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(以下の文章は大学時代の卒業論文をもとに作成されています)
女性・ネイティヴ・他者―ポストコロニアリズムとフェミニズム トリン・T. ミンハ Trinh T. Minh‐ha 竹村 和子 岩波書店 1995-08 by G-Tools |
月が赤く満ちる時―ジェンダー・表象・文化の政治学 トリン・T. ミンハ Trinh T. Minh‐ha 小林 富久子 みすず書房 1996-09 by G-Tools |
ポストコロニアリズムの最重要思想家一人として,トリン・T・ミンハを取り上げる.サイードがフーコーのポストコロニアル的概念拡張,スピヴァクがデリダのポストコロニアル的概念拡張と暴力的に整理するなら,トリンはバルトのポストコロニアル的概念拡張と暴力的に整理することができる.もちろん,フーコーとデリダの思想は3人ともに批判的に受け継がれているのだが,バルトの痕跡が認められるのはおそらくトリンだけである.よって,バルトの文章と同じように,トリンの文章は軽やかに言葉と戯れる.飛翔的,夢想的にユートピア的言説が紡がれていく.
読む著作の説明をする.
『女性・ネイティヴ・他者』(1995,岩波書店)は,4つに分かれている.第1部では,女性の作家が書くとき,歴史的に何が問題になってきたかが扱われる.女に書くことができるのか,社会偏見の歴史を読み解かれている.第2部では,人類学者批判が行われる.マリノフスキー,レヴィ=ストロース,ギアーツなどの人類学者がいかにネイティヴの言語をはく奪してきたか,科学の欺瞞がポストコロニアル的視点から批判される.第3部では,第3世界の女のアイデンティティの問題が扱われる.そこで差異に基づくアイデンティティ論が語られる.第4部では,物語と歴史の違い,物語の持つ力について語られる.
『月が赤く満ちる時』は,前述の書に入れるにはあまりに非論理的かつ非西洋的なエッセイや論考が集められた「エッセイ集」のようなものである.というが,こちらの方が刺激的で示唆的な論考が多いと私は感じた.特に脱=神聖化された,政治化された芸術の実践を行う作家はどうあるべきかという論考が,いたる箇所に散りばめられていて,それがバルトの理論を継承・実践していて興味深かった.
スピヴァクのテクストは要約化を阻むような錯綜かつ複雑な議論であったが,こちらもまた違ったベクトルで要約化を阻む錯綜ぶりなので,2冊の本から示唆的な部分をある程度のまとまりをもって抜き出していくことにする.まず最初にアイデンティティと権力の問題についてまとめ,次に歴史と物語の問題についてまとめ,最後に芸術家,作品,観衆のあり方についてまとめる.
アイデンティティと権力について
トリンのアイデンティティに対する考え方は次の詩的な表現によって表されている.「「私」はそれ自体が,無限の層なのだ.」(トリン 1995; p146).
『アイデンティティはその独自性を抑圧せずに複数性を語ることもごく容易にするので,知に備わる異型性(heterology)はあらゆる自己表現の行為にめくるめくような祝祭的次元をもたらす.したがってアイデンティティが時間(世代)と空間(文化)を越えて,二重,三重に重なりを増すとき,差異は,外側からの拒否にもかかわらず,内側で花を咲かせつづける.そうした状況で彼女が必要にせまられて危険をおかすとしても,驚くにはあたらない.彼女はあえて混じろうとする.単一主義が押し殺すすべてのものを(言語的・視覚的・音楽的)言語に組み入れるべく,彼女はあえて国境を越える』 (トリン 1996; p20)
このように境界横断的で,内部に多様な複数性があり,時空間を超え無限に広がって行くアイデンティティ概念をトリンは提唱する.この無限のアイデンティティに対立するのは以下のアイデンティティ像である.
『「反駁の余地のない起源」のために必要な本物という概念は,強迫観念のごとき恐怖, 関連性を失ってしまうのではないかという考えの虜となる.すべてはきちんと整合性もっていなければならないのだ.存在の唯一つの法則を求めるあまり,他からの介入とか,散種とか,宙ぶらりんの恐れのあるものはすべて,忌み嫌われざるをえなくなる.始まりがあり,クライマックスが訪れ,そして終わらなければならないのだ.不足部分は充当し,相互に関連づけ,統合する』(トリン 1995; 150)
このような統一的,直線的なアイデンティティに対して,トリンは境界が1本でもないし,定まりもしないアイデンティティを対置する.
『女性はつねに事物,できごと,属性,義務,固着,分類,社会過程などの終わりのない見物人にさせられるという危険にさらされている.境界を修正する営みにおける挑戦とは,位置を明確に意識しながら,なおかつ移動しており偶発的でもあるような差異を生みつづけることにある.そこで唯一変わらずに強調されるものがあるとすれば,それは(性的・政治的な)境界,つまり,周縁と中心,赤と白といった両極のあいだをたえず行きつ戻りつする終わりのない往復運動である.(トリン 1996; p151)
なぜ,このような流動的アイデンティティが提唱される必要があるのか.それは中心に固定的に位置しようとするものが,周縁を抑圧するからである.権力構造の周縁に位置する「第3世界の女」が,絶え間なく中心と周縁の間を移動して(移動=置き換えを絶え間なくさせられてしまうという側面もある),中心にも周縁があること,周縁にも中心があることを明らかにする必要がある.脱中心化の戦略を取る場合,周縁がアイデンティティの起点となる.問われるのは権力構造である.
『周縁性を最終地点でなく出発点にするということは,周縁性を越えて別のいくつもの肯定と否定に向かうことを意味する.全体化をめざす大がかりな統合への動きが大規模な抑圧なしにおこなわれることなど考えられない.それは支配の効果を再流通させるための一つの方法となる.・・・置き換えは新しいかたちの主体性,快楽,強度,関係を生み出す.つまり,抵抗の道具を作り出す過程で,参照すべき価値体系そのものを集中的に注意深く検討するという批判的な営みを活性化するのである.全体主義が再生産されるという恐れはつねにある.それゆえ人はどんな立場にあっても,自身の文化では普遍的事実として信じられているが,実際には問題含みに見えるような価値をつねに注視しつづけねばならない』(トリン 1996; pp26-27)
以上がトリンの支配体制に対決するための流動的アイデンティティ概念の説明である.
歴史と物語の違いについて
歴史と物語については『女性・ネイティヴ・他者』の「おばあちゃんの物語」に示唆的な分析が載っているので,その議論をみてみる.サイードもスピヴァクも,歴史=物語と捉えるような言説構成であったが,トリンは歴史と物語の違いを明確に規定する.物語の持つ力,西洋権力に対する独自性を主張するのである.
トリンは,物語は世代から世代へと語り継がれる,全てを含む真実であると言う.
『何千もの人々が,自分が生きた過去や現在から得ることができる大きな贈り物.物語は,これから存在する私たち一人一人にかかっている.物語には,私たちすべてが必要だ.生まれつづけるために一緒に聞いてきたことを,記憶し,理解し,作り上げることが必要だ.ひとつの民族の物語.私たちの,いろいろな民族の,物語.物語,歴史,文学(つまり宗教,哲学,自然科学,倫理学)すべては一つに収斂する.それを原始人の道具とも,真実を伝えるためのもっとも簡単な媒介ともいう』(トリン 1995; p191)
トリンは,このように全てを包括し,伝え,伝わっていく物語から,あるとき事実と虚構を分ける歴史が独立していったと言う.「こうして,虚構と事実が互いに他を排除するまでとなり,虚構はたいていの場合,嘘であり,事実は真実と考えられてしまう」(トリン 1995; p192)トリンは,歴史が物語から分離して権威を主張し始める前は,事実でなくとも真実と認められることがあったのに,歴史が独立すると,物語は虚構のものとして排除され,歴史の扱う事実のみに真実性が与えられることになったと言う.トリンはしかし,古代では物語が歴史よりも真実なこととして認めらていた時代もあったと言う.
『アリストテレスが言うように,詩は歴史よりも真実なのだ.当時,文学(物語詩)という語りは,歴史よりも真実でなければならなかった.特定の時と場所に何が起こったかを語るときに,頼りとするのが歴史ならば,起こったかもしれない事柄だけでなく,はっきりいつとか,どこというのではなく,いつかどこかで起こっている事柄を語るには,物語が一番だ』(トリン 1995; pp192-193)
ここでトリンは歴史に対比して,物語の真実性を証明する方向には向かわない.むしろ,歴史が呈示する事実の真実性は虚構に過ぎないことを指摘する.物語は別に歴史のように事実と虚構に線を引く作業に懸命になる必要はないと言う.「文学と歴史は,かつて/そして今も,物語だ.」(トリン 1995; p193),「両方とも,事実という階層的領域の外に位置する一つの空間だということだ.」(トリン 1995; p194)つまり,歴史は事実を集積するというが,事実を集積して語ってしまった途端,歴史のテクストは物語になるということだろう.言葉は事実とは異なるものである.真実とは,「特定の時の外側,特定の場所の外側に位置するものなのだ.」(トリン 1995; p194).「真実は,もはや真実それ自身ではなくなったときに存在する.」(トリン 1995; p194).
現実にはありえないことが真実となるこの逆転現象をトリンは物語の中にみる.物語では,「世界の完全な歴史,世界の完全なヴィジョン,一生かかる物語」(トリン 1995; p194)を紡ぎ出す.しかし,これは裏を返せば大きな歴史の構想とも重なる.物語はその語りの真実性を主張しないのに対し,歴史は集めた事実が真実であることを声高に主張し,保存行為,蓄積行為を続ける.
「注意深く耳をすますことは,保存すること.けれども保存することは,また燃やすこと.なぜなら理解することは創り出すことだから.」(トリン 1995; p194)このように物語は内容を保存しもするが,大いなる母から母へと語り継がれる過程で内容はどんどん変容していく.語りの権威づけを必要としないのである.
物語の中で,アイデンティティが育まれて行く.しかし,そのアイデンティティは何ら固定的なものではない.「私は,鎖のようなこの継続のなかの一つの輪にすぎない.その物語は私であって,私ではなく,私のものでもない.」(トリン 1995; p196)
『私はそれらのなかに住み,それらが私のなかに住む.私たちは互いのなかに住み,その場所を所有しているというよりも,そこを訪れる者なのだ.私の物語は,まちがいなく私であり,またまちがいなく,私よりも古いものだ.私よりも若く,初めて人間になった者よりも古い.あまりにも測りがたく,あまりにも一つに閉じ込めておきがたく,あまりにも膨大であるために,それはあらゆる人間化の試みを超越してしまう.けれども私たちがやっていることは,人間化することであり,また人間化しすぎることだ.なぜなら終わりのない物語というヴィジョンは終わりもなく,中間もなく,始まりもなく,始めることも,やめることも,進展していくこともなく,後ろへ下がることも,前へ進むこともなく,ただ別の流れに注ぎ込む一つの流れ,どこまでも続く海の物語のヴィジョンは,狂女のヴィジョンだから』(トリン 1995; p197)
「全存在は〈話し 聞き 織り 産む〉行為に携わる.」(トリン 1995; p206)という強烈なアフォリズムを最後にして,トリンの物語論を終える.スピヴァクの論理的な語りの後では,いささか楽観的で,ノスタルジックな印象を受けたかもしれない.しかし,この物語論は論理的説得を臨んで書かれたものではおそらくないであろう.西洋の知でははかりきれない物語の力を語っているのだ.
『というのも,ここで言われている「総体的な知」とは,現実には名付けえないものだからだ.少なくとも,名付けようとすれば,かならず,知の「文明化」したディスコースが手ぐすね引いて用意している多くの穴の一つに,ずるずると落ち込んでいく危険を冒すことになるからだ.「口承伝統とは何か」という質問は,答えをまったく必要としない質問 回答なのである.文明化した人に,「口承伝説」なるものを捏造する人に, その彼に,それを定義させてみよう.なぜなら,「口承」と「書き言葉」,「書き言葉」対「口承」は,「真」と「偽」の概念と同様に,イデオロギーにどっぷりと染まってきた概念だから』(トリン 1995; p203)
芸術家,作品,受容者の関係について
芸術家はいかに振舞うべきかというトリンの論考をみる.トリンの脱神話化され,政治実践に携わる芸術家像は,サイードやスピヴァクのいう知識人像と重なる.
『月が赤く満ちる時』の多くは映画評論なのだが,映像作家としてトリンは自分の理論をところどころで述べていく.
芸術家は,支配体制に寄ることなく,資本主義の商品に自己の作品を位置づけることなく,作品を通して,観客に呼びかけるべきだとトリンは言う.「すなわち,この文脈で言われる「意識覚醒」とは,人々に未知のことを教えるより,むしろ人々の内部に内省的で批判的な能力を目覚めさせることを意味する,…映画を読むということは創造的な営みであり,この営みを挑発し誘発しはするが,統御はしない,そんな映画作りを私はめざしている」(トリン 1996; p158).創造的な読みを誘発するとは具体的にはどういうことか.
『今日必要であると思われるのは,観客の一人一人がもつユニークで(なおかつ)社会的な自己に訴えかけ,そうした自己の意義をそれぞれの個人的経験や背景に応じて知覚させ,その過程でどの観客も政治的に条件づけられており,かつ,他の多くの社会的な自己と結びついてもいるということを感じさせるような作品である.そうした作品は見る人に周囲の観客と自身の差異を認めさせる働きをもつが,それが可能になるのは,見る人の知覚を個性化するというより,彼女を,個人として,支配的な価値体系(中心的にであろうと周縁的にであろうと)に縛りつけるたぐいの個性化の過程をあらわにするからである.人が作品から,あるいは,作品に向かうことから,感じとる社会的挑戦を受けとめるには,映画のテクストを成り立たせているできごとを読み,かつ読みなおすことで,自身が意味の創出に参加する積極的な観客としての役割の担い手であるとの自覚をもつ必要がある』(トリン 1996; pp164-165)
いささか高圧的な文章である.なぜこれほど煽動的になる必要があるかというと,ハリウッドのような映画体制が問題となるからである.支配の問題を解決するためには,見る側の参加が必要なのだ.
『観客とは先験的に存在する所与のものだから,映画製作者はたんに観客の要求と呼ばれるものに合わせておけばよい,という思い込みは,そもそも観客の要求がいかにして作られるか,観客そのものがいかにして形成されるかという問題をなおざりにしている.・・・現在のメディアのシステムは,このシステムにとって望ましい観客から受け入れられるにはきわめて効率的かもしれないが,観衆がじかに創造の過程に貢献するための余地をほとんど残していない(たとえば,批評家と市民団体は,観客の一部として定義されてはいない).今日,私にとって,責任ある作品と思えるものは,何よりもまず,次のような作品である.すなわち,一方では,政治参加の姿勢とイデオロギー的明晰さをあらわにしながら,もう一方では,たんに指示的なものにとどまらず,本来的になんらかの問いかけを含むような作品,別の言葉で言うと,自身の物語を歴史に関連づけようとする作品,生きられた経験と表象の違いを認めようとする作品,闘いが消費の対象に変化しないように配慮を怠らない作品,そして最後に,作る側ばかりでなく,見る側にも責任を負わせるような作品である.実際,所与の解決などありえないのだから,見る側の参加なしにはいかなる解決も不可能だ』(トリン 1996; p218)
引用が長くなりがちだが,『月が赤く満ちる時』は西洋的に内容を要約させるような構造になっていないので,許して頂きたい.むしろ,トリンの文体を味わって欲しい.
積極的な読者の参加によってはじめて作品は完成へと近づく,決して完成はしないのだが.共同制作なのだ全ての行為は.
『解釈者たちの慣習的な役割は突き崩される.というのも,彼らの機能は「作品が何について語っているか」を述べるより,自らの言葉と表象の主体 性に注目することで,作品を完成へと近づけ,「共同製作」を達成することにあるからだ』(トリン 1996; p135)
最後に「差異」概念についての重要な提言をもってして,トリンの節を終える.
『私自身の映画で前景化される差異は,同一という言葉の反意語でもなければ,分離という言葉の同意語でもない.言い換えれば,差異はかならずしも分離主義を生じさせるものではないということである.差異の概念には違うという意味ばかりでなく,似ているという意味も含まれる.さらに,差異は葛藤を生むとはかぎらない.それは葛藤に隣接すると同時に,葛藤を越えた場所にも存在する.そこに往々にして混乱が生じ,かつ,チャレンジも発生する』(トリン 1996; p219)
トリンはドキュメンタリー映画において,ヴォイスオーヴァー・ナレーションの「統一的な声」か,一連の目撃者たちの「対立的ないし衝突的な声」の,いずれか一方が「声」として選択されていることを批判する.
トリンは自身の『ありのままの場所』という映画で,「たがいにちがっているが,反目し合ってはいない」(トリン 1996; p220)3つの声,差異を並列させた.観客の多くは解釈の混乱をおこしたという.「なぜなら,私たちは,声がどの位置にあるかを考えながら,耳を傾けたり,差異を対立以外のものとしてとらえたりすることに慣れていないからだ.」(トリン 1996; p220)
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