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書評:シェリング『人間的自由の本質』

この記事の最終更新日:2006年5月28日

世界の名著 43 フィヒテ・シェリング (43)
フィヒテ シェリング 岩崎 武雄
中央公論新社 1980-05
(フィヒテ『知識学への第一序論』『人間の使命』、シェリング『ブルーノ』『人間的自由の本質』『哲学的経験論の叙述』所収)



シェリングはドイツ観念論の哲学者です。ヘーゲル、ヘルダーリンとともにテュービンゲン神学校に学び、途中神学から哲学に転向します。

シェリング理解のために、ドイツ観念論、フィヒテやヘーゲルの思想理解が必要です。ドイツ観念論はフィヒテによるカント哲学批判から生まれ、シェリング、ヘーゲルへとつながれていきます。ドイツ観念論に対する理解、対決からキルケゴールの実存主義、マルクス主義、ニーチェの反ニヒリズム、ハイデガーの存在論、デリダらの形而上学批判が形成されていきます。すなわち、ドイツ観念論に対する見識は、西洋哲学史を語る上で欠かせません。

ドイツ観念論とは何か。絶対者、これは神とほぼ等しい存在者ですが、絶対者と呼ばれる観念的原理が自己展開することによって、世界および人間が動いている、歴史が発展していくと考えるのが、ドイツ観念論です。これはおおまかな呼び習わしにすぎず、もちろん個々の哲学者では全く考えが異なります。

カントは神の領域と人間の領域に明確に線を引きました。人間は神の領域、すなわち物自体(事物の本質)が存在する超感性世界を認識できないとされました。カントによれば、人間は悟性によって一つ一つ異なる現象を認識することになります。個々ばらばら現象しか認識できないからといって、カント哲学は、客観的共通了解が成り立たない非合理主義ではありません。物自体の客観的、超感性世界の存在を肯定している点が、ヒュームなど経験主義者とカントとの相違点です。決して認識できないのですが、超感性世界が存在しているからこそ、我々は物事についての共通了解を成立させることができるのです。

理論理性である悟性は現象界しか認識できないのですが、実践理性(信仰、行為など)は現象界の中には見出しえない超感性的な自由、道徳を立法しうるとカントは考えました。人間は何も考えなければ、自然現象に振り回されて享楽的に過ごすことになるのですが、実践理性を使用して、現象界には存在しない道徳的法則を自己に課すことによって、道徳的生活を送ることができるとしたのです。

世界を認識する理論理性の自我と、行為する実践理性の自我は、カントにおいて明確に線引きされています。ドイツ観念論の創始者とみられるフィヒテは、カントのいう理論的自我は外界に対して受動的であり、実践的自我は能動的であると分析しました。フィヒテによれば、理論的自我は、自分という存在に逆らう存在として、対象を認識します。あらゆる対象は己に逆らってくるものとして自我に認識されます。この抵抗、阻害を乗り越えて行くこと、外界に対して確固とした自己を定立することが、自我の働きであるとフィヒテは考えました。

自我は非我と対立し、かつ乗り越えて行く強い意志と解釈されたのですが、純粋な意志としての自我を見つめて行くと、あらゆる対立を超越した絶対的自我、絶対者が見定められます。対立のない絶対者は神のごとき無限の存在者ですが、有限的自我は絶対的自我となることを目指して活動しているとも考えられます。絶対的自我は神そのものでなく、有限的自我が世界に対決する根拠となる理念だとも言えます。

自己意識の展開というフィヒテの哲学を、シェリングは受け継ぎます。フィヒテにとって、自我と対立するのは非我だったのですが、シェリングにおいて自我と対立するものは、自然です。自己の外に客観的に存在する自然は、つきつめると絶対者が創造したものだと考えられます。絶対者は、人間をも、自然をも創造します。シェリングは、全ての事物には絶対者の精神と実体が行き渡っていると考えます。

フィヒテにあっては、絶対的自我は己の意志で世界に自立しようとする、自己活動の根拠となるものでしたが、シェリングにあっては、絶対者は世界の世界性、何故世界が存在しているのかという問題の根拠となります。

前期シェリングのスピノザ主義的な無差別、同一哲学は、学友であったヘーゲルの『精神現象学』によって徹底的に批判されます。無差別の絶対者からどうして人間や自然という有限者が生まれてくるのか、分離されてくるのか、分離が生まれた瞬間絶対者は有限者となるのではないか。シェリング自身もこの矛盾に悩みます。

『人間的自由の本質』においてシェリングは、神の実存と、神が存在していることの根拠となるものをわけて考えました。神の実存とは神が存在していることそのものです。人は神の本質と考えられているものを認識する時、神の実存を信じます。神の本質とは、神を神として認識するための属性です。本質とは、プラトンにとってはイデア(理念)であり、アリストテレスにとってはエイドス(形相)です。神という存在者の本質を認識したからといって、何故神は存在しているのかという、神があることの根拠に答えることはできません。形而上学的に、神の本質を認識することによっては、神の存在理由を証明できないのです。

対して、シェリングは神の実存の根拠となるものを、神の自然と定義します。神の自然は、ハイデガーの言う存在に近い概念です。神の自然とは、神そのものではないが、神に付随して、神があることを証明するものです。

『おのれの実存のこの根拠は、神が自分のうちにもつものではあるが、それは、実は絶対的に見られた神ではないのである、すなわち、実存するかぎりの神ではないのである。なぜなら、その根拠は、実のところまさに神の実存の根拠にすぎないからである。その根拠たるものは自然でありーーしかも神のうちの自然なのである。神からたしかに切り離すことのできないものではあるが、しかしやはり神とは区別される一存在者なのである。』(pp427-428)

神が実存することの根拠は、神の実存に先立ちますが、同様に、この根拠は神が存在しなければ根拠とならないのだから、神の実存は根拠に先立ってもいます。この通俗的時間解釈ではとらえきれない、実存と実存根拠の入り交じった関係は、ハイデガーの存在者と存在の関係に近似しています。

神の実存と、実存根拠である神の自然を区別したことにより、何故絶対者から諸事物が生み出されるかも説明できるようになります。

『神から区別されるためには、諸事物は、神とは異なった根拠のうちで生成するのでなければならない。ところがしかし、神以外には何ものも存在しえないわけであるから、そこで、この矛盾は、次のような仕方でしか解決されえないことになる、すなわち、諸事物はその根拠を、神自身のうちの神自身で在るのではないもののうちに、もつ、つまり神の実存の根拠であるもののうちに、もつということ、これである。』(p429)

上記の文章について、『これこそは、唯一の正しい二元論である、つまり、二元論でありながら同時に統一を許すところのものなのである。』と補注で言われます。

諸事物は絶対的に一者である神からは生成しません。神の実存から別のものが生成してしまっては、神は一者ではなくなるからです。諸事物は、神の実存の根拠から生成します。

『それは、神を、すなわち測り知れない統一を、生み出そうと欲するが、しかし、そうであるかぎりは、この憧憬自身のうちには、まだ統一はないのである』(p429)

神がそれほど問題にされない現代の立場からすれば、何故ここまで神にこだわるのか理解しがたいのですが、神と人間に区別をつけることが、当時は大きな課題だったのでした。全てが神によって定められているとすれば、人間に自由は許されません。人間という存在者はどこまで神と隔たっていて、どこまで自由に行動できる存在者なのか。我々は何故自由が許されているかのような世界に生きているのか、我々はどう存在すべきかという問題が、シェリングにとって大きな問題だったのです。

シェリングは、今までの哲学は事物の本質、属性、「あの事物は何であるか」を見定めようとするにすぎないとし、自己の批判者であるヘーゲルや、自分自身の同一哲学も含めて、既存の哲学を消極哲学と呼びました。対して「何故、何かがあるのか」という事物の実存、存在理由を問う新しい哲学を積極哲学と呼びました。

本質と実存を区分けし、実存の存在根拠を思考するシェリングの積極哲学は、ドイツ観念論の集大成であり、かつキルケゴールの実存主義、ハイデガーの存在論の思想的萌芽となっています。

関連作品

人間的自由の本質について ハイデッガー全集 第31巻
ハイデッガー 斎藤 義一 ヴォルフガンク・シュラーダー
創文社 1987-12

(ハイデガーによるシェリング『人間的自由の本質』講義です。実存、存在などハイデガー存在論の多くがシェリングの哲学に寄っていますので、ハイデガー理解の助けにもなる必読の書籍です)

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