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サリンジャー『フラニーとゾーイー』

この記事の最終更新日:2006年6月4日
フラニーとゾーイー
フラニーとゾーイーサリンジャー
新潮社 1976-04

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サリンジャーと言えば一般的には絶対に『ライ麦畑でつかまえて』ですが、文学の愛好家にとっては、グラース一家の物語こそサリンジャーであり、『フラニーとゾーイー』の哲学的対話がその究極到達点となります。

『ゾーイー』の主要登場人物はグラース一家の6番目の男の子、ゾーイーと末っ子フラニーの二人です。二人とも他の兄弟姉妹たちと同じように幼年時代、ラジオの人気クイズ番組「これが神童」に出演して、人気を博しています。

俳優をやっているゾーイーは、病的なまでに鋭敏になっている妹のフラニーのもとを訪れます。社会に批判の言葉を吐き続け、自身は家に閉じこもって祈りの言葉を唱えているかつての神童、極度の知性、フラニーの造形は、ひきこもっているサリンジャー自身の姿を想像させます。

ゾーイーは、精神的、知的価値が没落し、物質的価値がますます上昇している世界を嫌悪しつつ、祈りの言葉を唱えるフラニーを社会復帰させようと、救済の会話を試みます。

『単純な論理で考えれば、物質的な宝をほしがる人間とーー知的な宝でも同じことだけどーーそれと精神的な宝をほしがる人間との間に、ぼくの目に見える相違は全然ないね。きみが言うように、宝は宝だよ、なんていったって。そして、これまでの歴史に現れた世を厭う聖者たちの九十パーセントまでは、ほかのわれわれとまったく同じように、欲が深くて魅力のない人間だったようにぼくには思えるな』(p171)

ゾーイーの透徹した意見に対して、フラニーは自分だってそんなことはわかっていると答えます(世を厭って閉じこもるフラニーは、やはりサリンジャーの姿、実存に重なります)。この答えに対して、ゾーイーはフラニーの祈りの唱え方、神経衰弱を最低だと言い切ります。

ゾーイーはフラニーがかつて、新約聖書との絶縁を宣言したことを指摘し、フラニーはイエスのことをわかっていなかったし、今でもわかっていないと言います。

ゾーイーはフラニーの棄教宣言のきっかけとなったマタイ伝第六章について語り始めます。

『もう一つきみの気にくわなかったのはーー聖書のそこんとこをきみは開いていたんだがーー『空の鳥を見よ』というところさ。『播かず、刈らず、倉に収めず。しかるに汝らの天の父はこれを養いたもう』ここまではよろしい。これは美しい。ここなら賛成できる。ところが、すぐ言葉を続けて、イエスが『汝らはこれよりも遥に優るる者ならずや』と言うときーーここで幼いフラニーは爆発するんだ。幼いフラニーが冷然と聖書を棄てて、まっすぐに仏陀に赴くのはここのところさ。仏陀はかわいい空の鳥たちを差別待遇しないからね。(…)神にとって、人間は、どんな人間でもーータッパー教授のような人ですらーーやさしい、あわれな復活祭の鶏よりも価値があるなんて言う神の子も、体質的にきみは愛することも理解することもできないのさ』(pp188-189)

ゾーイーは、どんな人間にも価値をおくイエスのあり方を無視して、人間嫌いの自分を幸福にしてくれることを願いながら、自分の独自解釈による静謐なイエスに向けて「イエスの祈り」を唱えつづけるフラニーの、偏狭なあり方を批判するのです。

『きみはいつもエゴをうんぬんするけど、いいか、何がエゴで何がエゴでないか これは、キリストを待たなければ決められないことなんだぜ。この宇宙は神の宇宙であって、きみの宇宙じゃないんだ。何がエゴで何がエゴでないかについては、神が最終決定権を持ってるんだ。きみの愛するエピクテタスはどうだ? あるいは、きみの愛するエミリ・ディキンスンは? 彼女が詩を書きたいという衝迫を感じるたんびに、きみはきみのエミリに、そのいやらしいエゴの衝迫がおさまるまで、坐ってお祈りを唱えていてもらいたいと思うのかね? むろん、そうじゃあるまい! ところが、きみの友人タッパー教授のエゴは、これは取り去ってもらいたい。これは違うんだから、と、きみは言うだろう。そうかもしれない。おそらくそうだろう。しかし、エゴ全般についてきゃあきゃあ言うのやめてもらいたいな。本当にきみが知りたいのなら言うけれど、ぼくの考えでは、この世の汚なさの半分までは、本当のエゴを発揮しない人たちによって生み出されているんだ。たとえば、タッパー教授だが、きみの言うところから判断して、教授が発揮しているもの、きみが教授のエゴだと考えているものは、エゴでもなんでもなくて、何かほかの、ずっと汚ない、はるかに表面的な能力だな』(pp191-192)

フラニーは世間の俗人が見せるむき出しのエゴを嫌悪していますが、ゾーニーは、通俗的なエゴ概念に反対します。ゾーイーは、フラニーがエゴだと了解しているものは、エゴでも何でもなく、「何かほかの、ずっと汚い、はるかに表面的な能力」だといいます。ゾーイーが考える、通俗了解とは異なるエゴとは、「本当のエゴ」と言われ、エミリ・ディキスンのような詩人が詩を書く衝動、能力に等しいものと目されます。

ゾーイーはフラニーが唱える「イエスの祈り」は、実在していたイエスに向けられたものではなく、『お人形と聖者がいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求めるために祈ってることになってしまうんじゃないか』(p196)と指摘します。

フラニー的な、こうあって欲しいと思うイエスとは異なる、ゾーイーの考えるイエスとは、どのような存在者のことをさすのでしょうか。

『モーゼは接触を保たなければならなかった。しかし、イエスは神と離れてないということを合点してたんだよ』(p194)

いつでも神とともにあることを了解していた存在者として、イエスのことが語られます。どんなに離れていても、むしろ接触を求めずとも、神は近くにあることをイエスは了解していたのだと説明されます。

ゾーイーはフラニーとの対話を中断してグラース一家の長兄、シーモアが住んでいた部屋に向かいます。シーモアと次男バディの部屋にあるビーバーボードの表面には、様々な古典からの引用文が刻まれています。ゾーイーが読んだ引用文の最初のものとして小説内に記述されるのが、バガバッド・ギーダーからの引用文です。

『汝は仕事をする権利を持っているが、それは仕事のために仕事をする権利に限られる。仕事の結果に対する権利は持っていない。仕事の結果を求める気持を仕事の動機にしてはならぬ。怠惰に陥ることも禁じられねばならぬ。一挙一動、すべて、至尊の上に思いを致して行なうべし。結果に対する執着を棄てよ。成功においても失敗にあっても心の平静を保て。(書家の一人によって「心の平静を保て」という所に下線が引かれている)ヨガの意味するところはこの心の平静なのである。結果を顧慮しながら為された仕事は、さような顧慮なく、自己放下の静けさのうちに為された仕事にくらべてはるかに劣る。婆羅門の知識に救いを求めよ。結果を求めて利己的に仕事する者はみじめである』(p202)

サリンジャー自身の訓戒ともとれるこの文章は、この作品の結末で示されるゾーイーの見解と密接に結びついています。利益という結果を求めて行なわれる企業活動、ビジネスとは、心の平静を阻害するものであり、一喜一憂を呼びこむものであり、利己的な振る舞い、通俗的な「エゴ」の働きです。対して、自己放下の静けさのうちになされる、仕事のための仕事は、ゾーイーが考え、フラニーにもすすめている本当のエゴの働きではないでしょうか。

ヒルティー『幸福論』には、このような一節があります。

『本当の意味の理想主義は、明らかに、われわれが現実からすっかり遠ざかって、自分の夢想の世界にとじこもることで現実をごまかしたり、あるいはわざと現実を無視したりすることにあるのではなく、むしろ普通に行なわれているよりも一層深く世界を把握し、そしてこれを自分自身の内部において克服する点にあるのである』(ヒルティ「幸福論」第一部 p124より)

フラニーは、現実から遠ざかる、逃避としての理想主義に陥っていると考えられます。ゾーイーがすすめるのは、普通よりも一層深いエゴを開花させ、神経過敏に一喜一憂することなく、万人のための仕事をすることです。

ゾーイーはシーモアらの部屋から、フラニーの部屋に電話をかけて、対話を再開します。離れてありながら再開された対話でゾーイーは、フラニーが女優になる夢を棄てたことを非難します。

『「きみは俳優の世界は欲得ずくの奴らやダイコンだらけだという、刮目すべき大発見をしたね。ぼくの憶えてるとこでは、きみは、結婚式場の案内者が天才ぞろいでないからといって参っちゃった誰かにそっくりだったぜ。(…)そりゃきみには、今から最後の審判の日まで『イエスの祈り』を唱えていることもできるだろう。しかし、信仰生活でたった一つ大事なのは『離れていること』だということが呑みこめなくては、一インチたりとも動くことができないんじゃないか。『離れていること』だよ、きみ、『離れていること』だけなんだ。欲望を絶つこと。『一切の渇望からの離脱』だよ。本当のことを言うと、そもそも俳優というものを作るのは、この欲求ということだろう。どうしてきみはすでに自分で知ってることをぼくの口から言わせるんだい? きみは人生のどこかでーー何かの化身を通じて、と言ってもいいよーー単なる俳優というだけでなく、すぐれた俳優になりたいという熱望を持った。ところが今はそいつに閉口してる。自分の欲望の結果を見すてるわけにはいかないだろう。因果応報だよ、きみ、因果応報。きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のために芝居をやれよ、やりたいならーー神の女優になれよ、なりたいなら。これ以上きれいなことってあるかね? 少なくともやってみることはできるよ、やりたければーーやってみていけないことは全然ないよ」そこでちょっと言葉が切れたが「それにしても活動したほうがいいぜ、きみ。回れ右するたんびにきみの持ち時間は少なくなるんだ。ぼくはいい加減なことを言うんじゃない。この現象世界には、くしゃみする暇さえないようなものさ」』(pp225-226)

ゾーイーは『離れていること』、『一切の渇望からの離脱』、欲望からの離脱を説きます。『俳優というものを作るのは、この欲求ということだろう』と言うのにもかかわらず、ゾーイーはフラニーに俳優となることをすすめます。これは大きな逆説であるかのようです。フラニーは一見隠遁して、祈りを唱え、『一切の渇望からの離脱』を目指しているようだからです。しかし、ゾーイーの目からすれば、フラニーは人間の通俗的「エゴ」を嫌いつつ、そのくせ自分自身はエゴイスティックに幸福の実現を願う者に見えます。『渇望からの離脱』をすこぶる欲求しているフラニーに対してゾーイーは、かつてフラニーが夢見ていたこと、俳優になることをすすめます。俳優を目指すことは、それこそエゴイスティックな活動であるかのようですが、ゾーイーが考える、本当のエゴから生じる働きは、隠遁するよりずっと素晴らしいものです。本当のエゴから生じる活動は、くしゃみをする暇もないほど求められている活動なのです。

『じつはだね、きみ、うちに戻ってきたときに、観客の馬鹿さ加減をわあわあ言ってやっつけたろう。特等席から『幼稚な笑い声』が聞こえてくるってさ。そりゃその通り、もっともなんだーーたしかに憂鬱なことだよ。そうじゃないとはぼくも言ってやしない。しかしだね、そいつはきみには関係ないことなんだな、本当言うと。きみには関係ないことなんだよ、フラニー。俳優の心掛けるべきはただ一つ、ある完璧なものをーー他人がそう見るのではなく、自分が完璧だと思うものをーー狙うことなんだ。観客のことなんかについて考える権利はきみにはないんだよ、絶対に。とにかく、本当の意味では、ないんだ。分かるだろ、ぼくの言う意味?』(p227)

「他人がそう見るのではなく、自分が完璧だと思うものを狙うこと」は、文学の営みであり、視聴率、アクセス数、顧客満足をもとに活動する現代社会の通俗的な活動とは全く異なるものなのでしょう。しかし、だからといって、現代社会のあり方を馬鹿馬鹿しいとやっつけることは、もっともなことだが、やるべきことではありません。それは自分には関係ないことであり、本当のエゴに基づいて生きる者にとっては、くしゃみをする時間も残されていないのです。

最後に、グラース一家の長兄シーモアの輝かしい創造物、「太っちょのオバサマ」の思想が語られます。

『ある晩、放送の前にぼくは文句を言いだしたことがあるんだ。これからウェーカーといっしょに舞台に出るってときに、シーモアが靴を磨いてゆけと言ったんだよ。ぼくは怒っちゃってね。スタジオの観客なんかみんな低能だ、アナウンサーも低能だし、スポンサーも低能だ、だからそんなののために靴を磨くことなんかないって、ぼくはシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね。シーモアは、とにかく磨いてゆけって言うんだな。『太っちょのオバサマ』のために磨いてゆけって言うんだよ。(…)彼女は一日じゅうヴェランダに坐って、朝から夜まで全開にしたラジオをかけっぱなしにしたまんま、蠅を叩いたりしてるんだ』(p228)

フラニーもかつてシーモアから、太っちょのオバサマのために面白くやるんだと言われたことがあると言います。『とっても太い脚をして、血管が目立ってて。わたしの彼女は、すさまじい籐椅子に坐ってんの。でも、やっぱし癌があって、そして一日じゅう全開のラジオをかけっぱなし! わたしのもそうなのよ!』(p229)

現代で言えば、太っちょのオバサマは一日中テレビをつけっぱなしか、インターネット接続しっぱなしのオバサマになることでしょう。

『きみにすごい秘密を一つあかしてやろうーーきみ、ぼくの言うこと聴いてんのか? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。それから何十何百っていう彼の兄弟分もそっくり。シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分からんかね? この秘密がまだきみには分からんのか? それからーーよく聴いてくれよーーこの『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほからならいんだよ、きみ』(pp229-230)

こうして対話は終わります。サリンジャーは、1961年にこの作品を発表した後、1963年に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモアー序章ー』を発表したのを最後に、作品の発表を取りやめ、フラニーのごとく郊外にて隠遁生活を送っています。作家の生活と作品を結びつけることを、サリンジャーは極端に嫌いましたが、フラニーの悩みはサリンジャー自身の悩みであり、ゾーイーの助言は、サリンジャー自身への助言でもあるのではないでしょうか。


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