章を選択した理由
1-2 サイードを読む
1-2-1 『文化と帝国主義』を読む
1-2-2 知識人のあり方について
1-3 スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』を読む
1-3-1 概観
1-3-2 「1 批評,フェミニズム,そして制度」を読む
1-3-3 「2 ポスト・モダン状況 政治の終焉?」を読む
1-3-4 「3 戦略,自己同一性,書くこと」を読む
1-3-5 スピヴァクの議論のまとめにかえて
1-4 トリンを読む
1-4-1 著作説明
1-4-2 アイデンティティと権力について
1-4-3 歴史と物語の違いについて
1-4-4 芸術家,作品,受容者の関係について
1-5 ポストコロニアリズム理論の包括的概念抽出
第2章 精神医学のトラウマ治療理論とポストコロニアリズムとの対話
2-1 医療人類学の批判的摂取
2-2 「心的外傷後ストレス障害」の精神医学的定義
2-3 ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』を読む
2-3-1 概観
2-3-2 第1部「心的外傷後障害」を読む
2-3-3 第2部「回復の諸段階」を読む
2-4 ポストコロニアル状況とポストトラウマティック状況の差異
第3章 軍事心理学とポストコロニアリズムとトラウマ精神治療理論の対話
3-1 サイードの軍人表象はオリエンタリズムだ
3-2 マクナブ『SAS特殊部隊知的戦闘マニュアル』を読む
3-3 知識人と知的エリートの差異
結論にかえて「抗議をやめて講義を受けよ」
文献目録
結論2
第1章 ポストコロニアリズムとの対話
1-1 取り上げる人物,文章を選別した理由
第1章では,ポストコロニアリズムの代表的理論家,サイード,スピヴァク,トリンの3人のテクストを取り上げ,彼らがアイデンティテイ,歴史=物語,権力,知識人のありかたについてどのように語っているのか,その声を聞く.章の題名は「ポストコロニアリズムとの対話」となっている.通常の論文的言語用法からすれば,分析なり,解釈なりといった言葉を使った方が問題ないようにみえる.しかし,分析すること,解釈することの危険性がこれから取り上げる人々によって語られているので,そのような科学的な言葉を使うことはできなかった.相手の文章に対して,できるだけ素直に耳を傾けること,その後自分の言葉を相手に送り返すこと,それがこの第1章である.
何故彼ら3人を「代表」として選択したのかについて,またそれと同時に,なぜそれぞれの多くの著作のうちから,ある文献のみを取り上げるのかについての選別の理由を個別に説明する.この章で取り上げる彼らの著作を先に上げておく.サイードは,『文化と帝国主義』(? 1998,? 2001,みすず書房)を,スピヴァクは『ポスト植民地主義の思想』(1992,彩流社)を,トリンは『月が赤く満ちる時』(1996,みすず書房)と『女性・ネイティヴ・他者』(1995,岩波書店)を主に取り上げる.彼らの他の著作についても必要であれば各節で言及する.
サイードを選んだわけは,恥ずかしながら,ただ単にビッグネームだからということに尽きるのかもしれない.こんな説得力のない文章は論文内では書いてはいけないはずだが,自分の弱さを認めるためにも,権威的にふるまわないためにもあえて私は書く.
スピヴァクの文章を論理的,トリンの文章を直観的という西洋の2項対立の枠組に入れると,サイードの文章は2人のちょうど中間にあるように思える.ただし,そう見えるのは,3人をこのように並べた私の主観の影響にすぎない.
サイードの『文化と帝国主義』は,『オリエンタリズム』(1986,平凡社)によって華が咲いたポストコロニアリズム的批評行為,学問動向のサイードに対して向けられた批判に答える形で書かれた,と「日本」の言論の通説では言われている.『オリエンタリズム』では西洋による東洋の支配が描かれていた.東洋と西洋は密接に関わっているのに,さも東洋が「他者」であるように西洋が言説構成することで,東洋を自分たちの世界から排除し,西洋の特権を維持する有り様が文学作品の分析によって明らかにされた.『オリエンタリズム』では支配構造が問われたわけだが,抵抗の可能性については,主題的に取り上げられていなかった.その点がいろいろと批判されたわけだが,その声に答えるかたちで,抵抗する主体の在り方が『文化と帝国主義』の後半で描き出される.
抵抗主体の分析が,この論文の問題関心と重なっていたため『文化と帝国主義』がサイードの数ある著書の中から選ばれたわけである.では,なぜサイードか.やはり,単にビッグネームだからとしか言い様がない.では,なぜ3人の1番最初に取り上げるのか.スピヴァクやトリンを最初に持ってくると,話が難しすぎると感じたためであろう.『文化と帝国主義』におけるサイードの語りは,二人のちょうど中間にあるような内容であった(と私は恣意的に決定した).難解なスピヴァク,トリンの論理展開を理解しやすいものにするためにサイードは選ばれてしまっただけである.このようにこの論文は欠陥だらけで,何ら特権的なものではない.
次に取り上げるのは,スピヴァクである.スピヴァクは,マルクス主義者であり,フェミニストであり,脱構築を使用しもする.文章は慎重に進んで行く.絶えず自分の語りが生み出す効果について警戒しており,その語りの慎重さは『ポスト植民地主義の思想』のインタビュー文にもあらわれる.
「ポストコロニアリズムの代表的思想家」として「日本」では紹介されている.故に私はとりあげるのである.この場合でも,厳密にみていくと,他者に誇れるような論理的で説得力のある選択の理由などないのである.その語り口の厳密さ,問題意識の深さを評価して取り上げたつもりだが,ただ単にビッグネームだからであろう,やはり.
彼女の著作群のうちから,『ポスト植民地主義の思想』を取り上げて詳細に読みこんでいく.『ポスト植民地主義の思想』はスピヴァクのテレビ放送などのインタビュー集である.論文よりは分かり易いかたちでスピヴァクの考え方の多くについて説明されているので,この著作を取り上げた.
3番目に取り上げるトリンでは,『月が赤く満ちるとき』と『女性・ネイティヴ・他者』を読みこむ.トリンの経歴をみると,「詩人,作家,映像作家,作曲家,現在 カリジョルニア大学バークレー校教授.専攻 女性学,フィルム・スタディーズ」(トリン 1996:著者略歴)とある.経歴からして雑種で多元な印象を受ける.
『月が赤く満ちるとき』は主にドキュメンタリー映画について語った批評とエッセイの中間のようなものである.と定義はできるが,あまり旧来の概念では分類できない著作である.そこからは,アイデンティティについて斬新で新しい見解が出てくるし,芸術家の在り方,作品の在り方についても,フランスのポストモダン思想を受け継いだ見解が語られる.非常に予言的で,刺激的な文章が展開される.スピヴァクに比べて,詰めの甘さが見られるし,いささか楽観的すぎるように思える文章だが,かといって,それを批判することはできない.新しさに向かって提言していくその文章の刺激性,有用性を評価したため,トリンのこの斬新な著作を選んだ.
もう一方の『女性・ネイティヴ・他者』は,ある程度まとまった評論集である.ここからも文章をいくつか取り上げる.
以上3人のテクストを取り上げるわけだが,各著作の「分析・解釈」では,はじめに言ったとおり,「アイデンティティ」「歴史=物語」「権力」「知識人」の4つの概念を抽出していくようにする.特にこの論文全体の論旨にとって中心となる「アイデンティティ」に視点を集中し,それに付随して残りの概念についても見ていくかたちになる.第1章で明らかになるのは,中心,視点,付随するものといった概念の曖昧さである.アイデンティティの問題は,必然的にマジョリティとマイノリティの問題に接続される.
1-2 サイードを読む
1-2-1 『文化と帝国主義』を読む
『文化と帝国主義』の要約のようなものをはじめに作る.そのときに,特に注意するのは,サイードが「アイデンティティ」「歴史=物語」「権力」「知識人」についてどのように語っているのかということである.いわば,私の問題関心にしたがって,要約に似たような抽出作業が行われるわけである.
はじめに,サイードの使う主要語句について定義する.サイードは文化という言葉に,「記述法とかコミュニケーションとか表象のような慣習実践」(サイード 1998; p2-3)という意味と,「洗練化と高尚化をうながす要素をふくむ」「おのおのの社会にある…これまで知られ思考されてきたもののうち最良のもの,それの保管庫」(以上サイード 1998; p4)という2つの意味を与える.
サイードは文化と関連する「物語」が議論のかなめであることを読者に告げる.
物語こそ,わたしの議論のかなめであり,わたしの基本的な観点とは,探検家や小説
家が世界の未知な領域について語ることの核心には,物語がひそむこと,また物語は,
植民地化された人びとが,みずからのアイデンティティとみずからの歴史の存在を主
張するときに使う手段ともなるということである.帝国主義における主要な戦いは,
土地をめぐるものであるということはいうまでもない.しかし,誰がその土地を所有
し,誰がそこに定住し耕作するのか,誰が土地を存続させるのか,誰が土地を奪い返
すのか,誰がいまの土地の未来を計画するのかが問題になるとき,こうした問題に考
察をくわえ,異議をとなえ,また一時的であれ結論をもたらすのは物語なのである.
ある批評家が示唆したように,国民そのものも物語である.物語る力,あるいは他者
の物語の形成をはばむ力こそ,文化にとっても帝国主義にとってもきわめて重要であ
り,文化と帝国主義とを結びつける要因のひとつともなっている.
(サイード 1998;pp3-4)
西洋発のテクスト理論などでは,一時期直線的な物語という概念が批判された.それにともなって,1つの線に従って発展成長していく歴史という概念も否定された.しかし,サイードはあえて物語という概念を復活させる.物語も歴史も終焉したというが,世界をみればいたるところで物語行為が行われている.西洋の知が,第3世界での歴史を生み出す運動をないものとして欄外に扱っていることが,暗に批判されているのである.
引用の最後に出てきた言葉,この著作の題名ともなっている「帝国主義」を,サイードは「遠隔の領土を支配するところの宗主国中枢における実践と理論,またそれがかかえるさまざまな姿勢」(サイード 1998; p40)と定義している.
サイードは物語=歴史概念を議論の中心にすえると宣言している.では,アイデンティティについてはどうか.先程サイードが定義した文化の2番目の意味,文化=教養が,アイデンティティの源泉であるとサイードは言う.「文化(=教養)が『われわれ』と『彼ら』を区別する」(サイード 1998;p4).サイードは,アイデンティティが文化によって創られることを事実として認証しはするが,そのアイデンティティの創られる過程を問題視する.
文化区分とか文化的差異によって,わたしたちは,ひとつの文化をべつの文化から区
別できるようになるだけでなく,文化がどの程度まで,権威と社会参加によって構成
された人間的構築物であるかについて,文化が,みずから吸収したり高く評価するも
のに対してはいかに寛容で,みずから排除したり軽んじたりするものに対してはいか
に不寛容であるかについて,理解できるようになった.
国民国家として既定される文化すべてに,主権と支配と統治を求める野望が存在す
ると,わたしは信じている.…と同時に,逆説的なことだが,歴史的・文化的経験は,
じつに奇妙なことに,つねに雑種的で,国家的境界を横断し,単純なドグマや声高な
愛国主義といった政治的行動などを無視してかかる.このことを,いまわたしたちは
気づきつつあるが,昔はみえていなかった.文化は,統一的で一枚岩的で自律的など
ころか,現実には,多くの「外国的」要素や,他者性や,差異を,意識的に排除して
いる以上に実際はとりこんでいるのだ.(サイード 1998; p50)
実際の状況として,アイデンティティが創られる時には,自己と他者は複雑に混ざり合うし,アイデンティティが完成した暁にも,自己の中には絶えず他者の要素が混入している.しかし,アイデンティティが表象されるとき,自己は完全に自分が一枚岩であるという虚構を主張し,劣等だと自分が思う他者を自己から排除する.排除される他者は自己の中に混ざっているから明確に他者ではないのに,「あれは他者だ」として排除してしまうのである.この個人におけるアイデンティティ論を,西洋が自己を確立する様式に重ねたのがポストモダンの知識人たちであった.サイードらポストコロニアリズムの思想家はその考えを徹底させ,より排除される第3世界の側にたって立論していくのである.
ここまでは,サイードが「アイデンティティ」をどのように捉えているのかという問題関心にしたがって,彼の著作からエッセンスを抽出してきたわけだが,ここからは批判しつつ要約する行為に移行する.そして最後に,アイデンティティを中心にして抽出した概念の整理を行う.
サイードは彼の考えを論理的に証明するために,著作のなかで批評行為を行う.第1章,第2章では,西洋の文学の正統として認められてきた大作家であるコンラッド,オースティン,ディケンズ,カミュらの作品が,いかに帝国主義の思想,戦略の影響下にあるかを,作品の読解に沿ってみていく.「テクストを読むときに,わたしたちはテクストを,テクストに流れ込んでいるものと,作者がテクストから排除したものの両方に関連づけて読まなければならない.」(サイード1998; p139).その「対位法的」と彼がいう読みによって,帝国主義と小説との関係が明らかにされる.「そこでわたしが特定すべきは,小説による貢献がいかなるかたちでおこなわれたかであり,またこれとは逆のことだが,一八八〇年以降浮上し蔓延したより攻撃的で帝国主義的な感情を,どうして小説は緩和することも禁ずることもなかったのかということである.」(サイード 1998; p180)(註1).
日本語版の第2分冊にあたる第3章,第4章でサイードは,西洋が他者を取りこんでいるという事実を指摘することにとどまるだけでなく,排除された他者によってこそ西洋が成り立っているという論点を主張する.そこでとりあげられるテクストは,ファノンら植民地側の知識人が書いたテクストである.
第3章では,西洋の支配に対していかに抵抗していくかという,抵抗する主体の問題が語られる.抵抗する主体のあり方については,西洋の知識人側からも,抵抗する側の知識人側からも,様々な批判が寄せられている.
まさにこれが抵抗にまつわる悲劇めいたなりゆきなのだ.つまり抵抗は,帝国文化
によってすでに樹立された諸形式,あるいはすくなくとも帝国文化の影響をうけ,帝
国文化にどっぷりつかった諸形式,それらを再発見し利用することを,どうしても余
儀なくされるからである.(サイード 2001; p35)
抵抗する主体が抵抗のために持ち出すナショナリズムなどの理論は,西洋の知からの借り物にすぎない.抵抗が達成されても,新たに作られるシステムが西洋のシステムの繰り返しとなる可能性もある.「支配に抵抗する新たなアイデンティティの構築」という視点からも,この議題は本論にとって注目すべき問題である.
サイードは,脱植民地化における文化的抵抗の3つの大きな主題をあげる.彼が私や西洋の知識人と同じように,ただ単に「3」というマジックナンバーにこだわったため,多様なはずの抵抗は3形態に縮小されてしまっているのであるが,サイードは3つが相互に関連しているという注意を沿える.
第1は,「民族共同体の歴史を,まるごと,首尾一貫したかたちで,全体的に見渡す権利を主張すること」(サイード 2001; p44)である.この態度をとる場合は,「ローカルな奴隷物語や精神的自叙伝や投獄回想録が,西洋列強の記念碑的な歴史書や公式記録や俯瞰的な擬似科学的観点をむこうにまわした対抗手段となる.」(サイード 2001; p45).民族の文化・歴史が活性化され,新たな想像の共同体が創られようとする.サイードは,それが1つの民族による1つの文化というだけでなく,スペイン領アメリカにおけるようにクレオール社会によるクレオール文化になることも指摘しているので,ノスタルジックな歴史の創造を一辺倒に批判しているわけではない.
第2は,
抵抗を,帝国主義に対する単なる反応ととらえるのではなく,人間の歴史を構想す
るオルターナティヴな方法とみなす考え方である.とりわけ留意すべきは,このオル
ターナティヴな再構想が,文化間の境界を越えることなくして,礎を築けないことだ.
ある魅力的な本のタイトルがしめしているように,宗主国の文化に,文筆で逆襲する
こと,オリエントやアフリカに関してヨーロッパ人がこしらえた物語を撹乱すること,
ヨーロッパ人による物語を,それよりももっと遊戯的で,もっと強力な新しい物語様
式に取り替えること,これがこのプロセスの主要な構成要素となる.
(サイード 2001;pp45-46)
第1の抵抗の主題は,抵抗を強大な支配者に対しての反抗としてしか捉えきれていなかった.支配と抑圧の2項対立の枠組を是認したうえでの抵抗だったのに対して,第2の抵抗の主題では,抵抗運動というものを,支配に対する反抗としてのみ捕らえるのではなく,ヨーロッパ発のものとは全く違う新しい歴史構想の試みととらえている.
第3の主題は,「分離主義的なナショナリズムから明白に離反し,人間の共同体と人間の解放を統一的に考える傾向」(サイード 2001; p46)である.第1,第2の主題とも形は違えど「ナショナリズム」の概念内で事象を捉えていたのに対して,第3の主題ではナショナリズムの考えを抵抗の文脈に持ちこまない.
かといって,サイードは先進的知識人を気取ってナショナリズムを否定しさるわけでもない.
ただし,単純な反ナショナリズムの立場を標榜しているだけと,ここで誤解された
くはない.組織化された政治活動としてのナショナリズム 共同体の復権,アイデ
ンティティの主張,新しい文化実践の台頭 が非ヨーロッパ世界のいたるところで
西洋の支配に対する抵抗を刺激し推進してきたことは歴史的事実である.この事実に
抵抗することは,ニュートンによる重力の法則に抵抗することと同様,無駄である.
(サイード 2001; p48)
それでは,サイードの節の最後になったので,西洋的な思考法の伝統にしたがって,『文化と帝国主義』内で語られてきた『アイデンティティ』がどのようなものであるかをまとめてみる.
アイデンティティとは,西洋が表象してきたような1つの確固として自律したものでなく,複雑な相互依存によって成り立っている,というのがサイードの呈示するアイデンティティ概念である.自己を確立して他者を排除していこうとする権力の働きを警戒する姿勢がうかがえる.
文学経験は,たとえいくら国境が定められていても,またいくら強制的に制定され
た国民的自律性が存在していても,たがいに重なりあい,相互に依存しあうのであっ
て,この現実的な新形態をわたしたちがひとたび受け入れるなら,歴史も地理も,新
しい地図として,新しく,はるかに流動的な実体として,新しいタイプの関係性とし
て,生まれ変わるはずである.(サイード 2001; p213)
アイデンティティの構築には,文化,文学という物語が影響する.一枚岩な文化,明確に線引きがなされた境界という誤った概念を捨て去り,実際にある文化の複合的な状況を受けいれれば,アイデンティティも流動的な関係として表象されるはずだという意見である.
以下でも度々確認されるが,サイードもスピヴァクもトリンも,この論文では主題としてあげなかった表象の問題が議論の中心となっている.生物学的に確認されるような事実よりも,言葉による表象,文化の方を重要視する.表象の恣意性を疑う立場にたてば,生物学という科学知も文化によって表象され,作られたものにすぎないという見解となる.表象がいかに他者を支配し,抑圧することに貢献しているのかが語られる.議論の大前提となるのは,表象と具体的現象を混同しないことである.
しかし,言葉の理論一辺倒では,様々な現実の実践が抜け落ちてしまう.実践と言葉との間をどうつなげるのか,これが本論文の大きな主題であり,彼らの闘いでもある.実践とポストコロニアリズム理論との対話は,本論文の第2章以降で試みられる.
歴史=物語,権力などについてサイードがどう捉えていたかは,アイデンティティ概念を抽出する過程で明らかにした.すなわち,歴史=物語は,その物語内にいる人々の,国家のアイデンティティを作りあげるし,ある物語が別の物語を破壊し領土を占拠してしまう場合もある.権力については,フーコー的な微細で,個人の抵抗が不可能な権力観を離れ,帝国主義というコンテクストで権力を扱う.帝国という支配者に対して抑圧者は抵抗が可能であるし,別の歴史観,価値観で支配概念を解放させることもできる.
1-2-2 知識人のあり方について
知識人のあり方についてはあまり触れなかったので最後に説明しておく.簡単に言ってしまえば,サイードのように支配体制を問い,抑圧者の立場にたって現状の刷新をはかるのが,サイードの考える知識人像である.支配体制の価値観を疑わないものは知識人とは呼べない.知識人は虚構を暴き,本質主義的分類法の誤りを正すのである.
文化批評をこととする知識人にとってなすべきことは,アイデンティティ中心の政
治を所与のものとして受け入れるのではなく,いかにしてすべての表象が,いかなる
目的によって,いかなる人物によって,いかなる構成要素によって,構築されている
かを示すことなのである.(サイード 2001; p207)
知識人とは全てサイードのように左翼にならなければならないのか,という批判に対してサイードは『知識人とは何か』(1998b,平凡社)のなかでこう答えている.
ただし,講演のなかで試みたのは,知識人について,右翼か左翼かを取り沙汰するこ
とではなく,その公的活動が予測できない意外性にとみ,その発言がなんらかのスロ
ーガンや党の綱領や硬直化したドグマにとりこまれたりしない,そんな人間として知
識人を描くことであった.わたしが示唆しようとしたのは,知識人個人にとって,人
間の悲惨と抑圧に関する真実を語ることが,所属する政党とか,民族的背景とか,国
家への素朴な忠誠心などよりも優先されるべきだということである.
(サイード 1998b; p15)
明快な政治的闘士としての知識人像が浮かび上がる.「真実」などという古い概念を使っているし,やはり文学批評を離れたらサイードは単なるアジテイターではないのかという疑惑が浮かんでくるが,知識人と専門エキスパートの違いなど示唆に富む議論もこの本にはある.サイードは,現代の専門家の権威に盲従し,社会の支配体制を疑わない姿勢を批判する.
この問題については本論の第3章で再び取り上げる.これでサイードについての議論は終わる.
第1章後半部(スピヴァク、ミンハ)を読む
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