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書評:スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』

この記事の最終更新日:2006年5月20日

(以下の文章は大学時代の卒業論文をもとに作成されています)
ポスト植民地主義の思想
ポスト植民地主義の思想ガヤトリ・C. スピヴァック Gayatri Chakravorty Spivak 清水 和子

彩流社 2005-10-20

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スピヴァクのテクストにおいてアイデンティティがどのように語られているのかをみるために,主に『ポスト植民地主義の思想』(1992,彩流社)を取り上げて解読する.難解極まりない彼女の文章叙述は,論理的に語ることの危険性に対する警戒心から生じている.あまりアイデンティティの問題に固執することなく読んでいくので,仕方ない程度に本論文で注目する概念が取り上げられることだろう.本論文で解析するのは,『ポスト植民地主義の思想』の収録順番1つ目,2つ目,3つ目,以上3つのインタビューである.
 

「1 批評,フェミニズム,そして制度」を読む

最初のインタビュー,1984年6月になされた「1 批評,フェミニズム,そして制度」をとりあげる.エリザベス・グロツというフェミニストの質問に答えるかたちでスピヴァクの思想が述べられている.まず最初にグロツによって,理論と実践の間にある亀裂の線に沿って,別の領域にあるかのように思われているテクスト性と政治の領域の2つを,スピヴァクはどのような関係にあると捉えているかが質問される.

スピヴァクはテクスト性の概念を,世界の世界化という概念と関係づける.スピヴァクは,西洋が領有した土地には,帝国主義者の計画に従って西洋の言葉が書き込まれ,その言葉によって土地が管理されていったという.「さてこうした世界化は,実際には,テクストにすること,テクスト化であり,技術化であり,理解されるための客体化です.」(スピヴァク 1992; p12)テクストになることで,多様なものが既成され,世界が構築されていくわけである.テクスト性の概念は,このテクストの世界化を調査するために作動する.

『テクスト性の概念が通常していることは,「テクスト」に対抗して,「事実」や「生」や「実践」として優位に定義づけられているものは,実践されうるようにある程度,ある一定の方法で世界化されているそのことを調べることです.・・・一般化されたテクスト性の概念であれば,実践とはいわばテクストの「空白」であるけれど,解釈可能なテクストによって囲まれていると言うでしょう.そうした概念は実践の内部での不可避な権力分散を,チェックすることを許します.それは実践の特権化が実際,理論の前衛化におとらず危険であることに気づいているからです.ひとが「書くこと」というとき,それはつまりこうした種の,実践力の限界の構造化なのです.実践の彼方にあるものはつねに,実践を組織していることを知りつつ』(スピヴァク 1992; pp12-13)

実践とはブルデューやフーコーのいう言語化されていない慣習行動のことである.慣習行動実践は,テクスト化しきれない「空白」なのだが,テクストによって組織され,制度化されている,よって,実践をテクスト抜きで特権づけることには注意が必要なのだ.

この後,知識人の実践,あり方についての質問がなされる.スピヴァクは「アメリカ合衆国の内部でさえ「知識人」と呼べるものは実際は存在しないのです.社会的生産にたいして,同じ役割とか,実際権力を行使しているといった,「知識人集団」と呼ぶことの出来る集団は実際は存在しないのです.」(スピヴァク 1992; p15)と知識人に対して批判的な見方を呈示する.

スピヴァクは,「知識人」は制度の内部での占める位置によって定義づけられていると言う.制度に対して非 制度的環境はどうあるべきかという質問に対しては,「非 制度的環境などは存在しないと思います.私見では制度は,とりあえず切り離してみるどんな制度でも,孤立して存在してはいないので,ひとが実際吟味しなければならないものは,ますます関係性によって規制されています.」(スピヴァク 1992; p17)と答える.制度外の空間など存在しない,孤立しているものなどないという考え方は,「中心 周縁の定義という観点での,周縁に近接した空間でさえ制度の外部ではない」(スピヴァク 1992 p17)という考えにもつながる.1つで成り立つものなど1つもなく,「制度の彼方」にあると思えるものも,他の制度との関係性によって規定されているのだ.

あらゆる実践もテクスト,制度によって規制されているとすれば,どのような解放が可能なのか.

『わたし自身はいつもではないのですが,時々,制度の彼方に回復を可能にする策を見いだしています.制度と対決するのでは可能になりません.私見では,・・・魅惑的な空間を創造可能にしている許容しうる文化の政治学の内部で,時々「制度の彼方」と自己定義しうる新たな制度が繁栄することが許されます.だから制度の内部の文化の解説の生産の仕事は,途切れることなく持続できるのです』(スピヴァク 1992 p18)

ここでスピヴァク自身のある程度の位置が明らかにされている.制度の彼方も制度に規制されているのであるが,それでもいくらか現状よりは魅惑的である.それを目指して,スピヴァクは学問制度内での知識の生産を行う.

続いて,知識人そのものの問題を離れて,フェミニスト知識人の役割をどう考えるのかという質問があがる.質問文はこうである.「代表/再現の政治学を避けることはどうすれば可能でしょうか. 他の女性たちのために,あるいは彼女たちを代表して,わたしたち自身の固有性や差異を投げ出すことなく,彼女たちの固有性,その差異を保持することは.」(スピヴァク 1992; p23)この質問は明らかに『サバルタンは語ることができるか』(1998,みすず書房)で提出された問題を意識した質問である.『サバルタンは語ることができるか』で,スピヴァクは,サバルタン(従属的地位に置かれている人,例えば第3世界の被抑圧者の女性)は語ることができないというテーゼを出した.知識人がサバルタンを語るとき,彼女たち自身の声は常にかき消されてしまうと言う.また,彼女たちはさらに第3世界内の権力者によっても表象されるが,その時でさえ彼女たち自身の言葉は権力者によって消されてしまうと言うのだ.

現地の人々と,かつての抑圧関係を繰り返さないようにして,どのように語り合うのかという問題を示しているこの質問に対して,スピヴァクは「わたしの試みはわたしたちの特権を,損失として捨てることを学ぶという慎重な計画です」(スピヴァク 1992; pp23-24)と答える.知識人として持つ権威,理論の権威づけに対抗し,実践を行うには,特権を捨てなければならない.捨て去れば,今までは理論によって見えなかった実際の多様性が見えてくると言うのである.

先鋭的な西洋の知の間では,理論を常に純粋化していくことが求められる.普遍主義も,本質主義も過去の理論的誤謬ということになっているのだが,スピヴァクは理論化の行き過ぎに警鐘を鳴らし,実践のために,時には普遍主義や本質主義的立場をとる必要もあると言う.

『その時/契機においてわたしが普遍的言説を選んだのは,わたし自身を普遍性を拒否するものとして規定するよりも普遍化,最終決定はいかなる言説においても還元できない契機であるので, 普遍よりむしろ固有なものとしてわたし自身を規定するよりも,普遍的言説において何が役にたつかを調べるべきであり,またそれからその領域の内部で,そうした言説がその限界とその挑戦にどこで出会うかを調べることに進むべきであると感じたからです.わたしたちは戦略的に,普遍的言説ではなく本質的言説を再度選ぶべきであると思います.(スピヴァク 1992; p27)

普遍性,本質を単純に拒否するのでなく,普遍的言説や本質主義の立場に戻ってみて,その言説の有用性と限界を調べるべきであるとスピヴァクは言っている.ここでスピヴァクは,脱構築の純理論的な身振りの必要性を肯定はするが,反生産的だから全面賛成もできないと言う.
 
『わたしたちがフェミニストの実践や,理論に対する実践の権利づけについて語るときですら,わたしたちは普遍化しています. 一般化だけでなく普遍化しています.本質化,普遍化、現象学に「イエス」という契機は還元不可能ですので,少なくとも目下のところそれを位置付けようではありませんか.わたしたち自身の実践について慎重になって,それを否定するといった全面的に反生産的な身振りをするよりも,出来る限りそれを用いるようにしてみようではありませんか』(スピヴァク 1992; p28)

ここに実践的,生産的活動をも行うスピヴァクの知識人像が伺える.スピヴァクは,脱構築には,労働の国際分業の問題が入っていないとも言う.フーコーも,デリダもポスト構造主義の知識人たちは帝国主義の働き,労働の国際分業の問題は扱っていない.ここにスピヴァクらポストコロニアリズムの思想家の活動領域がある.

最後の質問として,グロツは脱構築,マルクス主義,フェミニズムをスピヴァクは仕事にしているが,3者間にあるぎくしゃくとした関係は和解可能であるかとと問う.それに対してスピヴァクは,「還元できないけれど不可能な仕事とは,フェミニズム,マルクス主義そして脱構築の言説の内部に,断絶を保持するということだと思います」(スピヴァク 2992 p33)と答える.

スピヴァクは,統一することは避けなければならないし,差異ばかりを強調することも避けなければないと言う.マルクス主義の統一的方向には,脱構築の抑止が働き,脱構築の解体方向には,べつの2つの抑止が働く.
 
『勿論,脱構築は,わたしたちはあなたのご質問の中でその一部をすでに練習しましたが  単にテクスト主義で,それは秘儀的であり,自己拡張ばかりに関心をもち,虚無主義である等です.フェミニズム,マルクス主義,ずっと最近の脱構築の形態学の膨大な資源を活用することに興味のある人や,人々,集団の役割は,断絶を保持することの仕事の領域にあると思われます.そして究極的にはそれは不可能な仕事だとわたしは申しあげましょう.といいますのも,最終的なものとして仕上げることは,それ自身不可能で,還元できないものだからです.優美な一貫性を求めることや結果として敵意を産むことになる連続主義の言説を産み出すよりは,こうした断絶をそうした意味で保持することです』(スピヴァク 1992 pp34-35)

断絶は決して否定的な意味で使われているのではなく,完成の暴力性を避けるための肯定的な意味で使われている.かつ,完成は不可能であるから,断絶さえ完成しないのだが,それでも目標として保持することは必要である.

「2 ポスト・モダン状況 政治の終焉?」を読む

続いてインタビューの2番目,1984年になされた「ポスト・モダン状況 政治の終焉?」の解説にうつる.スピヴァクは,ホーソン,アロンソン,ダンと討論を行う.脱構築およびポストモダンの運動についてスピヴァクはこう解説する.

『もしデリダとリオタールをこのように一緒に纏めることが出来るなら,彼らの気づいていることは,わたしたちが語ることしかできないということであると思います.だからそれは語りに宣戦布告するといった問題ではなく,彼らが,語る本能は必ずしも世界の諸問題の解決にはならないことを理解していることです.そこで彼らの関心事は語りの限界を見極めること,「これが歴史である」とわたしたちに語っている物語を創っている,または「これが社会正義をもたらすものである」とわたしたちに語っている物語を造り上げている物語性を見極めることです』(スピヴァク 1992; pp40-41)

脱構築は目的をもった歴史=物語から取りこぼされるものを想像するという.語りへの挑戦というよりも,語る行為の限界を見極めることに重点を置くこと.語りはそのままテクスト性の概念にもつながる.ただし,全てが語りだというと,「人はリアリィティを語られないものとして見始めます.ひとはそれは語りではなく,事物の有様なのだと言い始めます」(スピヴァク 1992; p41)という問題も起きる.スピヴァクは実践を重視しはするが,その実践には絶えず語り,テクスト,制度が侵入していることを忘れはしないのである.

さらにスピヴァクは,デリダらの言っているテクストは,少しも言葉のテクストなどではないと注意を促している.

『彼らが政治哲学や歴史哲学やなんであれ,実際の言葉による物を読むとき,彼らはこうしたことがらはまた言語で産み出されていることを示したくなるのです. それらが言語で産み出されていることを忘れる傾向があるからです.その点でテクストは言葉で理解されているといえるでしょう.けれど彼らがテクストしか存在しないなどと語るとき,彼らはひとつのネットワーク,織りについて語っているのです. それを名付けることができます. 政治的, 心理的, 性的, 社会的な織りと名づけます.それを名づける瞬間に,それよりも広いネットワークができます.そしてわたしたちはある程度まで,近づけない終わりを持った,より大きなテクスト/ティシュー/織りの内部にある結果であるという概念は,すべてが言語であるということとはきわめて異なります』(スピヴァク 1992; pp50-51)

この説明によりテクスト概念が再び明確となる.リアリティ,具体的事実,実践は,全て言葉なり,ネットワークの網の目のなかにあるので,一つだけ切り離し,特権化して考察することなどできないのだ.言葉の表象だけに注意するのではなく,実践だけをみるのでもなく,両者の絡まりあいを解きほぐすことが奨励される.

「3 戦略,自己同一性,書くこと」を読む

3つ目にとりあげるインタビューは1986年8月になされた「戦略,自己同一性,書くこと」である.質問者は複数だが,「メルボルン・ジャーナル・ポリティクス」として,単数で表象されている.ここでは,脱構築の働きについてスピヴァクが詳細に語っている.それに伴い,主体についても語られる.

検証する主体の権威と役割をどうやって問題化できるのかという質問に対して,スピヴァクは個々の状況によって異なるので包括的な答えはできないと言うが,問題化する方法については答える.

『それは特定の主体の立場の歴史的制度化を調べることによるものだと,わたしには思われます.歴史が語られてきた方法がいつもある種の主体の立場を制度化していますが,それはある種の領域を周縁化することによって予想されています.脱構築の重要性は,そうした戦略的な排除に対するその関心です』(スピヴァク 1992; p81)

続けてスピヴァクは,脱構築の重要性を説きながらも,脱構築自体を脱構築する.脱構築の歴史では,十分に哲学的ではないという理由で「本質的な」内容が常に排除されていた.形式の特権化である.ゆえに脱構築的立場においても,脱構築を行う主体を脱構築するために「主体的立場の物語化や制度化への,歴史的探求がきわめて重要になるのです.」(スピヴァク 1992; p82)と言う.
 
『それは無限の後退,理論的形態を最終的に根拠づけることの決してできないという問題を考え抜こうとしながら,本質問題を検証し続ける方法です.これが認識するのはわたしが今,切断(interruption)と呼んでいるもの, 実際,あなたの本質的な仕事の周縁には無限の後退があることを突然認識することです.それは本質的関心と断絶している点で純粋な切断ですけれど,それはそれ自身本質的検証に自己を連れ戻すことによって切断されています.これはすべて,「ひとは今いるところから始めなくてはならない」というもう一方の方法なのでしょう』(スピヴァク 1992; p82)

この抽象的で難解な切断の理論を毎日の歴史的探求の実践にどう関連づけるのかという質問がなされる.スピヴァクは,この切断の構造を提起することによって,いかに理論が本質を今まで切り落としてきたか,また,実践の構造のみに集中することを不可能にしてきたかが明らかにされると言う.
 
『理論はつねに実践を規定します.ひとが実践するとき,いわば,ひとは理論を構築し,還元できないかたちで実践は理論を規定します.間接的な理論的適用の一例となることはあまりありません.今わたしがもっと関心をもっているのは,理論による実践のラディカルな切断であり,実践による理論のそれなのです.・・・もしわたしが異なるフェミニストの実践の観点から,考えていることが本当の切断でなかったなら,そうであればわたしはそれを和解させ,固め,占有し,定義し,新しい言語のモデルを産み出すことなどができ,そして本拠地から自由になることができます.けれど切断の本性は実際にはことがら全体に自在スパナを打ち込みます.それは純粋な断絶なのです』(スピヴァク 1992; p83)
 
理論と実践は規定しあう関係にあるのだが,スピヴァクはその関係を切断させたいという.特に理論化から実践を切り離す方に関心があるようだ.言葉による最終的な定義づけを拒み,自由で透明な超越的存在になることを拒む姿勢が伺える.現実世界に明確に存在する知識人として学問実践を成し遂げたいようだ.

続いて,脱構築が戯れであるという誤解についてスピヴァクが答える部分を読む.この部分は,バルトのように遊戯的に,快楽へと逃走することへの警戒ととれる.
 
『ひとは自由に戯れることができません.これは脱構築がまたわたしたちに教えることがらのひとつです.もしほんとうに意識的に自由な戯れに従事し始めると,再び語ることが適切に哲学を表象/再現できると考えて,きわめて決定論的な誤りをします.それはすこし自由な戯れに従事することによって,脱構築の概念をそっくり模倣することができると考えてです.わたしたちが「自由に戯れている」と想定しても,わたしたちはわたしたちが語っている場所である状況を最後化しているのです.デリダはある場所で語りました. これは印刷されてはいません  「脱構築は誤りを曝しだすことではありません.それはわたしたちがつねに真理を生む義務があるという事実を,警戒することです」.ほら,これは脱構築について注目すべきことがらです.それは世界になにも本質的なことがないからという,ある種の否定的な形而上の悪戯ではありません.それはわたしたちが真理を,肯定的な事柄を生むことを強いられているという,わたしたちが最後化をしいられている,パースペクティヴは一般化されるべきである,などの事実を繰り返し検証することです・・・』(スピヴァク 1992;p86)

肯定を避け,誤りを指摘するのではなく,真理と否定の間の戯れでもなく,肯定を生む義務を強要されていることを警戒するものとして脱構築が語られている.今の場所を肯定してしまっては,理論の最後化が訪れる.絶えず問いを保たねばならぬのだ.問いは脱構築自身にも向けられる.

以上で『ポスト植民地主義の思想』のはじめの3章の読みを終える.本当なら最後に,今までの議論をまとめるべきだが,スピヴァク自身理論決定の最後化を拒んでいるし,肯定したものがすぐ否定されているし,否定されたものがすぐ肯定されているし,議論は錯綜しているので,要約など不可能だ.脱構築は相対主義だ,言葉の戯れだなどと批判されるが,「本物」の脱構築を身につけた人の言葉には,そんな批判を寄せつけない議論の深さがあった.

要約のかわりとして,ここで扱った文章以外のスピヴァクの文章の中から,スピヴァクがアイデンティティについてどう考えているのかをまとめてみる.

スピヴァクの議論のまとめにかえて

「 アイデンティティを必要とするとあなたは認めますか」という質問に対して,スピヴァクは「そう,認めます」(スピヴァク ; p243)と短く答えている.まるでたいした問題ではないといわんばかりである.主体という言葉はスピヴァクの文章に頻繁に出てくるが,アイデンティティという言葉は全く出てこないといってよい.本論文はアイデンティティと主体の明確な区別ができていないという批判もおきよう.しかし,個人という単位に基づくと考えられていたアイデンティティ概念を自己と他者との関わり,より密接に言えば自己による他者の排除と捉えたのが,ポスト構造主義であったし,自己と他者をさらに拡大解釈して,西洋による第3世界の排除と考えたのがサイードをはじめとするポストコロニアリズムであった.その文脈では,主体とアイデンティティはほぼ同じ概念として解釈され,ナショナリズムや文化へとアイデンティティ概念は広がっている.よって,スピヴァクが繰り返し言及している主体をアイデンティティの問題として捉えて,最後にそれがどう言及されているのかまとめてみたい.

スピヴァクの考えといいながらも,ここで取り上げるのはスピヴァクによる脱構築の説明である.脱構築は,主体が確立される過程を問う.主体が確立されるとき,中心ができる.中心ができると,常に周縁にあるものは排除され,隠蔽されてしまう.中心化は完了することがない.常に不完全である.絶えず周縁に排除したと思っていた他者が主体の中に混入してくるし,はじめからまったき主体の確立など不可能なのだ.
 
『脱構築が注視しているのは,このように中心に置くことの限界であり,指摘していることは,主体を中心に置く境界線が漠然としていることであり,(常に中心に置かれている)主体はこのような境界線を確実なものとして描かなくてはならない,という事実です』(スピヴァク 1992; p185)

『中心と目されるものは周縁をより巧妙に排除するため,周縁に位置する選ばれた者たちを歓迎する.そして公式的な説明をなすのも中心である.別のいい方をすると,中心とは,自らが表現することのできる説明によって定義され,再生産されるものなのだ.』(スピヴァク 1990; p108)

 歴史=物語について言えば,
 
『ある程度までわたしの示唆できることと言えば,歴史を多様な語りの生産として振り返ること,そしてそれからひとは物語化の終わりとなるような客観的分析となる考えを提供しないようにすること,それはひとがまた語りそれ自身の内部に囚われているからである,ということだけです.(スピヴァク 1992; p65)

となる.マルクス主義的な一直線で発展していく「唯一の歴史」という概念の暴力性を避け,物語の終わりとなる本来は不可能な理論化も避ける.

権力については,実践は全て制度の網の目に囚われているし,理論もまた実践と不可分に結びついていることを指摘している.制度外の場所などなく,全ての場所は必ず制度化されているのだが,それでもより許容のある新しい制度を創出できる可能性はある.学問内でその可能性を問い,実践を行うのが知識人としてのスピヴァク像である.さらにいうと,絡み合った理論と実践の関係を切断し,理論的で超越的な知識人ではなく,実践に集中する知識人として本人は活動したいようである.純粋などスピヴァクによればありえないので,実践の理論からの切断は純粋に完遂されないのだが,切断の概念は彼女の知識人としての態度表明として受け取れる.
 以上でポストコロニアリズムの思想家の中でも、最大の難解さを誇るスピヴァクの読解を終える.

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